#026『群青のインクと落ちる砂』
お恥ずかしい話ですが、この作品は、一体何年前に書いたのかすら覚えていない程、昔の作品です。
ちょっと読み返してみたら、顔から火が出そうでしたが、書き直したら意味がなさそうなので、そのまま掲載します。
読んでいただいて、ちょっとでも何かを感じていただけたら嬉しいです。
『群青のインクと落ちる砂』
放課後の教室は微かに雨とチョークの匂いがした。
つい先ほどまで窓を激しく叩いていた五月の通り雨は、嘘のように上がった。西の空には雲の切れ間からオレンジ色の強い斜光が差し込んでいる。
人気のない教室の空気は、雨を吸いこんでひどく湿めっぽく、指定の夏服である半袖の制服のブラウスが、じっとりと背中に張り付く感触が不快だった。
海野美波は自分の席に座った。机の上に置かれた一枚の小さな紙切れを、ただじっと見つめる。それは、駅前の画材屋の領収書だった。
『油彩セット、キャンバスF50号 計二万四千円』
発行日は半年前の十一月。高校の美術部で県展に出展するための画材を買った日のものだ。
指先で触れると、レシート用紙らしいツルツルとした冷たい感触がある。財布の奥底に入れっぱなしだったせいで、表面の青い印字は擦れ、ところどころ霞のように消えかかっていた。
結局、美波はこの画材を使わなかった。
真っ白な巨大なキャンバスを前にした時、筆を持つ手が震えてしまったのだ。自分の凡庸な才能への絶望と、評価されることへの恐怖が唐突に押し寄せた。それ以来、美術部にも顔を出さなくなり、幽霊部員となった。キャンバスは部屋の隅で埃を被っている。
この領収書は、美波にとって「逃げ出した自分」そのものだった。捨てることもできず、かといって見るたびに奥歯を噛み締めたくなるような、鈍い痛みを伴う紙切れ。口の中には、ストレスで無意識に噛み破った下唇からの、微かな鉄の味が広がっていた。
「……なに見てんの」
背後から声がして、美波はビクッと肩を揺らした。振り返ると、クラスメイトの柿崎透が、半分開いたスライドドアの枠に寄りかかって立っていた。彼はいつも気怠げで、放課後は図書室に入り浸っている活字中毒の男だ。
「別に。透には関係ない」
「ふうん」
透はそれ以上踏み込んでくることはなく、無遠慮に美波の前の席を引き出した。ドカリと逆向きに座る。そして、学生鞄の中からおもむろに文庫本を取り出すと、その横にコトリと小さなガラスの塊を置いた。
十五分計の砂時計だった。
真鍮の枠に収められたそれは、アンティークのような鈍い光を放っている。透がそれをひっくり返すと、中の真っ白な砂がガラスの細い首を通り抜けて「サーッ」という耳鳴りのような微かな音を立てて落ち始めた。
「……なにそれ」
「読書のタイマー。十五分だけ集中して、一回目を休ませる。スマホのアラームだと無機質で嫌いなんだよ」
透は文庫本を開きながら、視線も上げずに答えた。
「砂時計ってさ、時間が『減っていく』んじゃなくて、下に『積み重なっていく』のが見えるだろ。俺はそれが好きなんだ。無駄に過ごした時間も、こうして可視化されると、とりあえず何か形には残った気がするからさ」
その言葉は、奇妙なほど真っ直ぐに美波の鼓膜を打った。
積み重なる時間。その言葉だけが、美波の胸の奥に重く沈んだ。
美波は再び、手元の領収書に目を落とした。自分が逃げ出してからの半年間は、ただ砂のように無為にこぼれ落ちただけだった。何も積み重なってなどいない。この領収書の青い印字が薄れていくように。自分の絵に対する情熱も、ただ色褪せて消えていくのを待っているだけなのだろうか。
ヒュウゥゥゥゥ。
ふと見れば開いたままだった窓から、雨上がりの冷たく強い風が教室に吹き込んだ。
バサバサッと激しい音を立てて緑色のカーテンが宙に舞う。古いワックスの匂いと、アスファルトの匂いが混ざり合った「外の空気」が勢いよく流れ込んでくる。
「あっ!」
美波の口から、短い悲鳴が漏れた。
机の上に置いてあった領収書が、突風に煽られてふわりと宙に浮いたのだ。
