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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第9話 辺境の朝は、王宮よりも静かだった

 北方の朝は、王宮よりも静かだった。


 鳥の声がする。

 遠くで薪を割る音がする。

 まだ湿り気を含んだ風が、窓の隙間から細く入り込んでくる。


 それだけだった。


 誰かが廊下を慌ただしく走る音もない。

 扉の前で侍女が予定を読み上げる声もない。

 決裁を急ぐ書記官の足音もない。


 目を覚ましたセレスティアは、しばらく天井を見つめていた。


 知らない天井。


 王宮の寝室にあった精緻な装飾も、公爵家の部屋に吊るされていた薄絹の天蓋もない。

 ここにあるのは、梁の見える簡素な天井と、白く塗られた壁だけだった。


 昨夜、机に伏したまま眠ってしまったはずだ。


 だが今、自分は寝台にいる。


 肩には、見覚えのある外套が丁寧に掛けられていた。


「……また」


 セレスティアは小さく呟いた。


 誰かの手を煩わせてしまった。


 そう思ってすぐ、胸が詰まる。


 王宮では、誰かに世話をされる前に自分で整えるのが当然だった。

 寝落ちなど、あってはならない。

 ましてや客人として迎えられている家で。


 彼女は慌てて身を起こした。


 机の上に、昨夜書いていた帳面がある。


 開いたままだった。


 王妃の薬湯。

 救貧院支援金。

 隣国大使館への返答案。

 リリアナが見るべき書類の順番。


 眠る直前まで、自分はまた王宮のことを書いていたのだ。


 その事実に、セレスティアはしばらく言葉を失った。


 自分を悪女として追い出した場所。

 父が戻れと命じ、王太子が名を出すなと言うであろう場所。

 妹が今、自分の椅子に座っている場所。


 そこを、まだ気にしている。


 ばかげている。


 そう思ったのに、帳面を閉じる手は遅かった。


 気にするな、と自分に命じても、頭の奥では今日の予定が勝手に並ぶ。


 王妃は朝に体調が安定しやすい。

 薬草納入の確認は午前中に終えるべきだ。

 救貧院の支払いはもう遅れている。

 隣国大使への返答は一刻も早く。


 セレスティアは目を閉じた。


 自分はもう、あそこにいない。


 なのに、王宮の歯車が軋む音だけは聞こえる気がした。


 扉が控えめに叩かれた。


「セレスティア殿。起きていますか」


 ノアの声だった。


 セレスティアは反射的に姿勢を正す。


「はい」


「入っても?」


「どうぞ」


 扉が開く。


 ノアは朝の外気をまとっていた。

 黒い外套ではなく、深い灰色の上着を着ている。王宮で見たときより、少しだけ柔らかな印象だった。


 ただし表情は相変わらず読みづらい。


「よく眠れましたか」


 その問いに、セレスティアはすぐ答えられなかった。


 眠った。

 たしかに眠った。


 けれど、それがよい眠りだったのかどうか分からない。


「……途中の記憶がありません」


「机で眠っていました」


「申し訳ございません」


「謝ることではありません」


「ですが、ご迷惑を」


「眠っただけです」


 あまりにも淡々と言われ、セレスティアは言葉に詰まった。


 王宮なら、眠っただけでは済まない。


 予定が狂う。

 人を待たせる。

 誰かの仕事が滞る。

 眠ることさえ、責任と結びついていた。


 ノアは机の上の帳面を一度だけ見た。


 責める目ではなかった。


「朝食を用意しています」


「すぐ参ります」


「急がなくていい」


「いえ、待たせるわけには」


「誰も待っていません」


 セレスティアは瞬きをした。


「朝食の時間なのでは」


「あなたが起きたら出すように頼んである」


「それでは、厨房の方に」


「厨房は承知しています」


 ノアは短く言う。


「ここでは、予定は人を縛るためではなく、人が無理をしないためにあります」


 セレスティアは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。


 予定は、守るもの。

 遅れてはならないもの。

 誰かの顔を潰さないために整えるもの。


 人が無理をしないため。


 そんなふうに考えたことは、ほとんどなかった。


「……着替えます」


「食堂で待っています」


 ノアはそれだけ言って、部屋を出た。


 扉が閉まったあと、セレスティアはしばらく立ち尽くした。


 急がなくていい。


 誰も待っていない。


 その言葉が、逆に落ち着かない。


 けれど確かに、廊下から催促の足音は聞こえなかった。


 セレスティアはゆっくりと身支度をした。


 王宮用の華やかなドレスではなく、旅用の落ち着いた青灰色の衣装。髪は簡単にまとめる。


 鏡の中の自分は、昨日より少し顔色が悪い。


