Episode6. 失恋の罠
リリアは、公爵としての重い足音を廊下に響かせ、セドリックの滞在する客室へと向かった。
心臓が早鐘を打っている。アルベルトがあれほどまでに言葉を濁し、逃げるように部屋を去るなど、尋常な事態ではない。
(セドリック、あなた……アルベルトに一体何を吹き込んだの……!)
客室の前に立つ衛兵を下がらせ、リリアは扉を叩いた。
「殿下、私です。少々、よろしいでしょうか」
返る声は、驚くほど穏やかで、淀みのないものだった。
「ああ、どうぞ」
入室したリリアを待っていたのは、豪奢なソファに深く腰掛け、暖炉の火を眺めながらワインを愉しむセドリックだった。彼は上着を脱ぎ、くつろいだ様子でリリアを振り返ると、親しみやすくも気品ある笑みを浮かべた。
「やあ、アルベルト。今日は大変だったね。仕事は無事、片付いた?」
「……ええ。お陰様で」
「それは何よりだ。リリーも君のことを心配していたよ。……それで、一体何の用だい? こんな時間に訪ねてくるなんて、珍しいじゃないか。まさか、僕と酒を酌み交わすために来た……というわけではないだろう?」
「……っ」
探るようなセドリックの物言いに、リリアは声を荒らげそうになった。
けれど、必死に動揺を隠す。今、自分は冷徹な公爵だ。冷静でいなければ。
「リリアから、殿下が指輪を失くされたと聞いたものですから」
リリアは必死に思考を回し、不自然のないように、昼間の話題を上げる。
すると、セドリックは興味なさげに目を細めた。
「……ああ、そのことか。指輪なら見つかったよ。テーブルの下に落ちていたのを、さっき見つけたんだ。リリーには手間をかけさせてしまったな。君から、『指輪は無事見つかった』と伝えておいてくれるかい?」
セドリックは、リリアに見せびらかすように右手を掲げる。その中指には、見たことのない銀色の指輪が嵌められていた。
「……ええ、伝えておきます。ところで……指輪を探しているとき、他に、何かありませんでしたか?」
「何かって? どうしてそんなことを聞くんだい?」
「……いえ、その。少し、リリアの様子がおかしかったものですから」
「ふうん。君がリリーのことを気に掛けるなんて珍しいね。……彼女のことなんて、興味ないんじゃなかったっけ」
どこか冷めたような、それでいて、挑発するような口調。『興味がない』という鋭い指摘。
リリアの心臓が、ツキンと痛んだ。
「……そう、ですね。ですが、一応は、婚約者ですし……」
自分で口にしていて、情けなくなる。
『一応は婚約者』だなんて、アルベルトの声で言いたくなかった。
セドリックは、そんなリリアの心など知らぬ様子で、ワイングラスの中の琥珀色の液体を満足げに見つめた。
――暖炉の炎が、パチパチと弾ける。
セドリックはその音をじっくり味わうようにグラスを数回軽く揺らし、極めて誠実なトーンで答えた。
「僕はただ、少し、『君の話』をしただけだよ」
「――!」
リリアの鼓動がドクンと跳ねる。
「……私の、話?」
「ああ。僕は彼女に、『そろそろ素直になったらどうか』って伝えたんだけど。……そうしたら彼女、急に黙ってしまって。少し、可愛がりすぎたのかもしれないな。指輪の件と合わせて、君から謝っておいてくれるかい?」
「……っ」
その瞬間、リリアの背筋に、氷を押し当てられたような衝撃が走った。
(……『そろそろ素直になったらどうか』ですって? セドリックが、いつもの調子で……?)