美波が手を伸ばした時には遅かった。紙切れは意思を持った蝶のように窓枠を越え、茜の残る夕空へひと息に吸い込まれていった。
美波は反射的に席を蹴り倒し、教室を飛び出していた。
「おい、美波!」という透の驚いた声を背中に聞きながら、階段を一段飛ばしで駆け下りる。上靴がリノリウムの床を打ち付けるけたたましい音が、静かな校舎に響いた。
あんなもの、捨ててしまえばいい。
ただの感熱紙だ。
逃げた証拠がなくなるなら、むしろ清々するはずだ。
なのに、心臓がバクバクとうるさく鳴り、息が上がり、気づけば昇降口を飛び出して中庭へと走っていた。制服のスカートが風に煽られ、湿った空気が顔に叩きつけられる。
中庭の真ん中。
雨上がりで水捌けの悪いグラウンドの端に大きなくぼみができ、そこに広大な水たまりが広がっていた。
風が止んだ今、その水面は鏡のように静まり返り、燃えるような茜色の夕空と、ちぎれた雨雲を鮮明に反射している。まるで、地面に誰かが群青を受けとめるための巨大なキャンバスを置いたかのようだった。
美波は、息を切らして、立ち止まった。
その巨大な水たまりのど真ん中に、あの小さな領収書が浮かんでいた。
美波が一歩踏み出そうとした瞬間、ポツンと空から落ちた雨の雫が水面を叩いた。
波紋が広がる。
水を含んだ感熱紙は、ただふやけて全体が黒ずんでいくだけのはずだ。科学的に考えれば、印字の青が絵の具のように水に溶け出すことなどあり得ない。
しかし、美波の……画家の目には確かに見えたのだ。
印字の青が、パレットの上に落としたウルトラマリンのように、鮮やかな群青の筋となって水たまりの中へほどけるように溶け出し、静かに広がっていくのが。
茜色を反射した水面の中で、その青は現実の物理法則を超えて、ひどく美しく、残酷なほど鮮烈なグラデーションを描いていた。
「……綺麗」
無意識のうちに声が漏れていた。
逃げ出した過去の象徴が、今、目の前でただの色素へと還元された。夕空の色と混ざり合って新しい景色を生み出している。
ずっと胸の奥につかえていた重たい泥のような感情が、ウルトラマリンの青い滲みと一緒に、音もなくほどけて水に溶けていくような感覚があった。
ザッと背後で足音がした。
透が息を軽く乱して立っていた。彼の手には、まだあの砂時計が握られている。
「……追いつけなかったか」
透が水たまりに浮かぶ紙切れを見て、ぽつりと言った。
「ううん」
美波はゆっくりと首を振った。
「あれで、よかったの」
水たまりの底に沈んでいく紙切れから目を離し、美波は自分の手のひらを見つめた。
筆を握るのが怖くて、ずっと隠していた手。しかし、今、目の前にある夕空と水たまりの青のコントラストを見て、美波の指先は無意識のうちに「あの色をどうやってキャンバスの上で再現するか」を計算し始めていた。
「透。その砂時計、あとどれくらい残ってる?」
美波が唐突に振り返って尋ねた。透は少し目を丸くした後、手元のガラスを見下ろした。
「……半分くらい。あと七分か八分ってとこか」
「そっか」
美波は、深く、雨上がりの匂いがいっぱいに詰まった空気を肺の奥まで吸い込んだ。
「ねえ、透。私、これから美術室に行って、死ぬほど汚いパレット洗ってくる。その砂が全部落ちきるまでに戻ってくるから、そしたら一緒に帰ろう」
透は一瞬だけ驚いたような顔をした。それから、いつもの気怠げな、だが少しだけ優しい表情に戻って小さく笑った。
「……わかった。でも、遅れたら置いてくからな」
美波はローファーの踵を返し、校舎に向かって力強く走り出した。水たまりを踏み抜いたせいで冷たい泥水が靴下に染み込んでひどく気持ち悪かった。しかし、不思議とその足取りは羽のように軽かった。
背後で、透が静かに立ち尽くしている。
彼は遠ざかっていく美波の小さな背中をしばらく見送った後、手の中にある砂時計へふと視線を落とした。ガラスのくびれを静かに、確実に滑り落ちていく白い砂。その行方をじっと見つめている。それは彼なりの不器用なエールだった。
美波は走った。半年分の止まっていた時間が、彼女の中で再び、確かな音を立てて落ち始めていた。
ようやく自分の時間として。




