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慈悲なき制裁


 身体の奥深くまで染み渡る熱と香り、そしてこの苦み。


 この感覚を、私はたまらなく愛している。


 一杯のコーヒーを楽しむ方法は、人によって異なるだろう。あるいはこの楽しみをコーヒーではなく紅茶に見出す人もいるかもしれない(実際、ノヴォシアではコーヒー派と紅茶派が半々といったところだ)。


 人のコーヒーの飲み方にまでとやかく言うつもりはないが、個人的に砂糖やらミルクやらを入れるのは、コーヒー豆に対する冒涜だと考えている。この風味を消し、甘ったるい味に変える事に何の価値があるというのか。だからマカールの奴とはこの時点で好みが分かれている。


 それとミカエルの奴とも、か。マカール曰く『ミカエルは甘いものが大好き』なのだそうだ、きっと紅茶とかコーヒーを飲む時も砂糖をドバーッと入れ、ミルクもドゥアーッと混ぜているのだろう、そうに違いない。お兄ちゃんの目は誤魔化せませんよ。


 ドチャクソ冷える地獄のようなザリンツィクからキリウに戻り、自分の執務室でこうして休憩すること10分。キリウよりもザリンツィクの方が南部にあるので比較的暖かい筈なのだが、ミカエルを訪ねてザリンツィクに出向いた時はまあ寒かった。厚着でもっふもふになった弟を見たら元気になったが。


 手元にある新聞紙を広げ、記事に目を向ける。ザリンツィクで強盗事件、という記事の見出しで目が止まり、無意識のうちに口元に笑みが浮かんだ。


 ああ、やったんだなミカエル。


 記事では3人の女が犯行に及んだ、という事が書かれているが、私には分かる。これをやったのはミカエルだ、と。


 強盗犯に盗まれたのはどういうわけか”バザロフ家の資産のみ”。他の金には目もくれず、バザロフ家の金だけを盗んでいったという。


 これは宣戦布告だな、間違いない。ミカエルの奴、ミニマムサイズで可愛い弟だと思っていたが、なるほどあの可愛い見た目の内側にはなかなか黒いものを秘めている。子猫の中身は虎であったか。


 ジリリリン、とデスクの上の電話が鳴る。どうせマカールだろ、と思いながら受話器を手に取り、「はい法務官」と短く名乗る。案の定、受話器から聞こえてきたのは聞き慣れた弟の声―――姉弟の中でたぶん一番大変なポジションにいるであろう、我が家の次男坊だった。


『兄上、マカールです』


「用件は察しが付くよ。大方、新聞記事の事だろう?」


『話が早い、さすが兄上』


「誉めてもおやつくらいしか出ないぞ」


『兄上イケメン、惚れちゃいそうです』


「気色悪いなお前」


『酷いですね兄上』


「まあいい。ところでこのタイミングで連絡してくるという事は、お前も同じ結論に至ったか」


『ええ。この強盗事件、犯人はやはり―――』


 執務室の中には誰もいない……盗み聞きの恐れがない事を確認してから、私は話を続けた。


「そうだとしても、証拠がない」


 ”疑わしきは罰せず”―――ノヴォシア帝国における法の大原則である。容疑をかけたからといって即座に逮捕せず、証拠を十分に固めてから逮捕するべし。法務官も、そして憲兵も新米の頃に真っ先に教わる大原則。それは今でも変わらない。


 確かにこの強盗の犯人はミカエルだろう、そうとしか思えない。リガロフ家での略奪行為にリーネでの花嫁強盗及びレオノフ家での強盗行為、そしてザリンツィク中央銀行の襲撃。どれもこれもミカエルが移動したルート上で起こっており、手口も似通っている。


 が、逆に言うとそれだけだ。あくまでも疑惑だけであり、ミカエルが犯行に及んだ、あるいは関与したという証拠がない。これだけでは奴を容疑者として逮捕する事も出来ない。


 まあいい、そんなことはどうでもいいのだ。


 問題はこれから起こるであろう事である。


「マカール、お前がミカエルの立場だったら次の一手はどう出る」


『……俺だったら、バザロフ家に忍び込みます』


「どうやって」


『危険な賭けですが……この資産の強奪を受け、増員されるであろう警備員に紛れ込みますね。そして奴の言う”証拠”とやらを盗み出します』


「奇遇だな、私も同じ手を考えていた」


『……ということは、やはり』


「ああ」


 じっと窓の外を見た。


 鈍色のキリウの空、その果てにはザリンツィクがある。中央銀行の襲撃、そしてバザロフ家というザリンツィク議会の重鎮たる大貴族の資産だけをピンポイントで狙うという、前代未聞の強盗事件にざわめく街が。