 だが、どこか軽くも見えた。


 指輪がない手を見て、胸が少し痛んだ。

 けれどその手は、もう何かに縛られてはいなかった。


 食堂へ向かうと、そこにはすでに温かな食事が並んでいた。


 黒パン。

 野菜と豆のスープ。

 燻製肉を薄く切ったもの。

 山羊乳のチーズ。

 蜂蜜を少し添えた焼き林檎。


 王宮の朝食ほど華やかではない。


 だが湯気が立っていて、香りが素直だった。


「おはようございます、セレスティア様」


 食堂の女中が明るく頭を下げた。


 セレスティアは少し戸惑う。


「おはようございます」


「お口に合わなければ、遠慮なくおっしゃってくださいね。うちは王都みたいな上品なものは出せませんけど、腹持ちはいいですから」


 あまりに率直な言い方に、セレスティアは一瞬返答に迷った。


 王宮の使用人なら、こんな言い方はしない。

 もっと丁寧に、もっと距離を取る。


 だが女中の表情に悪意はなかった。


「とても美味しそうです」


「よかった。細い方だから、しっかり食べてください」


「細い……でしょうか」


「細いですよ。閣下、ちゃんと食べさせないと駄目ですからね」


 女中はノアに向かってそう言った。


 ノアは水を飲みながら、平然と頷く。


「努力する」


「努力じゃなくて実行です」


「分かった」


 セレスティアは思わず二人を見比べた。


 女中が辺境伯を叱っている。


 しかもノアが、それを当然のように受け入れている。


 王宮では考えられない光景だった。


 女中は満足そうに頷き、厨房へ戻っていく。


 セレスティアが席につくと、ノアが言った。


「彼女はこの屋敷の古株です。私も子どものころから叱られています」


「閣下を、ですか」


「北方では、腹を空かせた子どもに身分はあまり関係ありません」


 セレスティアは少しだけ笑った。


「よい場所ですね」


「厳しい場所です」


 ノアは即座に言った。


「冬は長い。収穫は王都周辺ほど安定しない。魔獣も出る。だからこそ、無駄な見栄を張る余裕がありません」


「無駄な見栄……」


「王都には多い」


 ノアの言葉は容赦がなかった。


 だが、その通りだとセレスティアは思ってしまった。


 王都では、誰が誰より上か、誰が誰に微笑んだか、どの席順が何を意味するか、そればかりに神経を使う。


 もちろん、それも政治の一部だ。


 軽んじてよいものではない。


 だが、そのために救貧院の支払いが遅れ、王妃の薬湯が乱れるのなら。


 何かが間違っている。


 セレスティアはスープを一口飲んだ。


 温かい。


 野菜の甘みと豆の重みがあり、喉を通ると胃のあたりがゆっくり温まる。


 王宮の澄んだスープより、ずっと素朴だった。


 そして、なぜか泣きたくなる味だった。


 泣けなかったが。


「美味しいです」


 そう言うと、ノアは小さく頷いた。


「料理人に伝えます」


「はい。ぜひ」


 食事の間、ノアは余計なことを聞かなかった。


 王宮で何があったのか。

 父との関係はどうなのか。

 王妃の封書とは何か。


 聞こうと思えば、いくらでも聞けるはずだ。


 けれどノアは尋ねない。


 それが、セレスティアにはありがたいと同時に、少しだけ怖かった。


 聞かれなければ、言わずに済む。

 言わずに済めば、また一人で抱える。


 自分はそうしてきた。


 朝食後、ノアは屋敷の庭へ案内した。


 庭といっても、王宮のように整えられた観賞用の庭ではない。


 薬草畑。

 薪置き場。

 小さな井戸。

 冬支度のための干し草。

 兵たちが使う訓練場。


 実用のための庭だった。


 セレスティアは薬草畑の前で足を止める。


「これは、熱冷ましに使う草ですね」


「分かるのですか」


「王妃陛下の薬湯に、似たものを使っていました。ただ、こちらの方が香りが強い」


「北方種です。苦みも強い」


「乾燥させるなら、風通しのよい日陰がよいです。直射日光に当てると、香りが飛びます」


 言ってから、セレスティアははっとした。


 まただ。


 すぐに仕事のような話をしてしまう。


「申し訳ありません。差し出がましいことを」


「有益です」


「でも」


「言いたくないなら言わなくていい。言いたいなら言えばいい」


 ノアは薬草畑を見ながら言った。


「ここでは、知っていることを話しただけで介入とは呼びません」


 介入。


 昨夜、王太子が使った言葉。


 王妃の病を利用し、王宮の実務に過度に介入した。


 セレスティアは、土の上に視線を落とした。


「私は、出過ぎたことをしていたのでしょうか」


 問いは、ふいに口から出た。


 ノアはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、考えてくれている沈黙だと分かるまで、少し時間がかかった。


