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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第10話 王妃の寝室に、空の薬箱だけが残っていた

王妃エレオノーラの寝室には、朝から薄い沈黙が降りていた。


 絹のカーテンは半分だけ開かれている。

 陽射しが強すぎると頭痛が出るからだ。


 香炉には、いつもの香が焚かれていない。

 昨夜、若い侍女ミーナが泣きそうな顔で「南方香は使わないでください」と訴えたため、侍女長マルタがすぐに止めた。


 その判断だけは正しかった。


 けれど、それ以外は遅れた。


 薬湯の配合。

 朝食の内容。

 医師への伝令。

 寝具の交換時間。

 窓を開ける角度。


 どれも小さなことだった。


 だが、病人にとって小さな乱れは、身体に残る。


「……マルタ」


 寝台の上で、王妃が目を開けた。


 か細い声だった。


 マルタはすぐに枕元へ近づく。


「はい、陛下」


「今は、何刻ですか」


「朝の三刻を少し過ぎたところでございます」


「薬湯は……」


 マルタは一瞬だけ言葉に詰まった。


 そのわずかな間を、王妃は見逃さなかった。


「遅れているのですね」


「申し訳ございません」


「あなたが謝ることではありません」


 王妃は静かに息を吐いた。


 熱のせいで、額には薄く汗が浮いている。

 それでも声は穏やかだった。


 王妃エレオノーラは、若いころから強い人だった。


 声を荒げることはほとんどない。

 だが、その静かな一言で場を収める力がある。


 その人が、今は寝台の上で細くなっている。


 マルタは奥歯を噛んだ。


「療養記録は見つかりました。リリアナ様の執務室にございました」


「そう」


「セレスティア様が、場所を分かるように書き残しておられました」


 王妃は目を閉じた。


 責めるでも、驚くでもない。


 ただ、深く納得したような顔だった。


「あの子らしいですね」


 マルタは答えられなかった。


 あの子。


 王妃だけは、セレスティアをそう呼ぶ。


 公爵令嬢でも、王太子の婚約者でも、悪女でもなく。


 あの子、と。


「陛下」


「何です」


「昨夜のことを、お聞きになられましたか」


「ええ」


 王妃は目を開けないまま答えた。


「すべてではありません。けれど、十分に」


「王太子殿下は、セレスティア様を王宮実務から外すと」


「そうでしょうね」


「よろしいのですか」


 言ってから、マルタはすぐに頭を下げた。


「出過ぎたことを申しました」


「いいえ。あなたは正しい問いをしました」


 王妃はゆっくりと目を開ける。


「よいわけがありません」


 その声は弱かった。


 だが、部屋の空気が少し変わった。


「けれど、今の私があの子を庇えば、あの子が守ろうとしたものまで崩れてしまう」


「セレスティア様が、守ろうとしたもの……」


 マルタが問い返す。


 王妃は答えなかった。


 代わりに、枕元の小箱へ視線を向ける。


 銀細工の小箱だった。

 王家の百合紋と、小さな星の紋章が重ねて彫られている。


 以前から寝室に置かれていたものだ。


 だがマルタは、王妃がその箱を開けるところを見たことがない。


「薬箱を」


 王妃が言った。


 マルタははっとして、寝台脇の棚へ向かった。


 いつも薬草包みを保管している箱を開ける。


 そして、手が止まった。


 空だった。


 正確には、完全に空ではない。


 底に一枚だけ、薄い紙が残っている。


 そこにはセレスティアの筆跡で、短く書かれていた。


『三日分まで。追加納入の確認が必要』


 マルタは血の気が引くのを感じた。


「……陛下」


「ありませんか」


「はい。今朝の分で、ほとんど」


「納入確認は」


「昨日の夜会前に、セレスティア様が書記局へ確認を出されていたはずです。ですが、返答が」


 返っていない。


 いや、返っていたのかもしれない。


 だが、その書類がどこにあるか分からない。


 王宮のどこかにはある。

 おそらく赤印の書類の中に。


 けれど、それを今この瞬間、誰も取り出せない。


 昨日までなら、こんなことはなかった。


 マルタは薬箱の蓋を握りしめた。


「すぐに探させます」


「急ぎなさい。ただし、騒ぎにしすぎないように」


「はい」


 王妃は少しだけ咳き込んだ。


 マルタが背を支える。


 そのとき、扉の外が騒がしくなった。


「失礼いたします」


 入ってきたのはリリアナだった。


 淡い水色のドレス。

 昨日より控えめな装いだったが、顔色は悪い。


 手には黒い革表紙の療養記録を抱えている。


「王妃陛下。療養記録をお持ちしました」


 マルタはわずかに眉を上げた。


