第二章 黒田蓮の宣告
翌日の午後二時、商店街に銀色のセダンが滑り込んできた。
うちの店の真向かいに停まったその車から降りてきたのは、プレスの効いたスーツ姿の男だった。胸には、見慣れたロゴのバッジがついている。駅向こうにできた大手食品スーパー、「フレッシュマートグランデ」の社章だ。
男は俺と目が合うと、にやりと笑った。
「翔太、久しぶり」
黒田蓮だった。同じ中学、同じ高校に通った同級生だ。卒業して十年以上経つが、ほとんど変わっていない。いや、変わったところもある。痩せていた頬には肉がつき、地味な眼鏡は流行りの細いフレームに変わり、安物のスニーカーは高そうな革靴に化けていた。
「黒田か。何しに来た」
俺は冷たい声で返した。エプロンの紐をきつく結び直す。
「ご挨拶じゃないか。同窓のよしみで、視察に来てやったんだぜ」
黒田は店先を見回しながら、首を傾げた。
「相変わらず、すごい売り方だな。野菜が、こう、山みたいに積まれてる。映えるっちゃあ、映えるけど」
「ボリューム陳列って言うんだよ。八百屋の基本だ」
「うちでは、基本じゃないな」
黒田は親指でツメをいじりながら、店内を覗いた。
「翔太、お前、まだこれで食えてるの?」
俺は答えなかった。答えようがなかった。
黒田はそれを答えと受け取ったらしい。深く息を吐いて、また笑った。
「俺んとこ、今月の青果部門の売上、先月比百十二パーセント増。客単価も上がってる。なんでだか、わかるか」
「お前から教わる気はないが」
「教えるよ。データだ。客がいつ、何を、どのくらい買うか、全部数字で押さえてる。発注、陳列、価格、全部数字で決まる。お前らみたいに、勘とか、目利きとか、そういう曖昧なもんに頼らない」
黒田は嘲りを隠そうともしなかった。
「翔太、いいかげん認めろよ。八百屋なんて、もう時代じゃない。手書きポップ? ボリューム陳列? 非効率の極みだよ。客は今、コスパとデータが好きなんだ。お前みたいな職人芸は、博物館行きなんだよ」
俺の手のひらに、爪が食い込んでいた。
ご近所のお婆ちゃんが、店先で野菜を選んでいる。耳が遠いから、黒田の声が聞こえているかは分からない。それでも、俺は客の前で店の暖簾の面子を保たねばならなかった。
黙って、俺は袋に大根の葉を詰めた。お婆ちゃんは何も気づかずに、笑顔で去っていった。
「翔太、提案がある」
黒田は、勝ち誇った顔で言った。
「うちの倉庫、人手が足りない。お前、来ないか。倉庫番くらいなら席があるぞ。時給は商店街のバイトの倍出す」
俺の喉の奥で、何かが詰まった。
倉庫番。
三代目の俺に、向かいの大手チェーンの、倉庫番。
「お前は」
俺は低く言った。
「客の顔、見たことあるか」
「は?」
「お前の店の客の顔、覚えてるか。何百人いるか知らねぇけど、一人でも、誰がどんな顔で何を買って、どんな料理にしてるか、知ってるか」
黒田は鼻で笑った。
「翔太、なに言ってんだ? そんなの、データ取れば全部わかるよ。会員カードのID紐付ければ、年齢、性別、世帯構成、購買履歴、全部出る。お前の店の何百倍も正確だぜ」
俺は何も返さなかった。
返すべき言葉が、見つからなかった。
黒田は俺の沈黙を、勝利と解釈したらしい。名刺をエプロンの胸ポケットに差し込んで、肩を叩いた。
「気が向いたら電話くれ。倉庫の席、空けとくから」
車に戻る黒田の背中を、俺は見送らなかった。
代わりに、店先のキャベツの山に手を伸ばした。さっき市場で買ってきたうちの一玉だ。両手で持ち上げて、軽く揺らす。指で底を弾く。乾いた良い音がした。
この音が、俺の答えだった。
