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☶☴(山風蠱)  作者: 筬群万旗
エピローグ
16/16

山風蠱

「老師、お忙しいところ、失礼いたします」

 シャビィは三拝してから、門主の私室に足を踏み入れた。

「お久しぶりです、老師」

 シャビィの前にいるのは、老師と呼ぶには若すぎる小難しい優男だ。

「ああ、久しぶりだな、シャビィ。どうだ? 怪我の具合は」

 先週まで、院主と呼ばれていたこの男は、ジェンドラ逮捕の報せを受け、今はカタリム山の主として事件の後始末にあたっている。

「おかげさまですっかり元通りに治りました。ですが、老師、ヘム先輩は……見つからなかったのですね」

 シャビィは小さく俯いた。中庭に鳥が遊んでいるのだろうか。軽やかにさえずる声が、部屋の中まで聞こえてくる。

「……五日前、水死体が見つかったそうだ。お前には伝え辛かったのだろうが……気に止むことはない。お前が手を下したわけではないのだから」

 院主は少しずつ言葉を絞り出したが、シャビィはゆっくりと首を横に振った。

「世にあってはそうかもしれません。ですが、私にとっては同じことです」

 シャビィの微笑みは、澱むことなく、風にざわめくこともない。院主はシャビィの眼をじっと見つめ、それから静かに言い渡した。

「分かった。シャビィよ、今日をもって、お前を破門に処する」

 シャビィが静かに額づくのを、院主はじっと見つめた。

「長い間、本当にお世話になりました」

 部屋に満ちた静けさを、小鳥の羽音が横切った。伏せたままシャビィは返事を待ったが、院主は何も応えない。やがてシャビィが面を上げると、院主は苦笑してみせた。

「あんなことがあった後では、さして未練も感じぬか……何、お前だけではない。この一週間、何人もの仲間が山を下りていった。この寺も……見ての通りだ。引き払う手はずも整えてある」

 笑顔で外を見やる院主に、シャビィは迷いを打ち明けた。

「私も、わからなくなりました……私が今まで学んできたことは、正しかったのか、それとも、間違っていたのか」

 言葉とは裏腹に、シャビィの顔つきから迷いやあきらめは伺えない。

「だから、旅に出ようと思います。旅をして、世界を見て回りたい……思えば私は、ほかの先輩方と違って、浮世のことさえまるで知らない。真理に至るためにはまず、自分の目で五色の世界を見つめなければならないのだと、思い至りました。達磨大師が、そうしたように。釈尊が、そうしたように」

 シャビィの眼差しをよくよく確かめ、院主は小さく頷いた。

「その旨は、リシュンという占い師からも聞かされたよ……人によって、悟りに至るきっかけは様々だ。存外、お前にとって、その旅は寄り道ではないかもしれぬ」

 旅か――院主は小さくつぶやき、窓越しの空を眺めた。鐘の形にくり抜かれた黄色い空から、淡い陰が部屋に差し込んでいる。

「ところでシャビィ、行き先はもう決まっているのか?」

 院主の何気ない問いかけに、シャビィはさらりと白状した。

「いえ。今のところは、何も」

 リシュンの前ではバムパなどと口にしてしまったが、いざ旅に出るとなると、いかにも夢物語である。シャビィが後ろ頭をさすると、院主は晴れやかな笑顔を見せた。

「そうか。ならばちょうど良い。ついでに一つ、使いを頼まれてはくれぬか」

 院主にも、寺院にも、返しきれない大恩がある。シャビィは迷わず頼みを聞き入れた。

「私に出来ることがあるなら、是非」

 届け物か、人探しか。いずれにしても、旅をすることに変わりない。訪れた先で、よい師に巡り合うこともあろう。シャビィは院主の言葉を待ったが、院主が呼んだのは、別人の名前だった。

「……ということです。リシュン殿」

 シャビィの上を素通りした眼差しの先にいたのは、果たしてリシュンその人だった。いつの間にか、リシュンが戸口で立ち聞きしていたのだ。

「リ、リシュンさん、どうしてここに……」

 目を白黒させるシャビィに、院主は種を明かしてみせた。

「彼女を無事、白帯の奥地、無端まで送り届けて欲しい。聞けば、お前は危ういところを彼女に助けられたという。お前としても、不服はないはずだが?」

 シャビィは両手を突き出して、院主の説く理屈から身を守った。

「し、しかし……とにかくダメです! 女性と二人旅だなんて。しゅ、修行が妨げになります!」

 頑なに拒むシャビィを、薄暗いリシュンの影がしっかりと押さえつけている。挟み撃ちに会い、シャビィはすっかり逃げ場を失ったかのように見えたが、ここに至ってリシュンがシャビィを庇いだした。

