13章-8.幻術とは 2005.4.12
「ここで大丈夫だろう。目を開けなさい」
僕は瞼を開けて周囲を確認した。先ほどいた場所からそれ程移動はしていないとは思う。代り映えの無い医療施設地下フロアの廊下が続いているだけで、何が変わったのかすら分からなかった。
だが正直、どれだけの時間、どれくらいの距離、どの方向へ歩いたのか、正確なものが把握できないと言う不思議な感覚だけが僕の中に残っていた。
「目を開けたまま進むと感覚を狂わされて、別の方向へ行ってしまうという幻術が掛けられていた。つまりこの先に幻術師……、若菜がいるかもしれない」
「ワカナさんが!?」
「なんだ。彼女を知っているのか?」
「はい。以前一度だけお会いしました。まだお腹が大きい時に」
「そうか……」
以前、避難地域を訪れた際に、爛華と共に医療施設にいたワカナの事を僕は思い出す。その時はまだお腹が大きく、ランカには妊婦仲間なのだと紹介された。一重の瞼に赤い瞳、アッシュグリーンの髪を一つに纏めた姿だったと記憶している。
彼女が戦える人間なのか、僕は分からない。六色家の人間であればある程度は戦えるのだろうか。
もしかすると、今まさに1人で戦っているのは彼女なのではないだろうかと不安になる。
一刻も早く向かおうと、僕は足を踏み出そうとした。
しかし、僕は踏み出す足をどちらへ向ければいいのか分からず固まってしまった。
そう。周囲に戦闘の気配が無かったのだ。勿論音もない。
故に、どちらを目指せばいいのか分からなかったのだ。
「今この場で、気配も音も、何も感じ取れないのも幻術だ」
幻術でそんなことまで出来ると言うのか。一体どんな仕組みなのかさっぱり分からない。
だが、こんな仕掛けができるのであれば、むしろ上手く敵から隠れきる事も可能なのではないだろうかと思うのだが。
僕が真剣に考えていたのが面白かったのか、顔を上げると六色家の男性は呆れたように笑っていた。
「何となく君の考えている事は分かる。幻術は便利な道具のように思うだろう。だが、幻術はそれ程万能ではない。大勢を相手にする場合には直ぐに破られてしまう。掛ける対象との相性もある」
「そういう物ですか……」
「習得が難しい割に効果はさほど期待できない。だから、六色家のくせに一切幻術が使えない者もいるくらいだ。幻術を扱う一族なんて言っているくせに、これでは笑ってしまうな」
彼はそう言って、自身の口ひげを弄りながら自嘲気味に笑っていた。
幻術はそこまで万能な物ではないらしいが、それでも先ほど体感した仕掛けは凄い物だと僕は感じた。戦闘に於いて、あんな仕掛けが出来るのであれば、いくらでも戦略の幅が広がる。敵を誘導する事が出来れば、有利に戦闘できるとついつい考えてしまう。
だが、今は目の前の戦いに集中すべきだ。方角が分からないため、六色家の男性だけが頼りだ。僕は彼の後を付いて行く。
「あの子がここで幻術を仕掛けたのであれば……」
男性は周囲を細かく見回しながら声を漏らす。何かを探しているのだろうか。
「つまり、この方角へ……」
男性は突然立ち止まり、何か集中し始めた。
当然僕には何も感じ取る事は出来ない。何をしようとしているのかすら分からない。
「おっとこれは不味い。悪いが先に行く。ついでに君の狂気を少し頂く」
「え?」
僕は困惑する。
「大丈夫だ。向かうべき道は狂気を辿ればいい」
「ちょ……」
