第十二章 財務大臣ダルシム
翌朝、俺は王都を出なかった。
代わりに、王宮の謁見の間に、一人で乗り込んだ。
ガウェインの密書は、机の上に置いてきた。読み返す必要はなかった。彼が言うことは、信頼できた。
ただ、俺は、ここで逃げなかった。
逃げれば、王都の倉庫は、また腐る。
俺は、廊下を歩きながら、頭の中で、これからの段取りを組み立てていた。
市場での一週間で、俺は、いくつかの数字を集めていた。
倉庫の在庫量。
市場の卸値と小売値の差。
貧民街への配給量。
そして、それらの数字が、過去十年でどう推移してきたか。
それらの数字には、ある一つの傾向があった。
毎年、夏と冬の二回、倉庫の在庫が「謎の理由」で大量に廃棄されていた。
廃棄の直前には、必ず、市場価格が三割ほど跳ね上がっていた。
跳ね上がった価格は、税収を吊り上げ、その税収の一部は、「特別経費」として、財務大臣の決裁で動いていた。
俺は、それらの数字を、エルヴィラに見せた。
エルヴィラは、しばらく沈黙したあと、震える声で言った。
「これは、十年分の、ダルシムの不正の証拠です」
俺は、その記録を、王の前で開陳した。
謁見の間には、ダルシムも呼ばれていた。
国王アルフレッドは、書類を見つめながら、両拳を握りしめていた。
「これは、本当か。ダルシム」
ダルシムは、銀色の指を組み、優雅に頭を下げた。
「陛下、確かに、その数字は、私の帳簿のものです」
「では、認めるのだな」
「いいえ」
ダルシムは、顔を上げた。
目だけが、笑っていなかった。
「すべて、合法でございます」
「合法だと?」
「廃棄は、規定に則ったもの。価格高騰は、需給の自然の結果。特別経費は、王宮の承認を得たもの。一切の違法はございません」
ダルシムは、書類を一枚ずつ指差した。
「タドコロ殿の集めた数字は、確かに事実です。だが、事実と違法は別。私のすべての行為は、王国の法に則っております」
国王は、書類を見つめた。
「タドコロ殿。これは、違法と立証できるか」
俺は、しばらく沈黙した。
ダルシムの言うことは、半分本当だった。
彼は、法の隙間を、巧妙に利用していた。倉庫の規定、市場の規則、財務の決裁基準。それらの隙間を、彼は十年かけて、自分の利益のために最適化していた。
数字としては、不正は明らかだった。
しかし、法的には、すべて「合法」だった。
俺は、低く言った。
「陛下。今、立証することは、難しい。だが、これは、立証されるべき不正です」
「タドコロ殿のお気持ちは、ありがたく」
ダルシムは、優雅に頭を下げた。
「ですが、感情と法は、別物でございます。私を、感情で裁くことは、王国の法治の根幹を揺るがします」
国王は、両手で顔を覆った。
彼は、ダルシムを裁ききれなかった。
貴族たちの大半が、ダルシム派だった。彼を裁けば、貴族の反発で、王権そのものが揺らぐ。
俺は、それを理解した。
ダルシムは、俺に、薄く笑った。
「タドコロ殿、貴殿の改革は、素晴らしい。だが、貴殿が手をつけたのは、私の十年の仕事の、表層に過ぎぬのです」
彼は、ゆっくりと、俺の目の前を歩いた。
「ご助言申し上げます。貴殿の改革を、王都の市場と倉庫の範囲に、留めることです。それ以上に手を伸ばせば、貴殿は、貴殿の故郷の村々をも、危険に晒すことになる」
俺の喉の奥が、詰まった。
脅しだった。明白な、脅しだった。
俺は、ダルシムの目を、見返した。
その目の奥に、黒田が見えた。
商店街で、俺を倉庫番に誘った黒田。「八百屋なんて、もう時代じゃない」と笑った黒田。
数字と効率がすべてで、人の顔を見ない。
ダルシムは、その黒田の、極端な姿だった。
いや、ダルシムは、黒田より、もっと、何かを、深く、欠いていた。
黒田は、少なくとも、商店街を、訪ねてきた。俺の顔を、見に来た。倉庫番のポストを、自分の口で、提示しに来た。
ダルシムは、そういうことを、しない。
彼は、宮殿の机の前で、書類だけを、見る。
彼の決裁印は、無数の人々の運命を、決める。けれど、彼は、その人々の顔を、一度も、見たことが、なかった。
俺は、低く、答えた。
「あんた、客の顔、見たことあるか」
ダルシムが、わずかに首を傾けた。
「私は、財務大臣でございます。市場に立つ人間ではない」
「だろうな」
俺は、書類を集めた。
「俺が王都に来てから、貧民街の子供が、芋を食って笑った。あの顔を、俺は見た。あんたが見ていないものを、俺は見ている」
ダルシムは、薄く笑った。
「感傷でございますね」
その時、謁見の間の扉が、激しく開いた。
駆け込んできたのは、伝令の青年だった。彼は、息を切らせ、汗だくになっていた。
「陛下、緊急の報せでございます」
国王が、立ち上がった。
「申せ」
伝令は、両膝をついて、頭を垂れた。
その声が、震えていた。
「辺境のセレーナ村、ならびに近隣三村に、魔物の大群が押し寄せております。村の存続が、危機的な状況であると」
謁見の間に、緊張が走った。
国王は、青ざめた。
俺は、机に置いた書類を、強く握りしめた。
ふと、視界の端で、ダルシムが、わずかに、微笑むのが見えた。




