prologue ZERO
この世界は濁っている。
2030年7月22日。
その運命の日はなんて事ない日常だった。
学生が眠そうに教科書を広げ、駅の喫煙所でタバコを吸うサラリーマンのすぐ近くで上司に怒られているのか何度も頭を下げる青年に、子供と手を繋いでショッピングに出掛ける主婦に、恋人のウェディングドレス姿に見とれる新郎がいた。
はたまたガラの悪そうな人達が金払えとマンションのドアをガンガン叩いたり、危ない薬を手慣れた手口で売った若い男は大量の札束に興奮し、紛争地で鉛玉に当たり命の篝火が消えかけている兵士がいた。
どこにでもある日常に一滴の毒が世界に垂らされた。
眠そうにしていた学生は目を赤く充血させ周囲に襲い掛かった。
上司の怒鳴り声が聞こえなくなったので振り返った先には青年の異形の手が上司の胸を貫いていた。
主婦が定員に襲い掛かり子供の泣き声が店内に響き渡った。
誓いのキスで恋人のウェディングドレスを真っ赤に染めた新郎は会場のパニックに笑った。
ガラの悪そうな人の一人が動かなくなり見たことのない異形の化け物に腰を抜かした。
薬中毒者が異形の化け物になって売人仲間を襲いかかり若い男は札束を放り出し必死に逃げ出した。
敵味方関係なく蹂躙する怪物は己を心配する仲間に異形の牙を突き出した。
たった一滴の毒は世界を飲み込む勢いに浸食を始めた。
人が突然と怪物になって人を襲う奇病に対応が遅れた人類は滅亡を辿るのだと意識し始めたその時だった。
諦めの悪い少数の人達は『都市』を創設した。
奇病を監視し、速やかに対応するシステムを組み込んだ都市は人類が安心して暮らす事が出来る楽園は世界に21創設に成功する。
そこで人類は決めた生きる為に切り捨てようと。
病で苦しむ存在は人ではなく『絶対悪』なんだと。
だから病の名を『ヴィラン』と名付けた。
この世界はどう仕様もないほどに穢れてしまった。
0
シャイ、シャイ、シャイ、という不気味な足音が月明りの道中に鳴った。
現実感のない足を必死に走らせる。いくつもの雫の冷たさが今の俺の全てである。
『シャアあああああああああああああああああああああああ──……ッッ!』
人通りの少ない裏通りに重低音の息遣いが迫る。
──『鬼ごっこ』という遊びを知っているだろうか?
簡潔に今の状況を説明するなら、その状況である。
だが今やっているのは決して『ごっこ』ではなく、限りなく『リアル』。
「ああ、くそ」
背後から迫る『鬼』を退ける武器をこの異常事態を予測していなかったので今は持ってきていない。
あの『鬼』には銃火器などの弾丸ではほぼダメージを与える事が出来ない。そんなわけで逃げる以外の選択はないのだ。
まあ『鬼ごっこ』で鬼を撃退したらそれはもう戦争と言っても過言ではないが、
『シャアああああああああああああああ』
笑い声のような足音に追いつかれないように、裏通りを周回していた。
時折と窓を開けて何事か確かめる住民もいたが、真っ暗なだけにオレと『鬼』の存在に気付くことはなく、そのまま窓を閉めて眠りにつく。
幸いと言ってもいいのか、この周辺は廃ビルやら工事現場で深夜のこの時間帯はほぼ無人だった。
それなのにオレ──赤霧春公がたまたまやって来て、『鬼』に遭遇したのは不運だったと結論づけるしかない。
「──また」
上空を飛行している名ばかりの警備ドローンを睨みつけると、警備ドローンは仕事を放棄するように見当違いな方角へと飛び去った。
最初は気付かなかったのかと落胆していたが、四度となると偶然ではない。
警備ドローンはこの都市を監視する目であり、あの『鬼』を見逃すというのはありえない。
どうにかしてもこの前代未聞の異常事態を少しでも誰かに伝えなければならない。
だが──そんな都合もこの怪物には関係なかった。
『──ッッ』
「な」
器用な足さばきで巨大な蜘蛛はビルの壁と壁を移動し、オレの目の前に立ち憚る。
巨体な怪物が移動するだけで、地が揺れ、空気が荒れた。
『シャあああああああああああああああああああああああああああああああぁぁっ!!』
禍々しい樹の鱗をした蜘蛛の足に蛇の如く舌を露出させ唾液を垂らし蜥蜴顔の巨大な鬼は生物的な本能を揺さぶらせる咆哮を俺の眼前に撒き散らす。
「──っッッッ」
咆哮の振動により身体中が強制的麻痺に陥り、膝を地に付かされた。
痺れる身体に鞭を入れるが、もう遅い。
『────キキキ』
気色悪く笑う鬼に背筋が凍りついた。
鬼──いや、この世界では『ヴィラン』と呼称された存在の正体は【人間】である。
それは人の負の感情に憑りつく病、人の悪意が具現化する災厄。
百年ほど前から世界中に流行った発作性の病であり、負の感情に共鳴し、人を怪物に変貌させ、宿主の本懐を遂げるまで暴れ回る。
神からの罰なのか、悪魔に架けられた呪いか、百年経っても未だに発生原因は解明されていない。
「はは、ははは」
なにもかもを諦めた空笑いが溢れだした。
これからオレは食物として、『ヴィラン』に食べられて死ぬのが決定されてしまった。
鋏角に身体が捕まり口の中で捕食され、耐え難い地獄の苦しみが死ぬまで続く姿がリアルに想像できる。
死ぬ覚悟は出来ているけど、いざ死に直面して悔しさ、恐怖が沸騰するように溢れ出る。
なにもできず……こんな哀れに死ぬために生きてきたのか?