僕が何かを言う頃には、目の前にいた彼はいなくなっていた。
僕は独り困惑したままその場に立ち尽くす。
一切状況が分からない。だが六色家の男性が何かを感じて先を急いだという事は、急を要する事態がこの先にあるのだと想像できる。僕を待つだけの余裕がないほどの急ぎだという事だ。
それに、僕が纏っていた狂気は、今の一瞬で、根こそぎ男性に喰われてしまったのだ。それ程の狂気を欲しがるくらいだ。相当厳しい戦闘が行われているのだろう。
1対多数であれば、助っ人の人数は多いに越したことは無い。僕自身も一刻も早く向かうべきだろう。
僕は目を閉じて狂気の行く先に集中する。
僕から毟り取られた狂気はどこへ行ったのか……。
するとすぐに、面白いほど明確に狂気を感じる事が出来た。
そして、六色家の男性と共鳴しているからか、周囲の様子も良く分かる。
僕はその狂気を辿って。迷いも恐れも無く進んでいった。
***
僕が六色家の男性の狂気を追って行くと、既に戦いは終わっていた。20人以上の戦闘員達の死体が転がる部屋で、彼と六色 若菜だけが立っていた。彼女は薄い緑色のセーターに濃いベージュのパンツを履いていたが、至る所に返り血を浴びて汚れてしまっていた。それ程この場で激しく戦ったのだと分かる。
だが、特に怪我はなさそうだった。その様子に僕はひと安心する。
「置いていってすまなかった」
「いえ。僕のペースに合わせていては、間に合わないかもしれない状況だったのだと理解しています」
男性の隣に立つワカナの表情は暗い。疲労も見え、以前会った時のような笑顔はそこにはなかった。
「百鬼君……」
ワカナは顔を上げて僕を見る。その真っ赤な瞳が揺れている。
「えっとその……。爛華を……。ランカを見なかったかしら……?」
「っ!!」
やはりそうなのだ。やはり、ランカはワカナを含めた他の怪我人達を逃がすために、足止めとして、あの場にいたのだ。
ワカナは僕の表情を見て、全てを悟ったのだろう。
「いた……のね……?」
「はい……」
「生きては……?」
僕は首を横に振った。その途端彼女は膝から崩れ落ちてしまった。そして俯き両手で顔を覆い肩を震わせていた。
僕はそんな彼女に対して何も出来なかった。かけるべき言葉も分からなかった。
「ランカ……、どうしてよ。絶対に全員蹴散らして追いかけるって……。虎河君の成長を見届けるんだって……。トラさんより強くて元気な子に育てるなんて言ってたじゃない!!」
彼女の叫びだった。
その言葉は僕の心も刺していく。
やり切れない思いは同じだ。こんな所で命を落としていい人ではなかった。
ランカには、まだこれから先をずっと生きて欲しかった。
そんな思いがぐるぐると回る。
「ワカナ。私達の戦いはまだ終わっていない」
「……」
「まだ、やるべきことが残っているだろう」
「……」
「立ちなさい。そのランカという人に、託されたのだろう?」
彼女は俯いたままだったが、ウコンの言葉に静かに頷いていた。
そして何かを決意するように、拳をきつく握っていた。きっと気持ちを懸命に切り替えているのだろう。僕にはその気持ちが、痛い程理解できてしまう。
僕達は、戦う事が出来る。だから、ここで悲しみに暮れる事が『最善』ではないのだ。
やれる事があるのだ。やらなければならない事があるのだ。だから、どんなに辛くても立たなければならない。
そうしなければ、きっと後悔する事になってしまうのだから!
