第六章 八百屋の業(わざ)
翌朝、俺は日が昇る前に目を覚ました。
昨夜の夢の中で、商店街のお婆ちゃんが「翔太くんとこの大根は、煮ると甘くてねえ」と笑っていた。目覚めると、その声が遠のいていく代わりに、現実の二つの月が、まだ薄明の空に並んで残っていた。
俺は身支度を整え、軽トラの荷台のシートをめくった。
野菜は、昨日のままだ。鮮度も、ほとんど変わっていない。
いや、それどころか、葉物のしおれが、昨日の午後より少し戻っている気さえした。何かこの世界の空気が、植物にとってちょうどいいのかもしれない。
俺は荷台から、リヤカー代わりに使えそうな台車を探した。村長の家の脇に、車輪のついた古い荷車があったので、断って借りた。
そこに、白菜、キャベツ、大根、人参、ブロッコリー、それから茄子と里芋を、丁寧に積み上げた。
ボリューム陳列だ。
葉物は上に、根菜は下に。重みで潰れないように、間に厚紙を挟む。色彩は、緑、白、紫、赤、橙の順で、隣り合う色が映えるように並べる。
仕上げに、俺は持ってきた色紙にポップを書いた。
「今朝採れ! 甘味抜群! 煮ると芯までトロトロ」
「葉付き大根、葉も食えます! 炒めて美味!」
字は商店街のうちの店の時と同じだ。リリが二階から下りてきて、俺の手元を覗き込んだ。
「お兄さん、それ、何ですか」
「ポップだ。値札に、商品の良さを書き込む。客が見て、買いたくなる仕掛けだ」
リリは、紙に書かれた文字を、口の中で何度か読み返した。
彼女は字が読めるのだろうか、と一瞬迷ったが、視線の動きを見れば、ちゃんと読んでいるのが分かった。
「これ、本当に、書いていいんですか」
「何が」
「『今朝採れ』って、嘘じゃないですか。お兄さんの白菜は、別の世界から来たんだから、もっと前のはず」
俺は思わず吹き出した。
「お前、商売の才能あるな」
リリの頬が、ぽっと赤くなった。
俺は、ペンを彼女に渡した。
「じゃあ、自分で書いてくれ。お前の言葉で、客が買いたくなるように」
リリは戸惑ったが、ペンを握って、震える手で書き始めた。
「白い葉っぱ……信じられないくらい、おいしい……」
書き終えたリリは、ポップを俺に見せた。
「これじゃ、駄目、ですよね」
「いや、いい」
俺は紙を受け取った。
「むしろ、これがいい。お前が食って、本気で美味かったんだろう。それが伝わる」
俺は、彼女のポップを、白菜の山の一番上に立てた。
午前八時。
日が高く昇って、村人たちが家から出てくる時刻になった。
昨日の村人たちが、家の窓から顔を出して、俺の荷車を見ていた。けれど、誰も近づいてこなかった。タダ食いではない、と分かっているらしい。
俺は声を張った。
「八百屋、開きます! 値段は、村のみなさんが普段払う、芋一つ分でいいです!」
しん、と静まり返った。
最初に動いたのは、昨日のロブの祖母らしい老婆だった。痩せた手に、痩せた芋を一つ握って、俺の前に立った。
「ほんとに、これで、よく?」
「もちろんだ」
俺は白菜一玉と、人参三本を、老婆の籠に入れた。
老婆の手が震えた。
「うちの孫は、昨日の大根を食って、笑った。三年ぶりに、笑った」
老婆の声が、震えていた。
「ほんとに、神さんの使いだ」
その一言が、号砲のようだった。
村人たちが、次々と家から出てきた。痩せた芋、麦の屑、布きれ、薪の束。それぞれが、自分の財産から少しだけ持ち寄ってきた。
俺は全員の物々交換に応じた。
誰一人、断らなかった。
そして、誰一人、強引には奪わなかった。
全員が、両手で頭を下げ、両手で野菜を受け取って、両手でそれを抱いて家に戻った。
太陽が中天に差し掛かる頃、俺の荷車は半分ほど空になっていた。
そこへ、村の入り口の方から、馬車の音が聞こえてきた。
ぼろぼろの幌をつけた、一頭立ての荷馬車だった。御者台には、四十前後の男が座っていた。短く刈った褐色の髪に、革のジャケット、腰に長剣。
男は俺の荷車を見て、馬を止めた。
しばらく動かなかった。
馬車から降りた男は、ゆっくりと俺の前まで歩いてきた。
そして、白菜の山の前で、両膝を地面についた。
「あんた」
声がかすれていた。
「これは、どこの土地のものだ」
「東の方の、田所っていう土地のものだ」
俺は適当に答えた。
男は震える指で、白菜の葉に触れた。それから、切り口を覗き込んだ。
「切り口が、白い。葉の張りも完璧だ。芯の詰まり方も、王都の宮廷御用達の品より上だ」
男は顔を上げて、俺を見た。
「あんた、まさか――〈目利き〉持ちか」
俺は答えなかった。
目利き、という言葉は、確かに俺の手の技術を指す名前だ。けれど、この男の言い方は、何かそれ以上の意味があるように響いた。
男は立ち上がり、深く頭を下げた。
「申し遅れた。俺は、行商人のガロウだ。西方七つの都市を行き来している」
「田所翔太、八百屋だ」
「ヤオヤ……聞いたことのない称号だが」
ガロウは、しばらく俺を観察していたが、やがて顔を上げた。
「翔太殿。あんたの商売、見させてもらっていいか」
「構わん」
ガロウは、村人と俺のやり取りを、半時間ほど黙って見ていた。
彼は、馬車の御者台で、革のメモ帳に、何かを、書き込んでいた。商人らしく、目の前で行われている取引の、一つ一つを、細かく記録しているらしかった。彼の右手の指が、忙しなく動いていた。
俺がときどき、葉物の切り口を指で確かめたり、根菜を持ち上げて重さを測ったりする仕草を、彼は食い入るように観察していた。
時折、ガロウは、自分のメモ帳を、見直していた。そして、首を、傾げていた。
彼の頭の中で、何かが、合わない、という様子だった。
俺が、目利きで、商品の鮮度と等級を、瞬時に見極めて、それぞれの村人に、最適な品を、最適な数量で、渡している。その判断の速度と、正確さが、彼の理解を、超えていたらしい。
ガロウは、何度も、メモ帳に、書き込みをやり直していた。
最後の村人が籠を抱えて帰っていった時、ガロウはようやく口を開いた。
「翔太殿、確認したいことがある」
彼の声が、震えていた。
「あんた、これを売る前に、品物の良し悪しを、目で見ただけで判定したな。重さを量らず、ただ手で持っただけで、葉の張りと、芯の詰まり方を判別した」
「ああ、それが何か」
「この大陸で、それができる人間は」
ガロウは、両肩を震わせた。
「俺の知る限り、三人しかいない」




