(十五)
(十五)
「どうも、弱いねぇ」
後で幾ら考えても呆れた事に、兄はその一言で死の商人を解放してしまった。
仲のよい兄と妹には弱いなどと笑っているのを問い詰めると、裏とも言えない裏があった。怪しげな兄妹に国境を越えて貰えば、目暗ましになるだろうと言うのだ。
その程度で暗む目なら、あんなふうに裏を掻かれはしなかったろうに。
ラウレルの死は、影を落とした。けれども決意を、強くもさせた。
「父の汚名を雪ぎ、国の礎となれ」
叱責の代わりに掛けられた言葉を、最初ノーチェは理解できなかったそうだ。それはそうだろう。反逆者の息子が、王から国の執政を任されたのだ。
しかも、アサレアは死んだ。いや、本当には死んでいない。死んだ事になった。
だから実質、国を動かすのはノーチェだ。
これは最初から決めていた。王族の血に固執する感のラウレルは共和制に反対すると解っていたし、他に頼れる臣に心当たりはなかった。
死んだ事になった兄と、ついでに私は、密かに国外へと逃亡した。ここで例の兄妹の話に戻るのだが、本当に目暗ましになったかは確かめる術がない。
これらの話を、私はずっと後になって聞かされたからだ。
血に中てられたか、それとも精神的なものか。死の商人の不思議な術が、それほど深いダメージを残したか。あの場で気を失ったきり、ひと月近くも寝付いてしまっていた。
次に意識を取り戻したら、そこはすでに馴染みない外国。しかも匿われているのは、サディオの屋敷だ。
「信じられない」
呟くと、その思いは強くなった。
だが、疑いたくもなる。部屋一杯の血と死体に囲まれていたのは、ついさっきだった気さえする。それが今は足元に犬を遊ばせて、呑気に昼寝などしているのだ。
いや、実は犬ではない。遊んでもいない。ベッドに掛かる上等なシーツの上で、狼に姿を変えたサディオが丸まっているだけだ。
その重みと温もりが、シーツ越しにじわりと足へ伝わってくる。
私の呟きは、そのピンと立った両耳に届いていたらしい。白金の毛並みの中に青い眼を片方だけ開き、ベッドの表面を叩く様に尻尾を数回振って見せた。
そんな姿を見ていたら、気が抜けてしまう。獣に向かい、両手を広げる。
「おいで」
声に応じて立ち上がった狼は、体を私の腕の中に滑り込ませた。
柔らかな毛並みをそのまま抱き締めようとしたが、しかしサディオは体重を全部こちらに任せた。これは重い。支え切れず、押し倒される形になった。
まるでにやりと笑う様な獣の姿を、きょとんとして下から見る。彼は一度シーツの中に潜り込み、再びもぞもぞと顔を出す。
現れた顔を見るなり、私はその体をシーツごと思い切り突き飛ばした。
「し……信じられない!」
重い音を立ててベッドから落ちたサディオは、シーツに半身を隠しながら頭を押さえて起き上がる。狼ではなく、人の姿で。
今度は気のせいでなく、本当ににやりと笑って見せる。
「そっちが誘った」
「誘ってません! 人のベッドで裸になるなんて、どうかしてます」
「さっきから裸だったぞ、俺は」
「人と狼の姿では、意味がまるで違います!」
頬が熱い。赤くなっているかも知れない。まっすぐに見るサディオの視線がからかう様で、私は唇を尖らせて顔を背けた。
ローブに袖を通しながらベッドを降りると、ドアに向う。
「服を探してきます」
宣言して扉を開くと、男物の服と靴の一式がずいっと胸元に押し付けられた。
「師団長のお召し物です」
「……どうも」
無表情とも思えたが、目の前のパパはどこか「その内こうなると思ってました」とでも言う様に服を差し出す。その隣には、声を殺して爆笑するコルロハがいた。
彼らの態度に何か釈然としないものを覚えたが、巧く言葉にできずに引き下がる。
首を傾げながら踵を返すと、同じに首を傾げるサディオと眼が合う。一拍置いて、二人同時に小さく笑った。
「痛みますか?」
着替えを手伝っていると、まだ服に隠されない上半身に真新しい傷が見える。私を庇い、負った傷だ。
引き攣れながらも薄い皮膚で塞がっていたが、その部分は赤味を帯びて、今も触れると血が溢れそうだ。
「冷えると、少しな」
「あ、そうですね」
慌てて、サディオにシャツを被せる。彼が袖を通す間に、ボタンを一つ一つはめて行く。最後のボタンから手が離れると、袖に通った男の人の両腕に抱き竦められた。
近付いてくる唇を、厚い胸に額を押し当てて避ける。
「嫌か」
「……どうすればいいのか」
解らない。
多くを殺した私達が、生きる権利はあるのだろうか。大事な誰かを奪った私が、幸せになんかなれるのだろうか。
嫌かどうかなんて考える前に、そんな事が頭を一杯にしてしまう。
「俺もお前も、多くを殺した」
痛い言葉を、敢えて言う。
