第一章ジュウサンワ「未来」
ルゥの手が頬から離れると同時に、リオの身体から張り詰めていた力が糸の切れたように抜け落ちた。
押さえ込んでいた博士とガドも、その変化を感じ取ったのか、互いに顔を見合わせることなく静かに身体を離す。
リオはその場へ膝をつき、肩で大きく息を繰り返した。全身が鉛のように重い。視界は霞んでいるが、先程までリオを支配していたたくさんの記憶は消え失せ、狂気も無くなっていた。
荒く乱れていた呼吸を少しずつ整えながら、リオはゆっくりと身体を起こす。胸の奥にはファストが最後に向けた穏やかな笑顔だけが、まるで焼き付いたように残っていた。
バースとガルドを連れ出してやってくれ。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。リオは拳を強く握り締めると、視線を上げた。目の前では、博士が静かに立ち上がろうとしていた。
失われた右腕には裂いた白衣が幾重にも巻き付けられ、布は血を吸って赤黒く変色している。足元には自らの血が水溜まりのように広がり、その中心へ立つ姿は誰が見ても満身創痍だった。それでも博士は顔を歪めることなく、左手だけで身を起こした。
「ごめんは言わないぜ」
震えた声だった。
「気にする事はない。私の油断が招いた結果だ」
博士の瞳には先程まで戦っていた時の激情はなく、湖面のように澄み切った静けさだけが宿っていた。リオはその視線を受け止めながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「俺は見たんだ。」
喉の奥が締め付けられる。
「全部じゃないけど、ヴェイルで何があったのかも、英雄達が何を背負ってきたのかも見た。」
博士の表情は変わらないが、その僅かな沈黙が続きを促しているようにも思えた。
「ファストは最後に俺へ言った。」
リオは自然と拳へ力を込める。
「『バースとガルドを連れ出してやってくれ』って。」
その一言だけで、地下室の空気がわずかに揺れた。さっきより少し距離を取って、二人を見つめていたガドも小さく目を見開く。
博士だけは何も言わない。
それでもリオは言葉を止めなかった。
「俺は英雄じゃない。誰かの使命を継ぐために生きてきた訳でもないし、世界を救えるような人間でもない。それでも、あの人は俺に頼んだ。」
リオは博士の目を真っ直ぐ見据える。
「だから今度は俺が頼む。」
静まり返っている地下室に、リオの言葉だけが木霊する。ルゥも、ガドも、一言も口を挟まない。
その静寂の中で、リオはゆっくりと立ち上がり博士との距離を縮めた。
「俺達と一緒に来ないか。」
決して大きな声ではなかったが、その声は何よりも強く迷いがなく、聞くものの心臓を震わせる、そんな声だった。
「英雄とか使命とか、そんなものは俺には分からないから、子どもの戯言に聞こえるかもしれない。けど、俺とファストはあんたに生きて欲しい」
博士は静かに目を閉じた。その表情には怒りも、悲しみも浮かんでいない。ただ、遠い昔を懐かしむような穏やかな空気だけが流れていた。
しばらくの沈黙が続いたあと、博士は小さく息を吐く。
「……君は優しいな。」
それはファストがリオへ向けた言葉と全く同じだった。リオは思わず息を呑む。
「ファスト兄さんが君を選んだ理由が、少しだけ分かった気がする。」
博士はそう呟くと、左手に視線を落とし、嵌められたメリケンサックを握り締めた。使い古された鉄には、地下室の灯りが鈍く映り込んでいる。
◇
拳とこの武器は、何十年も自分と共にあり続けた。
英雄の候補に抜擢され、英雄を志した日から自分に最も馴染んだのがこの武器だった。当時は馬鹿にされていたが、前任の英雄ライ兄さんの激励で英雄の座を勝ち取った。今思えば懐かしく感じる
尊敬する英雄、そんな2人の最後は知ることができなかった。どれほど悔い、憤ったか分からない。
だからこそ、少年の言葉を聞いた時は心が揺れた。英雄としてではなく、一人の人間として見れば、共に行く誘いは、決して悪いものではない。
ガルドも、あの少女もいる。旅を続ければ穏やかな日々が待っているのかもしれない。
きっと、きっと兄さん達も笑って背中を押してくれるだろう。そうに違いない。
「だが、」
私はゆっくりと顔を上げ、目の前でどこか悲しい顔をしている少年の目を見つめる。
「その願いは聞くことができない。」
少年は思ったよりも冷静に、目線で私に続きを話すように促した。
「ファストは最後まで英雄だった。」
「私も同じだ。」
英雄の使命を私達で終わらせる訳には行かない。私の切願はきっと、ガルドが果たしてくれると信じている。が、情けないことに、どうしていいのかまだ答えが出ない。
だから今は、英雄として拳を振るとしよう。
幾度となく繰り返したファイティングポーズ。なかなかどうして右腕がないのに違和感はない。
「私はヴェイルの英雄だ。名前にも刻まれている」
私は気付かぬうちに微笑んでいた。他者が見てどう思うかは分からないが、今の私は諦めも後悔もなかった。
「リオ。」