やはり、この世界のどこにも颯爽と救ってくれるヒーローはいなかった。
『───────────────』
その時、オレと鬼の視界を突然と覆ったのは透き通った霧がかかった。
その霧に異常性を感じ取った蜘蛛の動きが停止する。
オレはその光景を呆然と驚愕しながら悔いるように視た。
『悪』の特異性は『狂暴』──いや特化した『暴走性』である。
そこに悪意も、もちろん善意など持ち合わせていない。
ただ命を消費して発作が収まるまで暴れ回る世界の呪いである。
だからこそこいつらに冷静になるという思考は存在しえないのだ。
あるいはその暴走性を冷静にさせる程の脅威を察知したかだが──
「──§¶ΠΘ」
刹那、濃く淡く、そして濃厚で希薄な霧がこの場を支配する中でそんなどこの言語か解らない声が上空より聞こえた。
なんとも矛盾した霧はオレの身体中に渦巻くように絡みつくのを肌で感じながら、声のするほうに顔を上げる。
「……え?」
上空からなにかが降ってくる。
それはまるで天使のように白く、尊く、美しい。
結論から申し上げますと、空から女の子が降ってきた。
いや、なに言ってんだ? 頭大丈夫か? と言いたい気持ちはわかる。
気が狂ったでもない。これは事実である。
そして白髪の天使はあろう事か、スカートだという自覚を忘れるように空中で足を上げ、『悪』の蜥蜴の頭にかかと落としをかましたのだ。
『ゴボッ』
ドドンと超硬と強鋼がぶつかる凄まじい衝撃音に逃げることも忘れる程に呆然としていた。
「ΘΔΞ§、¶∀」
天使は何語かわからない言語を呟いている。
よく見たら、大蜘蛛……いやいや、鬼だか『ヴィラン』だか正直どっちでもいいが、こいつの呼称は『大蜘蛛』としよう。
大蜘蛛の顔は少しだけ凹んで地面にめり込む形で倒れていた。
一体、この女の子のどこにこれだけのパワーがあるのか不思議だが、この程度で倒される存在なら苦労はしないだろう。
「……おい」
呆然とした頭が冷静さを取り戻さざるを得ない気配が強まった。
大蜘蛛は凹んだ頭を修正するように傷を治すと、食事を邪魔した存在を睨みつける。
どうやら大蜘蛛の標的がこのSF少女に変わったようなので、今のうちにトンズラしようかなっと悪魔の囁きが耳をチラつかせた。
『シャアあああああああああああああああああああああああ──……ッッ!』
威嚇の咆哮から激怒に変わると、ふと大蜘蛛は再び空を見上げた。
釣られるように見上げるが、そこには霧以外はなにもない。
「……∌ゞ✣」
と天使はここで初めて、オレに真紅の瞳を向ける。
透き通る白髪で、全てを見透かす真紅の瞳に思わず息を呑み込んだ。
精巧に造られた人形のように完璧な顔立ちはこの世の腐れきった遺伝子によって造られることは不可能だと思われる程に美しいが、なにより真紅の瞳の奥に映し出されている俺を他生物として視る空虚な瞳に目を奪われてしまった。
「おまえ……何者だと言いたいところだがさっさと逃げるぞ」
「…………§¶ΠΘ」
ビシっと血管が破裂したかのように頭の中に直接響き渡る声は目の前の天使によるものである。
テレパシー? 超能力の類か?
もしくは昼に食べたこんにゃくの効果が今になって効き始めたのか?
後者は冗談だが、それにしてもオレを視て『見つけた』というのはどういう事なのだろうか?