「それは先ほど確認したものでは」


「はい。でも、最後のページに薬草納入のことが」


 リリアナは急いで帳面を開いた。


 指が震えている。


 王妃はその様子を静かに見ていた。


「焦らなくてよいのですよ、リリアナ」


「……はい」


 リリアナは息を整え、ページをめくる。


「ここです。お姉様が、薬草の納入先を二つ書いていました。一つは王宮薬草庫。もう一つは、東区の薬師ギルド。王宮側が遅れた場合は、ギルドの予備在庫を使うようにと」


 マルタが記録を受け取る。


 確かに書いてある。


 小さな文字で、だが分かりやすく。


『王宮薬草庫からの納入が遅れた場合、東区薬師ギルドへ。マルタ侍女長名義なら即日受け取り可。費用は王妃宮予備費より仮払い』


「……なぜ、これを」


 マルタが呟く。


 リリアナは俯いた。


「引き継ぎ書に、王妃陛下関連は最後まで確認するようにとありました」


「そうですか」


 王妃の声は穏やかだった。


「セレスティアは、あなたにも残していたのですね」


 リリアナの肩が震えた。


「王妃陛下」


「何ですか」


「お姉様は……本当に、私を恨んでいないのでしょうか」


 マルタは息を呑んだ。


 寝室にいた侍女たちも、動きを止める。


 王妃はリリアナをじっと見た。


 その視線は優しいが、逃げ場がない。


「リリアナ。恨んでいないことと、傷ついていないことは違います」


 リリアナの顔が白くなった。


「私は……」


「あなたは、まだ何も知らなかったのでしょう」


 王妃は静かに続ける。


「でも、知らなかったことは、誰かを傷つけなかった理由にはなりません」


 リリアナは唇を噛んだ。


 涙が浮かぶ。


 だが、王妃はそこで慰めなかった。


「今は泣くより、薬草の手配を」


「……はい」


「泣くのは、その後でもできます」


 その言葉に、リリアナは泣きそうな顔のまま頷いた。


 マルタがすぐに侍女へ指示を出す。


「東区薬師ギルドへ馬を。私の名義で予備在庫を受け取るように。費用は王妃宮予備費から仮払い。記録を二部残して」


「はい」


 侍女が走っていく。


 部屋に残ったリリアナは、療養記録を胸に抱えたまま立っていた。


 王妃が彼女を呼ぶ。


「リリアナ」


「はい」


「その記録を、よく読みなさい」


「……はい」


「そこには、病のことだけではなく、セレスティアが何を見ていたかが書かれています」


 リリアナは帳面の表紙を見つめた。


 姉の字。


 何度見ても整っている。


 けれど今は、その整い方が苦しい。


 どれほど疲れていても、どれほど傷ついていても、姉は乱れなかった。


 自分が泣けば周囲が慰めてくれた。

 姉は泣かないから、誰も気づかなかった。


 いや、違う。


 気づこうとしなかった。


「王妃陛下」


 リリアナは震える声で言った。


「私、お姉様に謝らなければ」


「謝るだけなら、誰にでもできます」


 王妃の声は少しだけ厳しかった。


「謝って許されたいだけなら、それはあなたのための涙です」


 リリアナは何も言えなくなった。


「まず、知りなさい。あの子が何をしていたのか。何を抱えていたのか。何を言わずに去ったのか」


「……はい」


「それからです」


 リリアナは深く頭を下げた。


 その背は、昨日より少しだけ小さく見えた。


 彼女が退室したあと、王妃は長く息を吐いた。


 マルタが枕元の汗を拭う。


「お疲れになりましたか」


「少し」


「お休みください」


「ええ。でも、その前に」


 王妃は枕元の銀細工の小箱へ手を伸ばした。


 マルタが慌てて支える。


「陛下、それは」


「まだ開けません」


 王妃は小箱の蓋に触れた。


 そこには、百合紋と星紋。


 そして、鍵穴がある。


 小さな、古い鍵穴。


「セレスティアに渡した鍵と対になるものです」


 マルタの目が見開かれた。


「セレスティア様に、鍵を?」


「ええ」


「では、この箱の中には」


 王妃は答えなかった。


 ただ、微かに微笑む。


「まだ早いのです。あの子が本当に、自分のために選ぶ日までは」


「陛下……」


「けれど、王宮があの子の沈黙に甘え続けるなら」


 王妃の指が、小箱の紋章をなぞった。


「この箱は、いずれ開かれるでしょう」


 寝室の外では、侍女たちが薬草の手配に走っている。


 王宮のどこかでは、王太子がまだ自分の正しさを疑わずにいる。


 リリアナは、姉の記録を抱えて震えている。


 そして北方では、セレスティアがようやく眠っている。


 空になった薬箱は、誰にも責め言葉を吐かない。


 ただ静かに、そこにあった。


 セレスティアがいなくなった王宮で、最初に失われたものが何だったのかを示すように。

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