7.これから
人族大陸を代表する大国であるシュンパティ国の第一王女アリシアは、大神に選定された神子である。
古来より勇者を支える存在として同時期に生まれる神子は、勇者の魂を感じ取り、その居場所と力を察知出来るそうだ。
魔王の方にはそうした役職の者はいないのでよく分からないが、魂の結びつきとも言える縁が二人の間には生じるらしい。
アリシアにとってヨゼフは魂の片割れであり、ヨゼフにとってもまたそうだ。故に、二人は惹かれ合い、愛し合う。
いずれ力を失う勇者をそれでも伴侶に選び王族に迎え入れるのは、その魂の結びつきが確固たる信頼となるからでもある。
まあ、つまり、何が言いたいかっていうと、アリシア殿下にとってヨゼフは下手をすれば自分よりも大事な、守るべき存在だってこと。
「――――どうしました、猫さん? 寛いでくださって結構ですよ」
そして、その守るべき存在に害を及ぼすかも知れない存在を見逃す筈がないってことだ。
にっこりと、聖母の如き微笑みを浮かべるアリシア殿下は、その優しげな瞳に薄らと冷えた光を宿して俺を見下ろしている。伏せた俺の背を撫でる手つきは柔らかいものだが、決して逃がす気は無いというのがその掌から伝わってきた。
いや、流石に、俺が『元魔王』だってことはバレてはいないと思うが、明らかにただの猫だとは思われていない。そりゃそうか、既に戦闘は終わったとは言え戦地に割り込み魔族に触れるような猫が目に留まらないはずがないもんな。
どう考えたって迂闊だったが、それでもあの場で死を望む彼女達を放っておけたかと聞かれれば、答えは否だ。
俺が居たことに意味があるかは分からないが、やはり人族の者が魔族を後押しする言葉をかけるには多少なりともきっかけ――というか言い訳が必要で、俺はその言い訳くらいにはなれたんじゃないかと思っている。
「少し前に、ヨゼフ様が夢を見たそうなのですよ」
『……んゃ?』
「どんな夢だったかは忘れてしまったと仰っていて、それは確かに真実なのだろうと感じました。不思議なことに、その夢を見たという日から、ヨゼフ様は魔族大陸に思いを馳せることが増えたように思います」
『…………』
アリシア殿下は天使のようだと賛美される微笑みを湛えたまま、じっと俺を見下ろしている。
「無意識に零れる言葉の端々に、かの『魔王』の存在が滲むようになりました。ヨゼフ様はお優しい方ですから、自分が魔王を打ち倒したことによって魔族の生活が崩壊していくことで自責の念に苛まれているのだろう、と思ってはいたのですが……先日のあの激昂が気になりまして」
『…………』
「ヨゼフ様は勇者であり、彼の方の活躍によって人族大陸の地は再び聖の力を取り戻し、停滞していた魔力は再び強く回り始めました。魔族の地も、人族の地も十年もすればこれまでより活きた物へと変わるでしょう。
彼のしたことはこの世界の為になることです。三百年統治し続け、魔族を治めた王は、たとえそれによって彼らの生活が守られていたとしても、いずれは滅ぼされなければならなかった。勇者が歴史にない頻度で産まれたことからもそれは充分に察せられてます」
『…………』
「世界に望まれた勇者であるヨゼフ様は、勿論類い希なる慈愛の心をお持ちです。ですが、それだけで彼処まで魔王を庇うような言葉が口をついて出るでしょうか? 何が言いたいのか分からない、というお顔をされていますね、可愛らしい猫さん」
ぺたりと降りた耳をくすぐるアリシア殿下の指はひどく優しい。生き物を慈しむことを知っている者の手つきだ。
彼女が俺に危害を加えようとして触れている訳ではないのは、その指先に宿る神力からも伝わってくる。しかしそれでも、内心の俺の冷や汗と、警戒に膨らんだ体毛は隠しようがなかった。
「魔族の者には、相手の精神に干渉し思うままに操るものが居るそうですね。そして、彼の魔王は魔族にしては珍しく民を慮り、弱き者には愛されていた。勇者に討たれたことよりも、きっと良き統治者であった彼が民に疎まれていたことの方が悲しかったに違いありません。故に、敬愛する魔王の無念を晴らそうと、勇者の口を使って魔族を糾弾するものが現れてもおかしくはない……と考えているのですよ、私は」
『…………』
「だんまりですねえ、猫さん。ヨゼフ様が貴方が大層お気に入りで、日頃は可愛らしく街の者とお話ししていて非常に人懐こいともお聞きしていたのですが……もしかして私のことが嫌いですか? ふふ、そうですよね、『お前は魔族の手先か』などと尋ねているようなものですから」
にこやかに語るアリシア殿下の目に浮かんでいるのは確信だった。疑惑の目ではない。彼女は、俺が魔族か、それに類するものであると確信した上で王城に連れてきたのだ。
そして、わざわざ神子の命令で俺と二人きりになれるような部屋まで用意して、俺の正体を突き止めようとしている。俺が、何かよからぬ手段でヨゼフの精神を汚染したと判断したからだ。
俺としては全く心当たりがない――と言いたいところだが、頭が痛いことに、はっきりと思い当たる節がある。
あの土砂降りの雨の日、俺は落ち込むヨゼフの心が少しでも安らげば良いと治癒魔法をかけた。その時、ヨゼフの無意識領域に俺の記憶が流れ込んでしまったのだろう。