「……はい。その通りです……。鬱金様……。申し訳……ありま……せん。取り乱して……」
「いや、構わない」
ワカナは涙を拭いながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「ナキリ君も……ごめんなさい……」
「いえ……」
「案内するね、氷織ちゃんも無事だから」
「ほ、本当ですかっ!? ヒオリは……」
「嘘なんて言わないって。大丈夫。東鬼君がしっかり付いてるから」
「シノギも……?」
ワカナは僕を安心させるように、優しく微笑んで頷いてくれた。
まさか、ヒオリもシノギも無事だなんて。
絶望的だと思っていた。
間に合って良かったと。直ぐにここへ向かう事が出来てよかったと。心の底から感じた。
「ありがとうございます」
僕は頭を下げた。
ここでワカナが命をかけて戦っていなければ、まともに動けないヒオリ達は麒麟に捕まっていただろう。
そもそも、走ることすら出来ないのだから、ここまで逃げることすら大変だったはずだ。
「それはお互い様よ。ナキリ君がここへ鬱金様を連れてきてくれなければ、皆死ぬか連れていかれていたんだから……」
鬱金様というのが、この左足と、左腕、そして左目を失った、患者衣を着た六色家の男性の事なのだろう。ワカナから様付けをされているのだから、相当上の立場の人間なのだと想像する。
確かにとんでもないオーラを持つ人間ではあると感じていた。気軽に話し掛けてはいけないような人だったのかもしれないと、今更ながらに感じて、僕は冷や汗をかく。
「君まで畏まる必要は無い。私はただのおじさんだ。六色家内ではちょっとだけ偉い立場なだけだ。外部の人間は気にするものでは無い」
「いや……え……」
それは無理がある。
僕の困惑する様子が面白かったのか、彼は声を出して笑っていた。
「六色 鬱金と言う。六色家内には6つの派閥があって、それぞれに象徴となる色がある。私は黄色の派閥をまとめる者だ。『黄の当主』と呼ばれることもある」
「黄の当主……」
「そうだ。なに、当主といったって大したことはない。『ウコンさん』とでも呼んでくれ」
「……」
僕の引き攣る表情がおかしかったらしい。患者衣を着た六色家の男性――ウコンは再び笑っていた。ワカナに至っては呆れて頭を抱えていた。
***
ワカナに案内された場所は小さな倉庫であり、室内には、ヒオリとシノギの他、ワカナの息子である常磐とランカの息子である虎河。そして、他の怪我人が大勢いた。
皆酷い怪我だ。この状態で逃げ切ったのは奇跡かもしれない。
「ヒオリ……」
僕は車椅子に座るヒオリの元へと駆け寄った。
彼女の膝の上には、トキワとタイガが座っている。2人とも泣くことも無く大人しくヒオリに抱かれていた。
「ナキリ……。助けに来てくれてありがとう」
「うん」
ヒオリは静かに泣いていた。
僕はそんな彼女の前に膝を着いて、顔を覗き込む。そして零れる涙を優しく拭った。
「私ね……何も出来なかった……。何も……」
緊急事態に逃げることしか出来なかった自分を責めているのかもしれない。
ヒオリは1人では移動もできない。誰かに車椅子を押してもらわなければここまで来られなかっただろう。それが、余計に彼女を苦しめているのかもしれない。
「私、周りに迷惑しかかけてない……」
そんな事ないよ、と言いたいが、恐らく多大な負担を周囲に強いたはずだ。ランカだって自分と息子だけを守るのであれば、逃げきれたはずだ。
ここにいる怪我人達まで守ろうとした故に、無謀な戦いをする事になり、命を落とした。それは事実だ。
「ランカさんは……?」
「間に合わなかった……」
僕の返答を聞いて、ヒオリは再び顔をくしゃくしゃにして涙を流した。僕はそんな彼女を軽く抱きしめることしか出来なかった。
「ナキリさん。今大丈夫ですか?」
背後から声をかけられて振り向けば、シノギが立っていた。相変わらず彼らしい鋭い目つきだ。
「現状の報告をした方がいいと思いまして」
「うん。そうだね。助かるよ」
僕はシノギからこの状況を詳しく聞くことが出来た。どうやって逃げてきたのか、ここに避難した人間は誰なのか等。報告と共に、手書きのメモを受け取った。
僕が気になりそうな事はしっかりと網羅されている。これからどう動くのが最善か、検討に必要な情報に抜けは無い。
全くいつの間にこんなに成長したのだろうか。自分のコピーが出来たかのような安心感である。
「シノギがここにいてくれて良かった。ヒオリの事も本当にありがとう」
「はい!」
この後は怪我人達を地下通路の入口まで送り届けなければならない。この避難地域から逃がすのが最善だ。
僕は気を引きしめる。まだやるべきことが沢山あるのだ。僕は大きく深呼吸し、周囲を見回した。そして、ゆっくりと口を開く。
「この後の動きについて話そうと思う。聞いてくれないだろうか」
僕はこれからの作戦を、その場にいる全員に伝えたのだった。