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41:戦場に咲く絆

 戦場は、土埃と汗と血の匂いがこもっていた。槍の折れる音や甲冑に刃が当たる鈍い響き、踏み荒らされた地面が低く唸るような振動までもが重なり、周囲は絶え間ないざわめきに包まれていた。


 その渦を、ルーソン家の当主は少し高い位置から眺めていた。


 鞍上で軽く腰をずらし、馬の首筋を指で叩く。癖のような仕草だった。こうして敵の隊列が崩れていく様を眺めるのは、これが初めてではない。そもそも彼は、境をじわりと広げて相手を挑発し、その反応を口実に領地を奪うという手を、これまでにも何度も繰り返してきたのだ。


 目を細めると、メルローズ側の前列の乱れ方がよく見えた。


 盾はばらばらに開き、槍の角度も揃わない。押されているときの軍は、遠目にも骨組みの崩れ方が分かりやすい。あちこちで馬が方向を変え、逃げ腰になった兵の動きと、まだ踏みとどまろうとする者の動きが、見事に噛み合っていない。


 いずれ綻びが決定的な裂け目になるだろう。


 ルーソン家当主は、わずかに口元を緩めた。だが、その笑みが、すぐに止まった。乱れ始めた隊列の中で、一筋の白い影が目に飛び込んできたのだ。白馬が兵のあいだを縫うように駆け、その鞍上に女がいる。リネア・メルローズだった。


 蜂蜜色の髪が、泥と血を受けながらも、陽を拾って輝くようだった。


 彼女の振るう剣の軌道は無駄がなく短い。振り抜かれた刃が甲冑の隙間を掠めるたび、斬られた兵の体から力が抜けていった。喉、腕、膝。届きさえすれば致命になり得る箇所ばかりを、躊躇のない速度で選んでいた。


 顔がよく見える距離になったとき、リネアの口元がわずかに上がっているのが分かった。怯えの影はなく、むしろ目の奥には、どこか楽しげなきらめきが宿っている。


 さらに目を引くものが、そのそばにいた。筋肉を塊のように詰め込んだ犬が一匹、白馬の足元を滑るように駆けていた。大きさからすれば立派な猟犬か、訓練された番犬の類だろう。ところが首には、どういう趣味なのか、薄桃色のリボンがきちんと結ばれている。愛玩犬の飾り紐といって差し支えない可愛らしさだ。


 犬は、戦場の意味をよく理解しているように見えた。


 突っ込んでくる敵騎兵の横をかすめるように走り抜け、馬の蹄のすぐ上の肉を噛む。嘶きと共に馬が前に崩れ、その勢いのまま、騎兵が地面に投げ出された。土煙がまだ立ち上る前に、犬はもう方向を変えている。倒れた男の喉元目掛けて跳びつき、鎧の隙間を見つけた瞬間には、牙を深く押し込んでいた。


 薄桃色のリボンが、そこでまた一度、小さく揺れる。


 場違いなほど可愛い色の飾りが、動くたびに、ルーソン家当主の目は、どうしてもそこへ引き寄せられた。


 ただ、どれほど目を引こうとも、それはあくまで戦場の中の一点にすぎない。リネアと犬の通った筋だけは見事に切り開かれているが、その周囲を形作る大きな輪のほうは、崩れていた。


 周囲を見渡せば、メルローズ家の兵の多くは地に伏している。


 膝をついてうめく者に肩を押さえてうなだれる者。ただ茫然と空を見ている者もいる。盾を捨て、武器だけを握りしめている姿は、もはや前進の気配を失っていた。あちこちで撤退の合図めいた動きも見える。馬を後ろへ向ける影が増え、隊列は縦横に乱れ始めていた。


 見慣れた負け戦の兆候だった。


 ルーソン家当主は、鼻で短く笑った。これならメルローズの三男坊も、今ごろ顔を青くしているに違いない。そして、その三男坊の軍勢の中で、唯一、目を楽しませてくれるのが、リネアと犬だと気づき、当主の中に、勝ちを確信した者特有の余裕が生まれた。どうせ沈む側の駒なら、沈む前にどんな顔をしているのか、近くで見ておくのも悪くない。


