第三章:過去の特異点①(平安の怪・受け継がれる味)
霧の深い平安京の辻。
冷たい石畳と築地塀に囲まれた路地裏。
追ってくる怪異を振り切ったかに見えたその瞬間、闇の中から這い出してきた怨霊の群れの中から、掠れた声が響いた。
『――仁……』
「やめろ……来るな……」
仁がその場に崩れ落ちた時、暦がすっと前に立ちはだかり、デバイスを構えた。
「ここは、私が塞ぐ。お前は下がってろ」
「君だって、一人じゃ――!」
「……私には、これしかできないからだ」
群がってきた怨霊が暦の死角へと飛びかかったその瞬間、仁は叫び声を上げながら泥水を蹴飛ばして飛び出した。
「危ないっ!」
仁は自分の体を盾にして暦を庇い、怨霊の群れの中へと転がり込んだ。
「なっ――……!」
「早く……! 撃てよ……っ!」
「……っ!」
震える指先が引き金を絞り、眩い光が怨霊を消し飛ばした。
戦闘の静まった瓦礫の中で、息を切らす仁をそっと支えながら、暦はぽつりと呟いた。
「なぜ、庇った」
「分からないさ……ただ、目の前で人が傷つくのを見過ごせなかっただけだ」
仁の言葉に、暦はハッとしたように目を見開いた。
やがて振り返った仁の視線の先には、もう怨霊の影すらなかった。
だが、その残響だけが重く空気に残っていた。
周囲の景色が朝の気配へと移り変わり、霧の晴れた辻に仁の足が着地した。
混乱する仁の横で飛び込んできたのは、焼き討ちに遭ったばかりの小さな露店と、そこにへたり込んでいる一人の菓子売りだった。
男は泥まみれになりながら、木箱の欠片を握りしめて震えている。
男の手元では、作りかけの餡の入った壺が転がっている。
「もうおしまいだ……。せっかく作った甘味も、戦で全部燃えちまった。こんなものを作っても、どうせ明日には何も残りやしないんだ……」
仁は目の前の壺に目を落とした。
足取りは重かったが、仁はふらつく足取りで男に歩み寄り、その肩を掴んだ。
「……待って下さい」
「なんだ、あんた……?」
「明日には消えてしまう‥‥って言いましたか」
仁は荒い息を整えながら、まっすぐ男を見据えた。
「それでも、今これを食って腹を満たす人がいるなら、意味はある筈です」
男は驚いたように目を見開き、仁の顔を見つめる。
やがて、荒い息をつきながらも、男は自らの手で、素朴な菓子の原型を形作っていく。
仁は驚く菓子売りの隣にしゃがみ込み、泥で汚れた手を袖で拭うと、黙ってその隣で餅をこね始めた。
その姿を見た暦は静かに目を伏せ、自分の腕に刻まれた紋様を見つめながら呟いた。
「……歴史のシナリオから外れたものは、すべてなかったことにされる」
「君の組織は、いったい何をしようとしているんだ……?」
「……私も、そういうものだと思っていた」
仁は何も言わず、餅をこねる手を止めなかった。
二人がこねた素朴な餅の形は、歴史の教科書のどこにも記録されていないものだった。
仁が指先についた餡を拭う。
その瞬間、皮膚の内側を焼くような激しい疼きが走った。
「……っ!」
足元の空間が、不気味に明滅し始める。
「――検出。決定された過去の因果に対する、外部からの新たな選択の介入」
冷たい声が空間の裂け目から響いた。
暦が顔を上げる。
「……戻される」
「何だ?」
「このままじゃ、ここにいられない」
仁は焼けた露店を振り返った。
さっきまで絶望していた菓子売りが、小さな餅をしっかりと握りしめている。
その手は、まだ微かに震えていた。
どうせ明日にはすべて消えるという予定調和の未来に抗い、今この瞬間に「作る」という選択をしたこと――それが、世界のシナリオにとっては許されないノイズだった。
世界をねじ曲げる強烈な光が三人の身体を呑み込み、泥濘んだ平安京の辻から現代の京都へと荒っぽく引き戻していった。
現代へと戻り、机の上でハチの腹がピカリと青く光る。
「いつまでそうしてぼおっとしてるんや、学者ボケ」
「……教えてくれ。一体、父さんは何をやっているんだ? 有明堂が消え、このままでは佐々木や美鈴のような人間まで世界から無かったことにされてしまう」
ハチは前足を組み、深刻な顔つきで答えた。
「分岐から外れたものが、結果として『最初からなかった』ことになるんや。このまま放っておけば、次は誰が消えるか分からんで」
その言葉を聞き、仁は歯をくいしばった。
その横で、暦は俯いたまま、自分の手のひらを爪が食い込むほど固く握り締めていた。
「……で、隣のこの無口な相棒はな」
ハチがやれやれと呆れたように、暦の顔を覗き込んで青い光をチカチカと明滅させる。
「おい、いつまでそうやって固まっとるんや。お前が名乗らんのなら、オレが代わりに言うてまうぞ?」
「……五代、だ」
遮るように静かに呟いたのは、他でもない本人だった。
暦はゆっくりと顔を上げ、淀みのない瞳で仁を真っ直ぐに見据える。
「五代暦。……それが私の名前だ。管理機構の執行者としての識別名じゃない。私の意志で、私が決めた名前だ」
仁は少しだけ目を見張り、それから小さく頷いた。
「……そうか。よろしく頼むよ、暦」