となにやらフラフラとしていた大蜘蛛の足が気持ち悪い程にピンと張っている。
今にでもこちらに飛びかからんとしている予兆に視えた。
動け、動け、動け、動け、痺れる足を奮い立たせるが、失敗して地面に転んでしまう。
「ぶぶ」
動けない俺はもう仕方がないとしても、せめてこの天使だけはこの場から逃がさないといけない。
「……βηφΔЭγ¶λфχ」
「ふ、ふッふふ」
『いやもう何言ってるかわからないから、さっさと逃げたほうがいいと思いますよ?』
と伝わるように手振りで必死に伝えようと試みたが、当の本人は無表情で俺を見下している。
「……βηφΔЭγ¶λфχ」
相変わらず言葉が通じない天使の服装も普通ではなかった。
漫画やアニメに出てきそうなバトルスーツは、身体に張りついて、女性らしい凹凸のラインがしっかりとわかってしまう。ちなみにこの女の子の胸囲は普通(c)なみだ。しかもそのコスプレ衣装からモヤのようななにか不思議なモノが覆っていた。
結論から言えば、白髪の女の子はSFな少女である。
「……βηφΔЭγ¶λфχ」
「だからなに言ってんのか、わかんねーの!? 今の絶望的状況がわからないの!? いままさにあいつに食われるかの瀬戸際なの。アンダースタン!?」
こんな状況下で漫才やっている場合ではないのだが、もしかしたら俺の最後の言葉が『アンダースタン!?』で終わるかもしれないと考えたら悲しくなってきた。
とガドンと破壊音と共に痺れを切らした大蜘蛛が天使に向かって突進する。
「あぶな──」
限られた時間の中で地に伏せた身体を立ち上がらせると、天使の手を掴んでしまった。
これが転機。例えば俺が彼女を見捨てて逃げていたら、きっと運命は変わっていたかもしれない。
そう例えば俺が彼女の手を握らなければ、面倒事に巻き込まれる事なんかなかったのだ。
「「βηφΔЭγ」」
天使の声に反応するように、オレの口も又、勝手に動きだした。
途端、身体中に力が沸き上がる感覚に驚愕する。
そして目の錯覚を侵したのか、赤い光、いや赤い霧がオレ達を包み込んでいた。
『グギッッ‼‼』
大蜘蛛の大玉を吐くような悲鳴を叫び後方の壁を壊す勢いで吹き飛んでいる。
刹那の一瞬になにがあったかわからなかったが、気づいた時にはオレの足は蹴りのモーションを終えていた。
まさか、オレが大蜘蛛を蹴り飛ばしたのか? あの巨体を?
ありえない。不可能だ。そこまでの力がタダの人間に出せる筈がない。
そしてなにより俺の手を握っていた天使が消失していた。
そうまるで幻覚だったのか、最初から存在していなかったようで……
『グギグギグギ』
『悪』には命を消費して使用する再生っていう能力がある。
例えば凹んだ頭を再生されたり、千切れた部位をニョキニョキと生えかえたりする。
だからか悪を倒す事は容易ではないのだ。命を消費して再生能力を尽きるまで攻撃するとしたら最低でも二日以上はかかるだろう。
「ん?」
ふと首に赤い靄がかかっている事に気付き、確認すると──
「──なんだ。この格好は?」
普段なら発狂しているだろうが、命の危険を感じているお陰か冷静に受け止められた。
固そうに見えて柔らかそうな素材の鎧が全身武装で着せられ、紅霧状のそこにありそうでないマフラーが首に巻きつき、顔面には紅霧の仮面ががっちり嵌められていた。
それはまるで特撮ヒーローのような恰好である。
どうしてこんな恥ずかしい格好をしているのかがわからない。
『シャシャアアッ‼』
すぐに立ち上がった大蜘蛛の牙が迫っているのを他人事のように観察すると、冷静に紙一重で避けてみせる。
突如と動きが変わった獲物に動揺するような大蜘蛛の気配を肌で感じると、いつも通りに自然と足を踏み出し、腰を据え、拳を構え、いつもの型を作った。
そう巨体な生物相手に迎撃体制を取っている事実も普段のオレからは想像出来ないが、どうしてだろうか、この程度ならなんとかなるだろうという楽観的思考がなされている。
「『【ヘイズバースト】を強制起動します』」
そんな機械的な声が頭に響くと、オレの右手から緋霧が溢れだし、やがて集束する。
いきなりの事に戸惑うが、怒り狂った蜘蛛はもうすぐそこまで迫っていた。
「おおおおおおおおッッ‼」
蜘蛛より速く懐に飛び込み、大蜘蛛の顔面に拳を当てた。
『 グギ 』
刹那、拳から赤霧が大蜘蛛の身体を覆い、断末魔の悲鳴と共に内部からその禍々しい身体を爆発する。
「え?」
あまりの事に間抜けな声を発してしまった。
緋色の霧は悪の欠片を残さず、呑み込み跡形も無く消失する。
喧騒としていた深夜に静寂が戻ったのである。
「……お疲れ様です。地球人」
又しても機械的な声がすると同時に特撮ヒーローの姿は霧が晴れるように解放される。
そしてどういう理由か、白髪のSF天使が立っていた。
「そんな間抜けな顔をして、どうしたのですか? 言語は解読したので間違っていないはずですが?」
先程まで理解できない言語を発していたSF少女はスラスラとオレ達の言語を発した。そしてナチュラルに罵倒している。
そうこの女の子は普通ではない。本音では今すぐ逃げ出したいくらいだ。
「わたしの名前はセイラ。……唐突ですが、これからよろしくお願い致します。赤霧春公さん」
六月一日の深夜。その日は始まったばかりだが、やがて後悔する時が来るだろう。
どうしてオレは彼女の手を握ってしまったのだろうか、
どうしてオレは彼女を見捨てて、逃げなかったのか、
どうしてオレは彼女を守り、盾となって死ななかった事を悔やんだ。
「よろしくって──な──んだ──」
視界が闇に染まるのを感じながら、そしてオレの意識は堕ちていった。