「少し前へ出る。護衛を付けろ」


 手綱を軽く引くと、黒い馬が鼻息を荒くして前脚を上げた。彼の周りを数騎の騎兵が固める。暗い赤の布を肩に巻いたルーソン家の兵たちが盾の位置を確認しながら、主人の馬を守るように動いた。


 戦場の一角が、ゆっくりと開いていく。

 

 やがて、双方の護衛たちが互いの進路を塞ぐ形になり、戦場の喧騒の中に、小さな空白が生まれた。その真ん中で、ルーソン家当主とリネアが向き合う。当主は、口の端を引き上げる。戦場で新しい玩具を見つけた貴族の笑いだった。


「ずいぶんと楽しそうに暴れてくれるじゃないか。これだけ動けるなんて大したものだ」


 リネアは視線を当主に向ける。その目には、ただ相手の評価を測っているような静かな興味だけがあった。ルーソン家当主は、近くの兵たちの耳にも届くように、わざと大きな声で続けた。


「だが、駒が一つ強かろうと、盤が割れていては意味がない。父親と兄貴たちが積み上げた土台の上で、お前の夫は鏡に映る自分の姿を眺めているだけだ。領地も兵も、その土台ごと譲り受けたくせに、その重みすら分かってはいない。自意識だけは一人前だが、ほかは全部、お下がりだな」

「そうね、あなたの言う通りだわ。ギデオンはまだ分かっていないところが多い。でも、分かっていないなら、学んでいけば良いだけよ」

「あんな、ろくでなしのために、よくそこまで庇い立てする気になれるな」

「だって私は妻だもの」


 リネアは、血の飛沫を頬に受けたまま、当主に向かってにっこりと笑った。その笑顔には迷いがなく、自分が誰の側に立つのかを、当然のこととして受け入れている顔だった。


 ルーソン家当主は、その揺るぎなさに、かえって興味をそそられた。


 沈みかけているとしか思えない陣営に身を置きながら、ここまで平然と主を庇う女はそう多くない。忠義と呼んで済ませるには惜しく、敵から奪い取って手元に置きたくなる種類の資質だ。


「妻、ね。そんな肩書きに、そこまでの値打ちがある相手か?」


 少し声の調子を変える。褒めるときの音色をよく知っている人間の声だった。


「女でありながら、ここまで戦える者は稀だ。お前自身は、十分に貴重だ。だからこそ惜しいんだよ。あんな男の影に埋もれて沈むにはな。……ルーソン家につく気はないか? このままではメルローズ家の負けは、もう決まっている。こちらに来れば、腕に見合った戦場をいくらでも用意してやる」


 彼の頭の中では、あっという間に幾つもの算盤が弾かれていた。メルローズ家から有用な駒を引き抜き、同時にギデオンの面目を潰す。領地の境を一つ手に入れるより、よほど後々まで響く妙手になり得る。


 リネアは、彼の言葉を一通り聞き終えてから、わずかに首を傾げた。白馬がその動きに合わせて耳を動かす。犬は、主人の足元でぴたりと動きを止め、牙の間から血の味を確かめるように息を漏らした。


「悪いけれど、あなたは私の好みじゃないの。ごめんなさい」


 戦場の真ん中で、奇妙な言い回しだった。求婚の断り方にも似た調子で、裏切りの誘いを払いのける。リネアは続けた。


「それに、沈みかけているかどうかは、もう少し後で判断しても遅くないと思うわ」


 淡々とした声だった。ただ、その目の奥に宿った光は、先ほどよりも冷たく、はっきりしていた。何をどこまで見ているのか、ルーソン家当主には読み切れない。彼にはただ、自分の誘いを軽くいなされた、という事実だけが残った。


 リネアは、それ以上何も言わなかった。手綱を引き、白馬の頭をくるりと返す。長い尾が、血と泥を払うように翻った。その背後で、メルローズ家の兵たちも動いた。メルローズ家の退き支度は、もはや一部の動揺ではなく、全体の流れになりつつあった。


「追え」


 当主は一言告げて、前へ出る。狙いはただ一つ、逃げる敵の象徴を、その勢いのまま叩き潰すことだ。彼の視界を占めていたのは、血に濡れた白い上着と、蜂蜜色の髪だけだった。

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