14-1
カレンベル帝国、帝都オルステッド。
皇宮周辺から市街地の隅々に至るまで、かの都には無数の水路が張り巡らされる。ゆったりと行き交う舟に身を委ねれば、所狭しと並ぶ華やかな街並みへと客人は飲み込まれていく。弓なりに沿ったアーチ橋をくぐり抜け、吊るされた花々の香りが鼻腔を掠めたなら、舟は白亜の噴水広場へと到着する。
待ち受けるは海神タウラフが天を仰ぎし彫像。その傍ら、魔術によって操られた水は自由に吹き上がり、幼い子どもたちの物言わぬ遊び相手となっていた。
人々はこの美しい街を水の都と呼び、親しんだ。
「──来たか、グレン」
開け放したガラス戸は、オルステッドの情緒溢れる街並みを透かして輝く。瞼に痛みを覚えるほどの明るさから視線を外せば、執務机をおざなりに片付ける美丈夫がそこにいた。
遊ばせた長めの黒髪を掻き上げ、ひと心地ついた様子で溜息をつくのは、帝国の大公クラウス・エストマン=パラディース。港町シーランからこの帝都へ来るまで、殆ど毎日顔を合わせた男だ。
「何用で?」
最初こそ少しは畏まっていたグレンも、大公本人から「人目がなければ楽にしていい」と言われてしまえば気を張ることもなくなった。彼の騎士を務めるフォルクハルトは、グレンのゆるんだ態度をそのつど咎めているが、何処吹く風である。
「──ああ、その服似合っているじゃないか。モニカ嬢の見立てか」
本題を切り出すかに見えたクラウスはしかし、グレンの服装に目を留めては笑った。
皇帝が住まう宮殿をみすぼらしい格好で歩き回ることは許されないと言って、ここへ到着するや否やモニカが仕立て屋を呼びつけた結果が、今のグレンの姿である。染み一つないシルクのシャツに、対照的な黒いパンツとロングブーツ、そして──フェルンバッハ家の騎士が身に着けるという臙脂色のマントが、彼の左肩を覆っていた。
マントを留めるベルトと金具にはフェルンバッハ家を象徴する緑玉があしらわれ、これが皇宮でのグレンの立場を保証してくれるだろうとモニカは語った。家紋ほどの効力はないが、見る者が見ればフェルンバッハ家の人間であるとすぐに分かるらしい。
彼女の言う通り、この格好なら一人で出歩いても胡乱な目を向けられることがなくなった。グレンとしては堅苦しくて仕方ないが、これで面倒事が減るならと億劫な気分で袖を通した次第である。
クラウスは彼のそんな心境を見抜いたのか、椅子に深く凭れたまま肩を揺らした。
「ここの連中は血統主義を掲げるわりに、見てくれを変えるだけですぐに騙されてくれる。モニカ嬢もそれを分かってのことだろうさ」
大公の言葉に曖昧に頷きながら、やはり雇い主とこの男は思考が少し似ているなとグレンは密かに思う。二人とも高貴な生まれでありながら、どことなく貴族の血を忌避しているところが特に。
「さて。聖遺物“創生の地図”の始末に関しては続々と各国の王から返事が来ているが、それはモニカ嬢から聞いているな?」
「一番にベラスケスが賛同したってことなら」
「ああ、新王は若いが聡明なようだ」
「……あんた同い年ぐらいじゃ?」
──四つめの聖遺物“創生の地図”が発見され、その危険性を説いた文書が各国へ届けられて二週間ほど。地図の不可侵条約と共同の監視について、いち早く色よい返事を寄越したのがベラスケス王サルバドールだった。それぞれの王が互いの出方を探りつつ返答を保留にしていたところへ、かの新王は二つ返事にも等しい早さで帝国の意向に賛同する姿勢を示したのだ。
これに触発される形で──恐らくはかつて蔑んでいた国に後れを取りたくなくて──他の国々も慌てて了承の言葉を返してきた。中には勿論、聖遺物の真偽について確かめたいという声もあったが、概ねクラウスが指定した会合には出席するとのこと。
自身の戦場での異名も然ることながら、聖遺物の所持を明らかにした家門がフェルンバッハ家ということも、王侯貴族たちを動かす大きな要因の一つだったのだろうとクラウスは語る。
「久々にシュレーゲル卿……モニカ嬢の父君が表舞台に出てくるからな。レアード建国の功臣と繋がりを持ちたいと考える者は大勢いる」
「…………今の王室が長くないって、実は結構知られて……」
「うん? まあ私が様々な場で仄めかしたからな。レアードの次の王は私の子だと」
しれっと悪びれもしない顔で呟くクラウスに、グレンは何とも言えない顔で閉口してしまった。レアード王室が今も必死に隠している醜態が、既に公然の秘密となっていたとは。トゥルヤ公爵邸でマティアスが自らを王太子と名乗っていたことも、もしや今ごろ他国で面白おかしく笑われているのではなかろうか。
そういった状況も踏まえて、大公と繋がりのあるフェルンバッハ家とこれを機に親しくしておこうと考える貴族たちが、ぽつぽつと増え始めているというわけだ。
ゆえに今のところ、モニカとクラウスの立てた聖遺物“創生の地図”の隠蔽計画は順調に進んでいる。
しかし。
「案の定、アストレア神聖国は沈黙したままだ。元から書簡すらまともに返ってこない国だから期待はしていなかったが」
これまでの旅の途上、モニカを狙って刺客を何度か差し向けた張本人──アストレア神聖国。大司教メム=アステアは帝国に先手を打たれたことで動揺しているのか、はたまた何か別の企みを進めているのかは不明だが、未だ目立った動きを見せていなかった。
とは言え既に“創生の地図”が持つ凄まじい力に関しては、クラウスが送った文書によって大陸中の国家に知らされた。だんまりを決め込んでいられる時間もそう長くはないだろう。
「……それは分かりましたけど」
そこまで話を聞き終えたグレンは、凝りをほぐすように首を回しつつ、溜息交じりに大公に尋ねた。
「俺を呼んだ理由は何です?」
「ああ、そうだった。いや何、モニカ嬢が会合用の衣装合わせだと聞いたからな。暇だろうと思って」
「戻っても?」
「冗談だ」
まるで雇い主がいなくて寂しがっているような言い方はやめてほしい。グレンが苦い顔で扉から手を離せば、クラウスがおもむろに立ち上がり、開け放した硝子戸の外を見下ろした。
「ちょうど帰ったようだな」
「……? 何が──」
「帝国魔術師団。ベラスケス方面に向かった使節団の護衛に当たっていた……ハヴェル隊だ」
グレンが動きを止めたことを知ってか、クラウスはその黄金の瞳を細めて振り返る。
「ハヴェル隊は任務が終わったら決まって食堂に向かう。暇なら行ってくると良い」
話は以上だと言って、大公はゆるりと片手を挙げたのだった。