私をベッドに座らせて、サディオは隣に腰掛けた。
「確かにそうだ。だが逆に、守りもしたぞ。何のために戦った。何のために苦しんだ。自国の民であり、他国の民のためではないのか。お前は、自分が守るものを選んだだけだ」
「あなたも?」
「いいや。俺はただ、……許されたかった」
声にして、自分でも初めて解ったと言うふうに、サディオは握った手を自らの口元に当てた。その手を膝の上に落とし、祈る様に指を絡めて両の手を組む。
「そうなのだな、きっと。神の落とし子と祭られても、誰にも必要とされない命だ。俺には、いていい場所などどこにもなかった。せめて全てを尽くして国のために……。――いや、何かを守った末に死ねば、気分がいいだろうと思ったのかもな」
でもそれは、余りに寂しい。
彼の手に触れると、ふと、自嘲とは違う笑みが表情に浮かんだ。
「だが急に、惜しくなった。お前に会って」
「私に?」
「自分の命を惜しんでもよいのだと、初めて思った。お前が、俺を惜しんだからな」
大事な誰かの、大事な自分。
「だからお前も、自分を惜しめ」
「わ、私? 私は死にたがってなんか……」
「生きたがっている様にも見えないぞ。そうしてはいけないと、思い込んでいるのか? 殺した者が、生きたがってはならないと? 自分には、価値がないと?」
畳み掛ける様なサディオの言葉に、反論が見付からず口を噤んだ。そこまで考えた事はないが、そうではないとも言い切れなかった。
奪った者が奪われるのは道理ではないかと、心のどこかで思っている。
「今は、戦う事は命を惜しむ事だとも思う。奪うのではない。守る事だと思え」
「詭弁です」
「何でもいい。信じてみないか」
サディオの大きな手が、私の頬をそっと包んだ。
「信じて、生きて欲しい。お前がいれば、俺が生きて行ける様に」
こちらを見詰める深く青い瞳の中には、まるで熱が宿るかの様だ。
「……何だか、求婚でも受けている気分です」
「いや、そう申し入れている。その様に聞こえなかったか?」
難しいものだな、と口元を押さえて考え込む。その横顔を、私は複雑な気持ちで見詰めた。
求婚と言うより、脅しに近い。
自分の命を人質に、婚姻を迫ると言う話は聞いた事もない。
呆れた話だが、でも、と思う。
でも、この人を失うのは嫌だな。
「ちょっといいすか?」
「邪魔だ」
余程慌てていたのか、ノックもなしにドアが開いてギサンテが顔を覗かせる。即座に返された邪険な言葉を全く意に介す様子もなく、ひょいっと頚を伸ばして私に向けて手招きした。
「あんたの兄貴が吟遊詩人になるつって旅支度してんだけどさ、いいのか?」
「止めて下さい!」
私は飛び上がる勢いで立ち上がり、「ああ、やっぱり?」などと呑気なギサンテに駆け寄った。
まさか、本気とは。
兄は夢見る様にそんな事を言いながら、ギタラと呼ばれる弦楽器をここ数日掻き鳴らしてはいたのだ。だがその演奏も酷いが、歌も酷い。音楽で世を渡る吟遊詩人など、とても無理だ。
部屋を出て行こうとドアを潜り掛けて、ふと足を止める。振り返って、手を伸ばした。
「一緒に、きて下さらないんですか?」
「行こう」
差し出した手をぎゅっと握って、サディオが少し先を歩く。
歩こうとした。だがすぐに足を止め、不思議そうにこちらを見る。私が、動こうとしなかったからだ。
足を進められなかったのは、繋がれた自分達の手から眼を離せずにいたから。頭の中に湧き起こったのは、呆れるのに近い気持ち。
自分達の手と、訝しげなサディオの顔を見比べて、それから周囲を確かめる。兄の所へ駆け付けたらしく、部屋の外にも側近達の姿はない。
二人きりなのを確認すると、私はサディオに、ひざまずいて欲しいと頼んだ。
「どうして」
「求婚する時は、ひざまずくものです」
一瞬奇妙な顔をして、それからサディオは膝を折った。
「求婚、ね。気が変わったか?」
さっきは口付けも拒んだのに、と。半分はからかって、半分は心配そうにこちらを見詰める。
やっと、気付いた。
もうとっくに、この心はサディオのものじゃないか。
求められれば恐がるくせに、自分からは身勝手なくらい甘えている。手を握られたら、離したくない。同じ部屋にいるだけじゃなく、体温を感じるくらい近くにいたい。
生きるなら、一緒がいい。
ゆっくりと身を屈め、そよ風の様に私は囁く。
「あなたがいないと、私はもう駄目みたいです」
深海に似た瞳の中に、星の輝きを見た気がする。その瞳で、驚くほどに優しく笑う。
傅く男は永遠めいて、熱っぽい唇で私に触れた。
(傅く犬のために泣け/了)
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