「―――レギーナめ、とんでもない子を生み落としたものだ」


 その小さな声は、冷たい執務室の中へと消えていった。












 当たり前だけど、ノヴォシアは冷える。


 ノヴォシア地方から見て南西に位置するイライナ地方も例外じゃあない。とにかく寒い。この国がどんな国か、と海外の人に聞いたら、間違いなく「やたらと冬が苛酷な国」と答えるに違いない。


 そんな環境だから、どの建物にも暖房設備が充実している。特に大きな貴族の屋敷ともなれば、地下に大きなボイラーが備え付けてある。そこで機械を動かすための蒸気をある程度確保しつつ、その熱を暖房に転用するという発想だ。あたしの実家―――レオノフ家の屋敷もそんな感じで、幼い頃はよく部屋の窓から、石炭を運び入れていく商人たちの姿を見守っていたものだ。


 バザロフ家も例外ではない。ミカ達と別行動を始め、バザロフ家の地下にあるであろうボイラー室を探すこと5分。施錠された扉をピッキングで解錠したあたしの目の前に、それはドドンと鎮座していた。


「わお、これね」


 大量の石炭を喰らい、その熱を屋敷の全体へと伝達する大型のボイラー。これで生み出す蒸気を正門とかエレベーターとかの動力源として利用しつつ、熱を暖房として活用する―――厳しい冬を乗り切るためには無くてはならない代物だった。


 幸い、ボイラーの面倒を見る人員は留守みたいだった。駄目じゃないの、ちゃんと面倒を見てなきゃ。あたしみたいな悪い奴が小細工しても知りませんよ、っと。


 ポケットに隠していたスモークグレネードを1つ取り出しながら、ボイラー室のすぐ隣にある部屋―――熱気を屋敷全体へと送るためのファンがある部屋へと向かう。


 点検用ハッチを探し、ポケットの中からラチェットを引っ張り出した。一旦スイッチを切ってファンを停止、安全を確保してから点検用ハッチのボルトを外していく。


 点検用ハッチが外れ、随分と煤が付着した配管の内側が露になった。中からはボイラーからの熱気が溢れ出てきて、このままでは照り焼きにされてしまいそう。猫の照り焼きなんて笑えない。


 スモークグレネードの安全ピンを外してからそれを配管の中へ投げ入れ、点検用ハッチを元通りにする。ぎっちりと、それこそボルトを切断でもしない限り外れないくらいぎっちぎちにハッチを閉め、再びファンを起動。スモークグレネードの中身が屋敷の全域へ行き渡るように細工する。


 さてさて、これでこっちの細工は済んだ。


「バレットより各員、細工は完了。繰り返す、細工は完了」


『こちらグオツリー、了解。こっちも証拠を確保した』


「あら、早いのね。じゃあ予定通りに合流地点で」


『了解した』


 さて、”下準備”はこれでOKかな。


 あとはミカ達と合流して装備を回収、次の標的となる宝物庫を狙うだけ。


 え、さっき投げ込んだスモークグレネードは何かって? ああ、あれはパヴェルが作った睡眠ガスグレネードの一種よ。常温だと効果がないけど、【一定量以上の水分及び高温で効果を発揮する】という特殊な睡眠ガスらしいの。


 アイツ、前々から思ってたけど何なのかしらあの技術力。冒険者やるよりフリスチェンコ博士みたいに発明家にでもなった方が良いんじゃないかしら。絶対そっちの方が食べていけると思うんだけど……帝国からも重宝されるだろうし。


 まあいいわ、これでもう少しすれば睡眠ガスが屋敷内の全域に行き渡る。そうなれば警備兵たちも眠りに落ちるか、そうでなくても意識が朦朧としてまともに戦えない状態になるはず……とはいっても、パヴェル曰く『試作品だから過信するなよ』との事だけど。


 ボイラー室を出て、裏庭へと向かった。途中、重々しい足音を響かせながら歩いてきた戦闘人形オートマタとすれ違ったけど、幸運な事にスキャンされるようなことも無く、脇を素通りできた。もしここで偽物の憲兵だということが露見したら最期、あの巨大なブレードの餌食になるのは確定だったと言っても良い。


 はあ、生きた心地がしない……。


 遠ざかっていく戦闘人形オートマタの後ろ姿に安堵しつつ、裏庭にある庭師たちの倉庫へと向かう。真っ白なレンガで造られた、ちょっとした小屋程度の大きさの倉庫。誰にも見られていない事を確認してから扉をノックし中に入ると、中から「入れ」というミカの声が聞こえてきた。


 あらら、先を越されたみたい。


 中に入ると、既にミカたちが着替えているところだった。憲兵の制服を脱ぎ捨て、代わりに持ち込まれたダッフルバッグの中に納まっていた強盗装束に着替えていくミカとクラリス。あたしの分は、と問いかけるよりも先に、作業台の上にある黒いダッフルバッグが目に入った。あたしのだ。


