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42:崩れる均衡

 狙い通りだ、とリネアは馬を走らせながら、小さく笑った。


 背後で、メルローズ家の兵たちがばらばらに退いていく。傍から見れば、敗色の濃い軍勢にほかならない。動かなくなった影や、うずくまる者も少なくなかった。


 けれど、そのすべてが本当に戦えなくなっているわけではなかった。


 リネアの目には、地面に伏せた兵の何人かが、血に見せかけた泥をつけたまま、わずかに指を動かして合図を送り合う様子が見えている。胸元を押さえて呻いているふりをしながら、そっと剣に手をかける者達もいた。彼らは「押されている軍」の一部として、演技をしている兵たちだった。


 劣勢に見せかけて、相手を慢心させる。狭い地形に誘い込んでから、側面と背後から一気に叩く。


 作戦そのものは、古くさいほど単純だ。けれど、古典的な手ほど、油断している相手にはよく効く。ルーソン家当主が、リネアとキャンディに気を取られながら、全体を勝ち戦として受け取ってくれているのなら、それに越したことはない。


 白馬の蹄が踏み鳴らす先には、緩やかな窪地が口を開けていた。


 両側を低い丘に挟まれ、ちょうど漏斗のように狭まっていく地形だ。あらかじめ木の陰に潜ませた歩兵たちが、息を潜めている場所でもある。


(もう少し)


 リネアは、馬の速度をほんのわずかに落とした。追ってくるルーソン軍の速度が、自分たちの退き足と綺麗に揃うように、距離を測る。背後で「追え」という声がもう一度響いた。


(ええ、そのまま来なさい)


 リネアは剣を斜め上に掲げた。陽光を受けた刃が鋭く光り、そのきらめきを合図にしたように、キャンディが一声だけ大きく吠えた。

  

 その途端、歩兵たちが立ち上がり、武器を構えて坂を駆け下りる。倒れていた筈のメルローズ兵も、呻き声を喉の奥で切り替え、泥を払うように体を起こした。さっきまで胸を押さえていた男が、今度はその手で剣を握り直す。


 リネアは、振り返って全体の形を確認した。


 ルーソン軍の動線が細く絞られていく。左右の伏兵と、背後から起き上がった兵が、横と後ろから叩き始めていた。作戦は今のところ狙いどおりに進んでいる。この勢いのまま敵の心を折ればいい。


 だが、そう思っていた矢先、その流れの中に、ひどく場違いな一人の姿を見つけた。どこかで見覚えのあるシルエットが、こちらに向かって迫ってきたのだ。


 馬の上で、上半身だけがわずかに浮き、ほとんど鞍から転げ落ちかけている。片手は手綱を握り締め、もう片方の手は、何をどうしていいのか分からないまま、空中を泳いでいた。


(嘘でしょう)


 リネアは一瞬、幻覚であれば良いと思った。だが距離が詰まるにつれ、それが紛れもなくギデオンなのだと分かった。顔の青ざめ方も、苦手な事をしているとき特有の口元の引き結び方も、どれも見慣れたものばかりだ。


 出陣の話が持ち上がったとき、ギデオンはあれほど抗議していた。


 痛いのは嫌だ、汗だくになるのも嫌だ、血なんてもっと嫌だと、列挙できるだけの「嫌だ」を並べたてていた。だからこそ、身なりだけ整えて、丘の上に立っていてくれればそれでいいと説得したのだ。それなのに今、その本人が、自ら汗と血の渦の中心に向かっている。


「何やってるのよ、ギデオン!」


 気づけば、叫んでいた。ギデオンは顔を上げ、なんとか姿勢を立て直そうとしながら、こちらを見て、声を張り上げる。


「僕だって聞きたいよ! どうしてこんなところに来てるのか、自分でも分からないんだ! 正気なら、絶対ここまで降りてこないっ!」

「足手まといよ!」

「そんなこと、言われなくても分かってる!」


 ギデオンの返事は、妙に真っすぐだった。自分の戦闘能力に関しては、彼もさすがに幻想を持っていない。問題は、その自覚がある上でなお、ここまで来てしまっていることだ。


 ルーソン家当主と副将が、その短いやり取りを聞いていたかどうかは分からない。ただ、撤退に見せかけた作戦だったことに気づき始めたせいか、二人とも顔に余裕を失っていた。