数字では出ない。データには載らない。ただ、この指と、この耳と、この目だけが知っている真実だ。
俺はキャベツを元の山に戻し、店の奥のバックヤードに引っ込んだ。
奥には木箱が積まれている。父が若い頃から使っている、檜の小箱だ。中には、伝票の控えと、手書きの相場メモが整然と並んでいた。日付ごとに、その日の市場価格、仕入れた量、売れた量、見切り値段、最後にその日の天候まで書き込んである。三十年分。
父は、これを毎日つけ続けてきた。
俺は箱の蓋を閉じ、しばらくその上に手を置いていた。
その日の夜、店じまいのあと、家族会議が開かれた。
居間の蛍光灯が一つだけ灯った薄暗い中、父は寝間着のまま座布団の上に座っていた。母は布団の上掛けを膝にかけて、湯飲みを両手で握っている。湯気はもう立っていない。
父の前には、銀行の通知と組合の脱退届がまた広げられていた。
「畳もう」
父は短く言った。
「お父さん、もう少し」
俺は、自分でも驚くほど震える声で、頭を下げた。
「もう一度だけ、俺にやらせてくれ。来月、新しいポップを作って、ネットでも宣伝して、それで」
「翔太」
父は俺を遮った。
「お前は、商売をなんだと思ってる」
「商売は、信頼です。父さんが、いつもそう言ってた。腐ったもんを売らねぇ。それが八百勝の魂だって」
父は俺を見上げた。落ち窪んだ目の奥で、何かが微かに光った気がした。けれど、すぐにその光は消えた。
「お前にゃ、商売の覚悟がねぇ」
また、その言葉だった。
「俺の覚悟は、お前が知らねぇだけだ」
俺は立ち上がった。声が大きくなりすぎた、と思った。母が肩をびくりとさせた。
「今日の最後の配達、行ってくる」
俺は逃げるようにエプロンを外し、軽トラの鍵を掴んだ。
外は、また雨だった。
市場で買い付けた野菜のうち、配達分が荷台にまだ残っていた。葉物が一箱、根菜が一箱、それから明日の特売用に取っておいた立派な白菜が三玉。配達先は商店街の端にある、長く付き合いのある定食屋だ。
軽トラのエンジンをかけると、フロントガラスがすぐに曇り始めた。デフロスターを最大にして、ワイパーを動かす。
商店街の通りに出る。アスファルトに張った水たまりが、街灯の明かりを乱反射していた。
信号待ちで、俺は息を吐いた。湯気が窓の内側に薄く広がった。
胸ポケットに、黒田の名刺が刺さったままだった。引き抜いて、丸めて、灰皿に放り込んだ。
ふと、ハンドルに置いた自分の手を見た。爪の隙間に、緑色の汁が染み込んでいた。今朝、葉物を捌いた時のものだ。何度洗っても、八百屋の手から、この緑は抜けない。
父の手も、同じだった。
幼い頃、父の手を握ると、いつもこの匂いがした。野菜の青臭さと、煙草と、それから少しだけ汗の匂い。それが、俺にとっての家の匂いだった。
信号が青になる。
俺はアクセルを踏んだ。雨脚が強くなっていた。ワイパーがフルスピードでも追いつかない。
商店街を抜けて、片側一車線の市道に出る。街灯の間隔が広がって、車道はほぼ真っ暗になった。前を走る車もなく、後続もいない。ヘッドライトが照らす範囲だけが、世界の全部のように感じられた。
ラジオは消していた。聞こえるのは、雨の音と、ワイパーの軋み、それと自分の浅い呼吸だけだ。
俺は声に出して呟いた。
「腐ったもんは、売らねぇ」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
三つ目の交差点を右折しようとしたその時、視界の右端で、横道から飛び出してくる白いヘッドライトが見えた。
大型トレーラーだった。
ブレーキが間に合わない、と分かった瞬間、俺は妙に冷静に、こう思った。
白菜が、台無しになる。