 一体どうやって持ち込んだのか、と思う人のために説明すると、どうやらパヴェルが事前に潜入して装備を持ち込んでくれていたらしいのよね。庭師に成りすまして装備を持ち込みつつ、屋敷に関する情報を集めていたってわけ。そういう工作や情報収集は彼が最も得意とする分野と言っても良く、あたしたちがやる事はそれを元に作戦を立案、実行し大金を持ち帰る事だ。


 ダッフルバッグの中身―――強盗装束に着替え、中に納まっていた銃と弾薬箱を引っ張り出す。LAD軽機関銃、中央銀行襲撃の時にもお世話になった拳銃弾仕様の軽機関銃だ。前回との違いはゴム弾の他に実弾も用意されている事くらい。


 ゴム弾は対人用、実弾は対戦闘人形用。しかも貫通力UPを期待し、装薬を限界まで増量した強装弾仕様。それが特注の300連ベルトに連なり、大型弾薬箱の中に入っている。


 ミカとクラリスの装備も同じように、ゴム弾と実弾の入ったマガジンが用意されているみたいだった。


 着替え終え、LAD軽機関銃を抱える。ストックはミカのAK-19と同じものに換装、銃身は半ばほどまで特注のM-LOKハンドガードに覆われていて、左斜め下へとフォアグリップが伸びている。


「さて、行くか」


 AK-19を肩に担ぎ、ガスマスクで顔を覆ったミカが言う。


 淡々としているようで、しかしどこか楽しそうな雰囲気が滲む彼の声音。


 これから行うのはザリンツィクの貧民たちを苦しめていた貴族たち、その主犯格への徹底的懲罰。疫病の意図的な蔓延という禁忌タブーを公にした挙句、資産を根こそぎ奪っていくという、下手をすれば死よりも辛い制裁。きっと彼はそれが―――その制裁が、貴族共に課されるその瞬間が楽しみで仕方がないのだ。


「ええ、行きましょ」


 ガスマスクを被ってからコッキングレバーを引き、私もその声に応える。


 さあ、行きましょう。


 徹底的な制裁に。













 何たる失態か。


 荒らされた書斎の中を見つめながら、バザロフはひたすら拳に力を込め続けていた。ぶるぶると肩が震えるが、これは警備員たちの失態に対する怒りだけではない―――拙い事になった、という危機感に由来する恐怖も混ざり合ったなんともまあ複雑な感情が、肥え太った彼の内面で渦を巻く。


 執事であるデニス以外に原則として出入りを禁じていた書斎。それはここに彼らだけの”秘密”を保管していたからに他ならず、秘密を共有するに足る信頼を寄せる相手以外は、誰もここに立ち入らせたことがない。


 解錠され、中に入っていた成人向けの雑誌諸共持ち去られた手紙や書類のあった引き出しの中は、今ではもう空っぽだ。


(まずい、まずい、まずい……ッ)


 あの中にあったのは(成人向け雑誌を別として)自らの地位を脅かすものだ。祖先の代からここまで積み上げてきた権威と財産。それが公になれば、今まで積み上げてきたそれらが全て灰燼に帰す。


 ザリンツィクで冬を確実に越すための、食料確保を目的とした人口削減計画。疫病を意図的に蔓延させ、貧困層の排除を狙った計画の指示書に他の貴族や研究者とのやり取りの全てが、ここにあった。ここにあった”はず”なのだ。


「さっきの連中だ……! デニス、さっき私と入れ違いで書斎に入った2人は偽物だ! 奴らが強盗犯だ!!」


「そんな馬鹿な!? まさか憲兵に変装して侵入してくるとは……!!」


「ああ、今まで例がない……なんて大胆な連中だ」


 いや、感心している場合ではない。


 もしあの書類が公にでもされれば、財産没収に国外追放……いや、それで済めばまだ生温い。権力を乱用しこれだけの混乱を生み出したのだ。死罪は免れまい。


 それどころか……下手をすれば、国に裁かれる前に”奴ら”に消される。


 そう思った途端、身体の内側が全て凍てつく錯覚を覚えた。内臓から毛細血管に至るまで、全てが凍り付く錯覚。それは一瞬で解けたが、しかしこのままではそれが現実となる―――二度と他者の温もりを感じる事も出来ぬ身体になる事は、想像に難くない。


 ”奴ら”は末端の人間を容易く切り捨てる。奴らにとってバザロフも、所詮は資金確保のための手駒の一つでしかないのだ。


 消される、という恐怖だけが、今のバザロフの動力源だった。


「デニス、全部隊に命令! 誰もこの屋敷から出すな、警備を徹底しろ! 憲兵及び警備隊は身分証のチェックを徹底、ネズミを炙り出せ!」


「かしこまりました、旦那様!」


「それと私も警備に加わる。”機甲鎧パワードメイル”の準備をしろ!」


「はっ、直ちに!」


 歯を食いしばりながら、バザロフは割れた窓の向こうを睨む。


 逃がさんぞネズミ共、とその口から呪詛が漏れた。




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