第四章 父の歩幅
父の歩幅を、湊はこれまでほとんど考えたことがなかった。
遅れた朝の父。
待ちが長くなる父。
門を出ていく父。
客間に少し低い声を残した父。
その輪郭は少しずつ近づいてきた。
けれど、その人がどんな歩幅で廊下を歩いたのかとなると、急に像が薄くなる。
速かったのか。
狭かったのか。
迷うように止まりがちだったのか。
それとも外で見えていたより、宿の内部では意外に静かな一定の歩幅を持っていたのか。
廊下を見ているうちに、湊はようやく、人の時間は足音だけでなく“歩幅”にも残るのだと気づき始めていた。
第十五作で父をもう一度見直すなら、今度はその歩幅のほうから近づく必要があるのかもしれなかった。
翌朝、青葉の光は少し曇りがちだった。
晴れ切った日ほど板の艶は強く出ない。
その代わり、廊下の幅や曲がり角の奥行きが前より柔らかく見える。
こういう日は、光よりも人の動きのほうがよく見えるのだろう。
足の出し方。
歩幅の開き方。
曲がり角での詰まり方。
廊下はそうしたものを、板の上のわずかな間隔として残す。
それが今日はよく分かる気がした。
朝のうち、帳場へ用件を伝えに来た近所の男が一人いた。
短い話のあと、汐里は自然に客間へ通した。
男は少し相談をし、やがて廊下へ戻ってくる。
その歩幅は、客間へ入る前と出たあとで少し違っていた。
来たときは、用件に向かう歩幅。
帰るときは、話したことを少し抱えながらも、もう次の場所へ行ける歩幅。
急がない。
だが止まりもしない。
その“幅の変わり方”が、足音以上にはっきり目に見えた。
「今の」
湊が言う。
「ええ」
汐里もすぐ頷く。
「歩幅でしたね」
「そうですね」
「どう違いましたか」
彼女は少し考えてから答えた。
「来たときのほうが」
「ええ」
「自分の用事に体が引っぱられてた感じがしました」
「はい」
「帰るときは」
「……」
「部屋で少し整って、その人の幅に戻った感じ」
「かなり本質的です」
湊は静かに言った。
その言葉で、歩幅というものの意味がよく見えた気がした。
人は急いでいるとき、あるいは用件に引っぱられているとき、自分の幅ではなく“その事柄の幅”で歩いてしまうのかもしれない。
客間や廊下は、それを少しずつその人自身の幅へ戻していく。
だから足音だけでなく、歩幅もまた部屋のつづきを運ぶのだろう。
昼前、篠原が持ってきたのは、古い修繕の覚えの裏へ書かれた、誰とも知れない短いメモだった。
そこには、いかにも春口らしい、妙に具体で曖昧な一文があった。
――あの人は外では大股に見えたが、廊下では少し幅が戻る。
――客間のあとは特に。
――おかみさんは、そのくらいの歩幅だと話しすぎなくてよいのだと言った。
「話しすぎなくてよい歩幅」
湊が読む。
「すごい言い方ですね」
汐里が小さく言う。
「ええ」
篠原も頷く。
「かなり大事です」
「どういう意味でしょう」
「おそらく」
篠原は言葉を選びながら言う。
「歩幅が大きすぎると」
「ええ」
「次の場所へ早く着きすぎる」
「……」
「すると、人はまだ整っていないのに、次の声や役目へ入らなければならなくなる」
「なるほど」
「廊下では、その少し前で」
「人の幅へ戻る」
「そういうことかもしれません」
その説明は、ひどく納得がいった。
廊下は、人を遅らせるわけではない。
だが次の場所へ早く着きすぎないようにする。
そのために歩幅が少し戻る。
それはまさに、春口のやさしさのかたちだと思えた。
「お母さん」
汐里が低く言う。
「ええ」
「歩幅まで見てたんですね」
「かなり」
湊が答える。
「手とか足音だけじゃなくて」
「はい」