通常こんなことは起こらない筈だが、勇者としての才能を持つヨゼフの力に惹かれるようにして魔力が作用してしまったに違いない。
今までの歴史で魔王が勇者に治癒魔法をかけたなんて記録はなかったから気づかなかった。今後は気をつけなければ。
いや、今後も何も、俺が今此処で生きて帰れるか怪しいわけだけど。
そろり、と見上げれば、アリシア殿下はやはり聖母の如き微笑みを浮かべていた。教会に像として置かれてもおかしくないほどだ。しかし、その中身には悪鬼も裸足で逃げ出す苛烈さが宿っていることは、もう既に肌で感じ取っている。
「勘違いしないで頂きたいのは、私は貴方を責めるつもりはないということです。ヨゼフ様の中で澱んでいた負の感情が、あの激昂と一閃で解消されたのも事実ですから。ただ、釘を刺しておこうとは思いまして」
『…………ぬにゃ……』
「今後、ヨゼフ様の御心に無粋な干渉をなさった場合、貴方のその可愛らしいお耳と綺麗な尻尾は無くなるものと考えていてください」
『に゛ゃンッ』
「貴方が良い子であることは充分この触れ合いで判断することは出来ました。ですが、良い子が必ず良いことをする訳ではないでしょう? 善意でしたことが悪しき結果を生み出すこともあります。人の心は、その人のものだけで無ければならないのです。特に、私とヨゼフ様のような魂を持つ者には、自己を保つことは非常に重要なのですよ、分かりましたか、猫ちゃん?」
間髪入れず、無言で何度も頷いた俺に、アリシア殿下は明確な意思疎通に驚く様子もなく両手を合わせて喜びの声を上げた。
「分かっていただけで何よりです、とっても嬉しいですよ。では猫ちゃん、この後少々お時間頂いても?」
『なふ?』
「此処には面白い玩具が沢山在るのです、貴方もきっと気に入りますよ」
満面の笑みで告げたアリシア殿下は、その後三時間ほど俺をあらゆる玩具で翻弄し続けた。彼女の手腕は素晴らしく、作り物の鼠は命を持つものと遜色なく動き、追っても追っても捕まらない煌びやかな球には久々に大ジャンプを決めてしまった。綺麗に反った身体を微笑ましく見つめるアリシア殿下には、息の乱れ一つ無かった。
恐るべしアリシア殿下。ぐでっと寝っ転がる俺の腹を撫で続ける彼女を見上げながら、俺は流石は勇者の妻だ、と噛み締めるように目を閉じた。
さて、その後の人族大陸だが。
防御壁のお陰で街の被害も少なく、海が荒れたことで数ヶ月漁業に影響は出たものの国からの補償金等で賄うことも出来、魔族軍の侵攻があったとは思えないほどに平和な日々を過ごしている。
恐らく、いずれは魔族大陸に魔王が産まれ、また同じように勇者に世界が委ねられることになるのだろうが、今のところは極めて平穏だ。
画家のお姉さんは無事に絵を描き上げ、ヨゼフとアリシア殿下の結婚式までに届けることが出来た。
丁度祝いのような形で渡すことになった訳だが、依頼の一枚では足りないと思ったのか、一緒に小さな絵を贈っていた。絵柄は、窓際で昼寝をしている俺である。
モデルって結構恥ずかしいな、と思いつつ顔を作っていたのだが、日差しが心地よすぎて気づいた時には寝ていたし、知らぬ間に絵は出来上がっていた。
寝こけていただけなのに再び火花魚を貰ってしまって忍びなかったので、エイミーにも分けにいった。丁度、エイミーとベラの間に子供も産まれたことだし、そのお祝いで。
ベラの雇い主である魔術師長の計らいで、異種族間の子を成す魔方陣を描いて貰ったらしい。父親に似て可愛らしい子供達の背には、小さな烏の羽がついている。どうやら飛ぶことは出来ないらしいが、可愛いと評判のようだ。
『アニキが名付け親になってくだせぇ!』などと言うもんだから、女の子ふたりに名前をつけさせてもらった。四人兄妹の下ふたりだ。
ベリーとメリーと名付けてみた。こういうセンスがないから気に入って貰えるか不安だったが、喜んで貰えたので安心したのは記憶に新しい。
少し経って成長した頃、ベリーとメリーは俺と顔を合わせるたびに『ロルおじちゃん! あそんで!』『あそんでー!』と頼りない足取りでかけよってくるようになった。
元気よく跳ね回る子猫ふたりを見ると、つい、俺も子供が欲しいな~なんて思ったりもする。いや、まあ、猫が恋愛対象なのかって言われると微妙なところなんだけど。そもそも人族ってだけで元魔族の俺からすると恋愛どうこうの相手じゃない気もするし、かといって魔族相手はなんとなく避けてしまうし。
仮に猫又になって、人に化ける術か何かを覚えられたとしても、俺はきっと独り身で生きていくんだろう。
まあ、近所の子供をかわいがったりするだけで充分楽しいからいいんだが。
そうそう、子供と言えば、馴染みの八人家族の上から二番目、長男であるお兄さんには最近彼女が出来ていた。デート中、キスの直前にばったり出くわしてしまい、なんとも気まずい空気になってしまった訳だが。いや、彼女さんは目を閉じてたからバレなかったと思う。俺と長男くんだけが目が合ってしまい、なんか微妙な空気になっていた。
口止めなのか、後で美味しい鳥頭熊の前脚を頂いてしまった。いや、別に俺喋れないから、口止めも何もないんだけどな?