「よいのです、大師。伝え聞くところによると、無端という村があるのは、未だに森が深く、賊のはびこる翠峻の山奥。かくも険しい旅に、無理に付き合って頂くことはありません……」

 翠峻といえば、僻地中の僻地である。この娘は一人で、そんなところに赴こうというのだ。

「リシュンさん……」

 寄る辺のない笑顔を見上げ、シャビィは僅かに目を細めた。

「……私が立て替えた、金三両を今すぐ払っていただけるなら」

 リシュンの口からさらりと出た一言が、シャビィのわきを流れ去っていった。何も言い返せないまま、暫く呆け、シャビィは漸く口を開いた。

「立て替えた? と言いますと……」

 リシュンは腕を組み、小さく鼻を鳴らした。

「乱闘騒ぎの時に、シャビィさんが割った焼き物のお代です。よりにもよって、お高い青磁ばかり……」

 乱闘していたのは煬威達だ。弁償なら、彼らに求めるのが筋ではないか。

「乱闘って、私は加わってませんよ。私が先輩と――」

 言いかけて、シャビィは口をつぐんだ。戦う前に、確か大通りでひと悶着があったはずだ。ヘムを撒こうと倒した棚に、焼き物が並んでいたのかもしれない。

 血の気の失せたシャビィの顔を見て、リシュンは冷たい釘を刺した。

「言わずもがな、三両は大金ですよ。港で働いて稼ぐとなると、十年かかるか、二十年かかるか……あるいは、利子を払うだけで力尽きてしまうかもしれません」

 シャビィの前にかがみ込み、リシュンはそっと付け足した。

「その点、私についてくれば、一年足らずで自由になれますよ」

 床に手を付いたシャビィの肩を、院主は優しく叩いた。

「すまん。私も出してやりたいが、奏国軍に根こそぎ持っていかれてしまってな。ここには何も残っていないのだ……それに、恩人をむざむざ死なせるわけにも行くまい」

 すっかり観念したシャビィは、力なくリシュンに頭を下げた。

「……お供いたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 リシュンも頭を下げたが、それもつかの間のこと。すぐさま立ち上がり、表の方を指差した。

「さあ、シャビィさん、荷物はここまで運んであります。船が出るまで間がないので、急いでください。――大師も、ありがとうございました」

 挨拶を軽い会釈ですませ、リシュンは足早に歩きだした。

「老師、失礼いたします」

 シャビィも立ち上がり、リシュンを追いかけようとしたところを、院主の涼しい声が呼び止めた。

「シャビィよ、道は見つかったか?」

 穏やかな眼差しを通して、静けさが二人の間に伝わった。この期に及んで、語るべき言葉はない。シャビィは左足を上げ、足の裏を院主に見せた。

「ならば、行くがよい」

 院主は小さく頷き、シャビィを送り出した。表には、呆れ顔のリシュンが待っていることだろう。シャビィは一礼して、リシュンの後を追った。

「言った端から、のんびりしないでください」

 シャビィは文句を聞き流しつつ、大きな荷物を背負い込んだ。行李(こうり)は見た目に違わず重く、女ひとりでは到底運べそうにない。

「こんなにたくさん、邪魔になりませんか?」

 シャビィが荷物を振り返ると、リシュンはため息混じりに答えた。

「しばらくは船旅なので、ご心配なく。丘に上がる時に減らせば良いのです」

 行きますよ、早く。番のいない門をくぐり、二人は坂道を歩きだした。北の異国を目指して駆ける、暖かい潮風に吹かれながら。


――下を巽、外を艮にするは山風蠱。本来は父母との死別や、葬儀を表す卦であるが、艮が末子、巽が長女を指すことから、この卦はしばしば、年上の女が年下の男を弄ぶ様に例えられる。前途多難な二人の旅路が、一体どこに向かっているのか、そればかりは、私の目にも見通せない。

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