第三章 父の言葉と、雨夜の事故
時間が止まったように感じた。
白いヘッドライトが、雨のカーテンを引き裂きながら、俺の軽トラの右側面に迫っていた。トレーラーの巨大な顔。グリルが、まるで生き物の歯のように光っている。
ブレーキを踏んだ。
タイヤが水たまりを噛んで、軽トラが滑った。アスファルトの上で、車体がスケート靴のように横滑りしていく。
その一瞬の中で、俺は不思議なほど色々なことを思い出した。
市場の朝、父に連れられて初めて行った時、白菜の山の前で「これだ」と父が指したあの感覚。
妹が、病院のベッドの上で、俺の作った野菜ジュースを「あんちゃんのは、甘いね」と笑った顔。
父が、母の留守中に、仏壇の前で泣いていたあの背中。
商店街のお婆ちゃんが、「翔太くんとこの大根は、煮ると甘くてねえ」と言ったあの声。
全部が、ひと続きの帯のように、俺の中を流れていった。
衝撃がきた。
軽トラの右側がトレーラーのバンパーに激突して、車体が宙に浮いた。雨粒が一瞬、止まったように見えた。
俺は、運転席で天井に頭を打ちつけた。
その瞬間、本当に、頭の中はこの一言だけだった。
「ああ、白菜が、台無しになる」
軽トラが横転して、荷台のシートが破れた。野菜の段ボールが、雨の中に投げ出される。キャベツが転がり、白菜がはじけ、根菜がアスファルトの上にぶちまけられた。
視界が、白くなった。
次に意識が戻ったとき、俺は土の上に倒れていた。
頬に、湿った土の匂いがあった。雨の匂いではない、もっと濃い、もっと青い、森の匂いだ。
顔を上げると、頭上に枝が広がっていた。雨は降っていない。
俺は身を起こした。体は痛むが、骨が折れているようでもない。エプロンには泥がついている。手のひらを見ると、爪の隙間にはやはり緑の汁が染み込んだままだった。
そして、すぐ脇に、俺の軽トラがあった。
信じられないことに、軽トラは横転していなかった。ちゃんと四つのタイヤで、地面に立っていた。荷台のシートも、破れていない。シートの隙間から見える野菜の段ボールも、無傷だ。
ただ、軽トラの周囲は、商店街でも、市道でも、市場でもなかった。
深い森だった。
針葉樹のような、けれど葉の形が地球のどの木とも違う、奇妙な木々が立ち並んでいる。空気が冷たく、湿っている。
俺はゆっくりと首を上げた。
空に、月が二つあった。
大きい方が薄い金色、小さい方が淡い銀色で、二つが寄り添うように浮かんでいた。
俺は、呼吸を止めて、その光景を見ていた。
頭が、追いつかなかった。
夢か。
いや、頬に当たる土の冷たさは、夢ではない。指の爪に染みた緑の汁も、夢ではない。
俺は軽トラの荷台に近づき、シートをめくった。
段ボールが、整然と積まれていた。市場で買ってきた葉物、根菜、明日の特売用の白菜三玉。全部、無傷だった。
軽トラの運転席のドアを開け、グローブボックスを開けた。
財布と免許証、それから携帯電話。携帯はバッテリーが切れていた。
ふと、助手席を見た。今朝、市場で受け取った卸の主人からの手書きメモが置いてある。
「八百勝 翔太様」
その下に、価格と数量が書いてある。
ただ、メモは、今朝俺が受け取ったときと、文字の形が少し違って見えた。日本語のはずなのに、ところどころ、馴染みのない記号が混じっている。
俺は紙を見つめた。文字を凝視すると、不思議と、意味は理解できる。理解できるが、文字そのものは、地球の漢字でも仮名でも、英語でもない。
頭の中の、変換装置のようなものが、勝手に動いている感じがした。
遠くで、何かの鳴き声がした。
獣の声に似ているが、聞いたことのない声だった。低い、地響きのような声。
俺は本能的に、軽トラの運転席に滑り込んだ。ドアを閉めて、しゃがみ込む。
しばらく息を殺していた。
鳴き声は、徐々に遠ざかった。
俺はようやく顔を上げ、フロントガラス越しに外を見た。
森の向こうに、煙が立ち上っていた。
細い、家の煙突から立ち上るような、人の暮らしの煙だった。
俺は車外に出た。
歩いて、煙の方角へ向かう。軽トラのキーは、しっかりとポケットに入れた。
森を抜けると、緩やかな丘陵地が広がっていた。痩せた畑が点在していて、その先に、粗末な石壁の囲いと、藁葺き屋根の家々が見えた。
村だった。
村の入り口には、木製の門があった。門の脇に、子供が一人、しゃがみ込んでいた。
六歳くらいの男の子だ。痩せていて、頬がこけている。麻のような粗い布の服を着ていた。
子供は俺を見つけて、目を見開いた。そして、立ち上がろうとして、よろけた。
「ねえちゃん」
子供は、振り返って叫んだ。
「ねえちゃん、しらない人が、来た」
声が、しわがれていた。栄養が足りていない子供の声だった。
村の中から、誰かが駆けてくる音が聞こえた。
俺は、その場で立ち止まり、両手を肩の高さに上げた。
駆けてきたのは、十五歳くらいの少女だった。
藁色の髪を後ろで束ね、ぼろぼろのエプロンを締めている。手には木の棒を持っていた。
少女は俺の前に立ち、男の子を背中にかばった。
「あなた、誰」
声が震えていた。怯えていることが、すぐに分かった。
俺は、答えに困った。
日本語で答えていいのか。
いや、口を開けば、勝手にこの世界の言葉が出てくるかもしれなかった。試しに、ゆっくり言った。
「俺は、田所翔太。八百屋だ」
口から出た音は、自分の耳には日本語に聞こえた。けれど、少女の耳には違って届いたらしい。
彼女は、少しだけ目を細めた。
「やおや、って、なに」
俺は、軽トラの荷台に向かって、親指を立てた。
「野菜を売る、商人だ」
少女が、俺の指差した先を見た。
軽トラの荷台のシートが、風に煽られて、ひらりと開いた。
その中に積まれた、雪のように白い白菜の山が、彼女の目に映った。
少女は、息を呑んだ。
彼女の右の頬に、小さなえくぼができた。驚いた時に出る、笑顔の前兆のような、そんなえくぼだった。
その瞬間、俺の胸の奥で、何かが鋭く痛んだ。
亡くなった妹が、笑った時の、右頬のえくぼと、同じ形だった。