「分かりません」


「……分からない、ですか」


「王宮であなたが何をどこまで担っていたのか、私はすべて知りません。だから、軽々しく正しいとも間違っているとも言えません」


「そう、ですね」


「ただ」


 ノアは続けた。


「少なくとも、昨日から今日にかけて見たあなたは、誰かの居場所を奪うために働いていた人には見えない」


 セレスティアは息を止めた。


 誉め言葉ではない。

 慰めでもない。


 ただ、見たままの判断。


 それだけなのに、胸の奥に触れた。


「王宮では、そうは見えなかったようです」


「王宮は、見たいものを見る場所なのでしょう」


「……手厳しいですね」


「北方でも同じことはあります。ただ、見誤れば冬に死人が出る。だから、王都よりは少しだけ現実に叱られるのが早い」


 セレスティアは、ふっと息を漏らした。


「現実に叱られる」


「ええ」


「王宮も、そろそろ叱られるかもしれません」


 言ってしまってから、胸が痛んだ。


 王宮が困ることを望んでいるわけではない。

 王妃が苦しむことも、救貧院が滞ることも望んでいない。


 けれど、王宮が何も変わらないまま、セレスティアだけが悪女として消えるのは。


 それもまた、違う気がした。


 ノアは彼女の横顔を見た。


「心配ですか」


「はい」


 セレスティアは正直に答えた。


「悔しいのに、心配です。腹立たしいのに、気になります。戻りたいわけではありません。ですが、王妃陛下や救貧院のことを考えると……」


「それは、あなたがまだ優しいからです」


「優しい、でしょうか」


「自分を傷つけた場所にまで心を残す人を、私は他に知りません」


 セレスティアは苦笑した。


「愚かとも言います」


「そうかもしれません」


 否定されなかったことに、逆に救われた。


 優しいだけではない。

 愚かでもある。


 それを分かってなお、切り捨てられない。


 それが今の自分なのだ。


 庭の奥で、兵士たちが訓練を始めた。

 剣が打ち合わされる乾いた音が響く。


 セレスティアはその音を聞きながら、ふと足元が少し揺れたように感じた。


「あ……」


 視界がわずかに霞む。


 ノアがすぐに手を伸ばした。


 肩ではなく、肘を支える。

 必要以上に近づかない手だった。


「大丈夫ですか」


「はい。少し、立ちくらみが」


「部屋へ戻りましょう」


「いえ、大丈夫です。朝食もいただきましたし」


「大丈夫かどうかは、座ってから判断する」


 有無を言わせない声だった。


 だが乱暴ではない。


 セレスティアは逆らえず、近くの木陰の長椅子に座った。


 座ると、思った以上に身体が重いことに気づく。


 背中が鉛のようだった。

 指先も冷えている。


 ノアが従者に水を持ってこさせる。


「昨日から、ほとんど休んでいない」


「眠りました」


「机で?」


「……はい」


「それは休息ではありません」


 セレスティアは返す言葉がなかった。


 ノアは隣に座らず、少し離れた位置に立っていた。


 その距離がありがたかった。


 近すぎれば、気を遣う。

 遠すぎれば、不安になる。


 彼はその中間にいる。


「私は」


 セレスティアは水を受け取りながら、ぽつりと言った。


「疲れていたのですね」


 ノアは静かに頷いた。


「ええ」


「気づきませんでした」


「気づかないようにしていたのかもしれません」


 その言葉に、セレスティアは水面を見つめた。


 確かに、そうかもしれない。


 疲れていると認めれば、休まなければならない。

 休めば、誰かが困る。

 誰かが困れば、セレスティアの責任になる。


 だから気づかないふりをした。


 疲れていないことにした。

 大丈夫だと言い続けた。


 そうしているうちに、本当に自分でも分からなくなった。


「閣下」


「はい」


「私は、今日何をすればよいのでしょう」


 ノアは少しだけ眉を寄せた。


「休む」


「それ以外に」


「ありません」


「ですが」


「休むことを仕事だと思ってください」


 セレスティアは困ったように彼を見る。


「難しい仕事ですね」


「慣れていないなら、なおさら必要です」


 その言い方が真面目で、セレスティアは少しだけ笑った。


 笑ったあと、自分でも驚いた。


 昨日から、何度か笑っている。


 王宮を出て、悪女と呼ばれ、家族を失ったばかりなのに。


 それでも、笑える瞬間がある。


 そのことが少し怖く、少し救いだった。


 昼前、セレスティアは部屋へ戻された。


 戻された、という表現がしっくりくるほど、ノアは休むように徹底していた。


 机の上には新しい紙もペンも置かれていない。


 代わりに、温かい茶と薄い毛布があった。


 セレスティアは寝台の端に座り、しばらく何もしなかった。


 何もしない。


 それは思った以上に難しい。


 手が落ち着かない。

 頭が勝手に予定を組もうとする。

 王宮のことを考えそうになる。


 そのたびに、朝のノアの言葉を思い出した。


 予定は人を縛るためではなく、人が無理をしないためにある。


 セレスティアは毛布を膝に掛けた。


 窓の外では、北方の風が木々を揺らしている。


 静かだった。


 王宮よりもずっと。


 けれどその静けさは、責める沈黙ではなかった。


 セレスティアは目を閉じる。


 王妃の薬湯。

 救貧院の支払い。

 リリアナの震える手。

 父の手紙。

 アデルの声。


 浮かんでは消える。


 消えきらない。


 それでも、少しずつ遠くなる。


 そのまま、彼女は昼の光の中で眠った。


 今度は机ではなく、寝台で。


 扉の外には、誰も立っていなかった。


 誰も急かさず、誰も命じず、誰も彼女を呼ばない。


 辺境の朝は、王宮よりも静かだった。


 そしてその静けさの中で、セレスティアはようやく、自分が疲れ果てていたことを知った。

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