自然と少年の名を口にしていた。何気に初めてだ。
「君は君の道を進め。」
私は、これ以上はボロが出てしまうと思いもう喋らなかった。少年も同じく喋らない様子だったが、私の考えを呼んでくれたのか、震える手で剣を握り締めた。
静寂が場を支配して数秒経つ、どうしても戦いたくないと言うのなら、私から仕掛けるしかなかろう。
「バース=ヴェイル、参る!」
床を踏み抜く勢いで間合いを潰す。右腕を失ったことで踏み込みのバランスが変わったか。しかし、その程度で崩れるほど積み重ねてきた年月は浅くない。
拳と剣が振り抜かれたのはほぼ同時だった、鋼同士がぶつかって、地下室へ甲高い音が響き渡る。
軽い。
先程までとは比べ物にならないほど、剣に迷いが生まれている。記憶へ呑まれていた時のような粗暴さは消えて、一太刀ごとに自分自身の意思が戦闘の邪魔をしているな
ファスト兄さんなら、この剣を見て何と言うだろうか。
そんな考えを頭の隅へ追いやり、私は左足を軸に身体を半回転させる。刃を受け流した勢いを殺さぬまま肩口へ拳を叩き込むと、少年は咄嗟に後方へ跳び、衝撃を逃がした。
反応は悪くない。が、やはりまだ甘い。
着地の瞬間を狙い、一気に距離を詰めればいい。剣士は足が止まる一瞬こそ最も脆い。何度も戦場で見てきた光景だ。拳が届く寸前、少年は身体を沈めながら剣を右から左へ薙ぎ払おうとする。
よく考えられた迎撃だ。ファストがよく使っていたが、つくづくそう思う。対策されていなければの話だがね。
剣に勢いが乗る前に、左手で弾く形で押し上げると同時に踏み込み、空いた懐へ膝を突き刺す。
鈍い衝撃が足先へ伝わる。何度経験しても人を殴るという行為は、如何せん好きにはなれない。少年は苦しそうだが、剣を支えに立ち上がり、私から決して目を逸らさない。
強くなった。力や身体能力はさほど変わらないが
体の動かし方が素晴らしい。私の攻撃を食らう直前に急所はずらしていた。きっとファスト兄さんの記憶が、少年を成長させたのだろう。
少年が、再び剣を構えたのを見てから床を蹴る。互いの距離が一瞬で消え、拳と剣が幾度も交錯した。三度、四度と打ち合ったところで、不意に肺が焼けるような熱を訴えた。
息を吸うと肺だけでなく、身体中が悲鳴をあげている。右腕を失った影響だけではなく、流れ続けた血が、確実に私の身体を蝕んでいる。
視界の端がゆっくりと暗く滲んできた
……長くは保たんな。
以前の私なら、この程度の攻撃で息が上がることはなかっただろうが、右腕を失った代償は、思っていた以上に大きい。
それでも構わない。
片腕であろうと、立ち続ける限り私は英雄だ。
「辛いなら、今降参すべきだと思うが?」
「、そんなセリフ、自分が辛い時以外出ないんじゃねぇの」
昔のガルドみたいに生意気なガキだ。向こうも息が上がっているにも関わらず、反論の時は明確にそれを隠している。パワーや技術面では圧倒的に私だが、残りの体力的に見てこのまま続ければ共倒れだろう。
そろそろ決めにかかろう。
薄れゆく意識を力ずくで繋ぎ止め、私は今までで最も深く踏み込んだ。身体は今でも右腕があるつもりで動こうとする。半ば無理矢理、左へ重心を乗せ直し左手で突きを繰り出すが、流された。
このままでは埒が明かん。体力も限界に近い。次の攻撃に私は、蹴りと左手を使っての連撃を選んだ。
いくら体が動かないといっても、この少年の防御ひとつ崩せない程落ちぶれた訳ではない。
思いのほか早く勝機は訪れた。連撃の途中のフェイントに引っかかって、剣を空ぶった。その一瞬を見逃さず左拳が胸元を捉える。
鈍い衝撃と共に少年の身体が大きく吹き飛び、地下室の壁へ激しく叩き付けられた。砕けた瓦礫が舞い上がり視界を白く染める。静まり返る地下室の中で、私はゆっくりと息を吐き、肩の力を抜いた
危なげなく、とはいかなかったな。
見違えるほどに強くなった、と心から思う。あと1度でも反撃を許していれば、倒れていたのは私だっただろう。私ももう限界だ。
さっきの砂埃は晴れたのだろうか?霞む視界ではそれすら判然としない。そんなことよりも、とにかく今はすぐこの場へ横になりたい。もう何も考えず、目を閉じてしまいたい。
それなのに。
私の身体は私の意思とは正反対に、少年の方へ歩き始めていた。いや、私の意思ではなく、身体が勝手に動いていた。長い年月を英雄として生きてきた身体は、考えるより先に敵を制圧することを覚えてしまっている。私の意思など、お構いなしに。
まだ私の中でも答えが出ていないのに。
英雄として使命を果たしたいのか。
ファスト兄さんの願いを叶えたいのか。
ーーそれとも、この少年の手を取って生きたいのか。
何一つ答えは出ないのに、身体だけは迷わない。
気が付けば、倒れて動かない少年の目の前まで歩み寄り、左拳を振り上げていた。
やめろ。
私はこの少年を殺したくない。
やめてくれ。
この少年は兄さんが選んだんだ。ガルドと共に、これからを託した少年なんだ。
止まれ、止まってくれ。
私の願いを嘲笑うかのように、振り下ろされた拳は、少年の頭まであと僅かというところまで迫っていた。