リリアの脳内で、疑念が確信に変わる。もしやとは思っていた。でも、違っていてほしかった。
アルベルトが、自分の彼への恋心を知ってしまったと、思いたくなかった。
だが、今のセドリックの言葉で、確定した。
アルベルトは知ってしまったのだ。『疎ましく思っている婚約者に、好かれている』ことを。
そして、それに対するアルベルトの反応こそが、あの「凍り付いたような表情」であり、指輪の特徴さえ忘れるほどの「混乱」であり、逃げるような「拒絶」だったのだ。
(……ああ、そう。そういうことなのね、アルベルト)
自分を嫌っていると思っていた女から、実は好かれていると知らされた男の、形容しがたい嫌悪。あるいは、返答に窮するほどの「迷惑」という感情。
リリアは、アルベルトの身体で流しそうになる涙を、必死に抑え込んだ。
「……そう、ですか。……わかりました。彼女に、伝えておきます、殿下」
リリアは、絞り出すような声でそれだけを告げ、逃げるように部屋を辞した。
背後で、セドリックの「君からフォローしてやってくれ」という、無邪気さを装った声が聞こえたが、もはや振り返る余裕はなかった。
廊下を歩くリリアの視界は、絶望で滲んでいた。
(アルベルトに、一番知られたくない形で知られてしまった……。これじゃ、身体が元に戻っても、もう二度と……)
一方、アルベルトはハンスの待つ執務室には向かわず、暗闇に包まれた地下室に逃げ込み、リリアの小さな掌をじっと見つめていた。
彼の脳裏に、昼間の温室でのセドリックとのやり取りが、何度も何度も、執拗にリフレインする。
昼間――あの温室で起きた出来事。
それは、セドリックとの接吻――ではなかった。
セドリックにキスされると思ったアルベルトは、寸前、身を守るように固く瞼を閉じたが、それと同時に唇に触れたのは、もっと別の違和感と、セドリックの無邪気な笑い声だった。
そっと目を開けたアルベルトの唇に触れていたのは――セドリックがどこからともなく取り出した、「くまのぬいぐるみ」。
その口が、リリアの可愛らしい唇と接触していた。
「……ぬ、ぬいぐるみ?」
アルベルトは困惑した。もはや、リリアの仮面を被ることを忘れ、茫然と立ち尽くす。
そんなアルベルトに、セドリックはあまりにも穏やかに――そう、まるで、兄が幼い妹をあやすような口調で、こう言い放ったのだ。
「ふふっ、冗談だよ。まさか、本当に僕にキスされると思ったの? やだなぁ、僕たちは兄妹みたいなものじゃないか。兄妹で唇にキスはしないだろう? 可愛い僕のリリー」
「………………は?」
リリアの高いソプラノが、更に一オクターブ高く、裏返る。
この男は、今、何と言った……? リリアのことを『妹』だと、そう言ったのか?
それは、まさに、アルベルトの『セドリックとリリアが恋仲』であるという思い込みを、根底からぶち壊す爆弾発言だった。
セドリックは、もはや言葉一つ返せないアルベルトを見下ろし、笑みを深める。
「どうしたんだい? リリー。僕、何かおかしなことを言ったかな?」
「………………」
その時。入口のドアが開いた。
慌てた様子のセドリックの護衛騎士が、三人なだれ込んでくる。
「殿下! ご無事ですか……!」
「急にお姿が見えなくなり、心臓が止まるかと!」
「必ず我々をお連れくださいと、いつも申しておりますのに……!」
「ああ、すまない。屋敷内だから大丈夫だと思ったんだが、まさか閉じ込められるとは……」
セドリックは騎士たちに向かって淀みなく答えると、アルベルトに向き直った。
「……鍵、開いて良かったね。行こうか、リリー。部屋まで送るよ」
満面の笑みで微笑んで、アルベルトの手をしっかりと握ると、兄のように頼もしく、手を引いて歩き出す。
その背中を、アルベルトは茫然と見つめていた。
(……妹。………妹、だと?)
確かに、こうして手を引かれていると、兄妹のように思えなくもない。
――いや、だが、もしそうだとしたら、さっきの『僕だけを見て』という発言は何だったんだ? あれは間違いなく、愛する女性に向ける視線だった。それなのに、あんな風に抱き締めておいて、今さら、妹だと?
わからない。何もかもがわからない。
しかし、もし、セドリックの『妹発言』が真実ならば、それはつまり、自分にもまだチャンスは残されているということだ。
そして、それは同時に、『リリアがセドリックに失恋した』ことを意味する。
(……失恋? 俺の愛するリリアが、失恋だと? そんなことが許されるのか? 彼女の想いが実らないなんてこと、あっていいはずが……)
アルベルトは、暗い地下室で冷たい壁に寄りかかり、頭を抱える。
「……ああ、リリア。…………俺は、どうしたら……」
もはや、アルベルトの思考は限界を突破していた。
――『妹』『リリアが失恋』『チャンス』
感情がごちゃ混ぜになり、意識を混濁させる。思考が、闇の底へと沈んでいく。
「………俺は……、……俺、……は…………」
これから、自分はリリアとどう接したらいいのか。今日の出来事を、どうやって彼女に伝えればいいのか。
失恋を知った彼女が、もし泣き出したらどうする。そのとき、俺は、失意の彼女を抱き締めるのか? 彼女の弱っている心に、漬け込むようなことが、許されるのか?
いや、それどころか、彼女は俺を責めるかもしれない。
『あなたがもっと早く私を解放してくれれば、こんなことにはならなかったのに!』
そんな風に涙を流されでもしたら、俺は、これから先、どう生きていったらいいかわからない。
――いいや、そもそも、俺に、彼女を好きでいる資格はあるのか?
十七年。彼女を縛り続け、彼女の想いを、自由を、セドリックへの恋心を飼い殺してきた俺に、彼女への愛を語る資格はない。
そもそも、生きている価値があるかどうかすら、危うい。
寧ろ、今ここで、俺は死ぬべきなのでは……?
「………………ッ」
アルベルトは、冷え切った地下室で、何時間も、リリアの小さな膝を抱えて固まっていた。
そうして、地下食品庫係の使用人が偶然そこを通りかかったとき、リリアの身体はすっかり冷え切ってしまっており、その代償として、アルベルトは三日三晩、高熱でうなされることになったのである。