「その人が、どのくらいの幅で次の場所へ行けるか」
「そうですね」
「母らしいです」
汐里は小さく笑った。
その笑いには、もう驚きと同じくらい、納得が混じっていた。
澄江ならたしかに見るだろう。
人の言葉の前も後も、立つ順番も、振り返る一拍も、そして廊下を歩く歩幅も。
午後、湊は一人で客間から曲がり角まで、意識して歩幅を変えながら歩いてみた。
大きく歩くと、帳場や門へ気持ちが先に流れすぎる。
小さすぎると、客間の余韻を抱え込みすぎる。
その中間に、たしかに“話しすぎなくてよい歩幅”のようなものがある気がした。
少しだけ深く、少しだけ次へ向かう。
廊下とは、その幅を人に思い出させる場所なのかもしれなかった。
そこで、父のことをまた考えた。
外では大股に見えたが、廊下では少し幅が戻る。
もしその一文の“あの人”が父なら、父はとても父らしい。
外では、時間や事情や遅れに押されて、少し大きな歩幅をしていたのかもしれない。
だが宿の内部、客間のあと、青葉の光の差す廊下では、その歩幅が自分のものへ戻る。
その見え方は、父をまた一段近くした。
人は失敗した瞬間だけではなく、自分の歩幅が戻る途中にも、その人らしさがあるのだろう。
「相沢さん」
汐里が、廊下の曲がり角で言った。
「はい」
「父親って」
「ええ」
「前より、急いでいた人というより」
「どう見えますか」
「自分の幅に戻るのが少し遅い人、だったのかもしれませんね」
その言葉に、湊はしばらく返せなかった。
けれど、まさにその通りだと思えた。
急いでいた。
遅れていた。
それも本当だろう。
だがそれ以上に、父は“自分の幅に戻るのが少し遅い人”だったのかもしれない。
だからホームでも、待合でも、門でも、そして廊下でも、少し長く時間が要った。
その見え方は、とても大きかった。
「それ」
やがて湊は言った。
「かなり本質的です」
「ええ」
「お母さんも、そう見ていたのかもしれません」
「はい」
「だから、急がせないでいられた」
「そうですね」
汐里は静かに頷いた。
夕方近く、帳場から客間へ向かう汐里自身の歩幅にも、少し変化があるのが分かった。
用件があるときでも、客間の手前でほんのわずか幅が変わる。
帳場の速度のまま部屋へ入らない。
それはもう、無意識の仕草になり始めているのだろう。
「今のも」
湊が言う。
「ええ」
汐里は少し照れたように笑う。
「分かりましたか」
「はい。客間の前で幅が変わった」
「最近、そこも気をつけてます」
「どうして」
「帳場の歩幅のまま入ると」
「ええ」
「部屋の声が少し高くなりそうなので」
「かなり細やかですね」
「でも」
彼女は青葉の光の落ちる板を見ながら言う。
「廊下って、そういうところですよね」
「そうですね」
「部屋と部屋のあいだで、人の幅が変わるところ」
「かなり」
湊は頷いた。
彼女はもう、足音だけでなく歩幅まで含めて、廊下を使い始めているのだろう。
橋を知り、坂を知り、待ち、風を受け、庭をあずかり、門をひらき、客間を整えた人が、今はそのあいだを運ぶ幅まで知り始めている。
それは宿の主として、かなり深い成熟なのかもしれなかった。
夜、ノートにはこう書いた。
――廊下では、足音だけでなく歩幅までが部屋のつづきを引きずるのかもしれない。
――客間のあと、人は自分の幅に少しずつ戻りながら次の場所へ向かう。
――澄江は、そのくらいの歩幅なら“話しすぎなくてよい”ことを知っていたのだろう。
――父もまた、自分の幅に戻るのが少し遅い人だったのかもしれない。
――第十五作は、人が部屋と部屋のあいだで、自分の歩幅を取り戻していく巻なのかもしれない。