「小賢しい真似を!」


 当主はそう吐き捨てると、背後から間合いを詰めた。土を蹴り上げる気配とともに、リネアの肩越しに鋼の気配が迫る。リネアは反射的に上体をひねり、手首だけで剣を振り上げて、その一撃を受け止めた。


 鉄と鉄がぶつかる音が、響き渡る。


 白馬の首がのけぞり、キャンディが牙を剥いて吠えた。リネアは、剣に伝わる重さの違いを冷静に測っていた。斜め後ろから叩きつけられた一撃をまともに受ければ、肘を砕かれかねない。ほんの少しだけ刃を滑らせるように角度を変え、根元で相手の剣を押し払い、力を流した。


 だが、その時だった。


 視界の端で、人影がすとんと低くなった。槍に弾かれたわけでも、馬が大きくつまずいたわけでもない。それなのにギデオンが、きれいに馬から落ちたのだ。


 何も起きた訳でもないのに、なぜ落ちたのだろう。戦場のさなか、冷静に判定してしまい、リネアは一瞬だけスンとした気分になる。


 ギデオンの護衛兵が、慌てて馬を乗り捨てて駆け寄った。盾を前に出し、主君の身体を起こそうと腕を差し込む。ルーソン家の副将は、その隙を見逃さなかった。主君の横をすり抜けるように馬腹を蹴り、刃を構えてギデオンめがけて向かっていく。


 ギデオンは、起こされながらも、なんとか手を伸ばして剣を掴んだ。鞘から抜く動き自体はぎこちないが、逃げ出す素振りは見せなかった。彼の目は、これから自分に向かってくる刃を、ちゃんと捉えていた。


 その姿を見た途端、リネアの中で、別の種類の焦りが走った。だめだ。彼に人を斬らせてはいけないと、咄嗟に思ったのだ。


 ギデオンは臆病でナルシストで、女遊びが激しく、自尊心だけはやたらと高い、どうしようもない人間だ。それでも、その手は血に染めるべきではない、とリネアは思っていた。


 あの手は、ろくに味わいもしないワインのグラスだけ、それらしく持っているのがお似合いだ。重い荷物も泥のついたものも避けてきて、せいぜい鏡の前で自分の髪を整えるか、女の腰に添える位しか役目のなかった指だ。


 だが、それでも剣で肉を裂く重さと温度を覚えさせたら、もう二度と、気楽なだけの手ではいられない。


 リネアは、ルーソン家当主に背を向けた。白馬の腹をかかとで押し、身体ごと反転する。当主の剣が空を切り、代わりに彼女の背中を風が撫でた。馬の鼻息がすぐ後ろで荒く鳴るのを背中で聞きながら、リネアは、副将の横腹に剣先を滑り込ませた。


 鋼が肉を裂く鈍い感触が、柄を通じて掌に伝わる。副将の体から息が漏れ、そのまま片側へ崩れ落ちた。しがみついていた馬具から手が離れ、地面が彼を受け止めた。


 すかさず、ギデオンの護衛兵が副将に飛びかかった。主君と敵の間に身を滑り込ませ、転がる身体を盾ごと押さえ込み、短剣で動きを断つ。


 その瞬間、リネアは背中から鋭い熱を覚えた。当主の刃が彼女の体を貫き、すぐに引き抜かれていったのだ。熱と冷たさが同時に広がり、呼吸が胸のあたりで止まりかける。


「リネア!」


 ギデオンの声が響いた。先ほどまでの混乱した叫びとは別種の、喉の奥を裂くような鋭い悲鳴だった。

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