末っ子ちゃんは大好きなお兄ちゃんが最近あんまり遊んでくれないから拗ねている。一番上であり長姉であるお姉さんが宥めていたが、お兄さんを取られてしまったような気持ちもあるのか、近頃ずっとむすくれている。
まあ、お兄さんの彼女さんは子供好きな人で仲良くしたいと思っているようだから、いずれは仲良しになれるだろう。それまでは、俺の腹でも揉んで気を静めてくれ。
日課になりつつある腹揉み――腹揉まれ?を終えた俺は、今日も中央広場のグリフォン像へと上る。やっぱり何だかんだ此処が一番寝心地が良いのだ。
行き交う人々の喧噪を聞きながら、ゆったりと目を閉じる。
「勇者様と王女様の結婚式、素敵だったな~」
「私もあんな式挙げてみたーい」
「ドレス綺麗だったよね、あんな結婚式したいなあ」
「じゃあまず彼氏見つけないと」
「あは、確かに」
「なあ、第二広場の建設副責任者になったってホントか?」
「えっ、誰から聞いたんすか! まだ誰にも言ってねえんすけど!」
「親方だよ、昨日の飲み会で『ようやくあいつも仕事を任せられるようになってきた』なんて嬉しそうに話してたぜ」
「いやぁ~、ハハ、まあ俺の才能があればちょろいモンすよ~」
「おっ、気負って不安になってるかと思ってたが余裕と来たか。まあ、お前も大分真面目に打ち込んでるもんなぁ」
「………………」
「おいおいなんだその顔! 不安なら不安って言っとけ! みんなお前に力貸すつもりなんだからよ」
「セ、センパ~イ! よかった! 俺正直超プレッシャーで……!」
「あー、はいはい、くっつくな鬱陶しい」
「ねえねえ、今度出す新作の靴どんな感じなの?」
「アリシア様効果で白めっちゃ流行ってるからそっち系にするつもり~、デザイン画見る?」
「見して見して! やだ、めっちゃ可愛い~!」
「でしょ~?」
「最近あそこのクレープめちゃくちゃ美味しくない?」
「なんか粉変えたんだって~、ほらライバル店出来たからさ」
「あっ、知ってる! 食べ比べたいって思ってたとこ!」
「行く?」
「行くー!」
「俺この間孫が産まれてさあ、これがまた可愛いんだよなあ」
「ああ、双子なんだろ? 可愛いよなあ、孫がいるとあと百年は生きようって気になる」
「だよな。俺らもまだまだこっからだ」
「ロルはやっぱりそこがお気に入りねー、ふふ、溶けてるみたい」
気づいた時にはすっかり熟睡していた俺が石像の上でパンケーキの上のバターみたいになっていると、道行く女性が小さく笑いながら俺の頭を撫でた。
鼻先に小魚の乾物を差し出されて、目を閉じたまま反射的に齧り付いてしまう。半分寝たまま口を動かす俺の頭を撫でた女性は、数匹をおまけにして広場を去って行く。その背にお礼の鳴き声をあげると、ひらりと手が振られた。
残された小魚を囓って飲み込んでから、根城にしている教会へと向かう。
時折行き交う人達に声を掛けられ鳴き返したり、たまに撫でられたりしつつ、新しい道を見つけて気紛れに足を進める。遠く聞こえる賑やかな笑い声を聞きながら、俺は改めてこの街が好きだな、と思った。
この街で色んな人と関わりつつ暮らしていけたなら、それが俺にとっての最上の幸福だ。
茜色に輝いていた空が徐々に深い藍色へと染まっていく様を見上げながら、俺は己の幸福を今一度噛み締め、機嫌良く一声鳴いた。