第41話 その灯りは、誰の名誉にもならなかった
差出人のない手紙は、翌朝になっても机の上に残っていた。
セレスティアは目を覚ましてから、最初にそれを見た。
王妃宮の下働きだったという人物からの、短い手紙。
『あなたを星とは呼びません。ただ、あの夜の灯りを覚えています』
その一文は、不思議だった。
褒められているのに、重くない。
必要だと言われているわけでもない。
戻れと求められているわけでもない。
ただ、覚えている。
その言葉だけで、セレスティアは昨日、少しだけ眠ることができた。
誰かの名誉になるためではなく。
誰かの旗印になるためでもなく。
ただ、自分がそこにいたことを、誰かが見ていた。
それは功績記録とは違う救いだった。
功績記録は強い。
日付があり、項目があり、成果がある。
王妃宮や王太子府が何をどう訂正すべきかを示す材料になる。
けれど、この手紙には成果がない。
ただ、夜遅くまで灯っていた明かりの記憶があるだけだ。
セレスティアは手紙をそっと畳み、功績記録とは別の封筒に入れた。
そこには、表題をつけなかった。
記録ではある。
でも、分類したくなかった。
ちょうどそのとき、扉が控えめに叩かれた。
「セレスティア殿」
ノアの声だった。
「はい」
「入っても?」
「どうぞ」
ノアは朝の外気をまとって入ってきた。
手には、また何通かの封書がある。
セレスティアは思わず苦笑した。
「今日もですか」
「減ってはいません」
「でしょうね」
覚悟はしていた。
声明を出した以上、反応は続く。
悪女と言われたときも噂は早かったが、今度は別の速さだった。
善意、好奇心、政治的な計算、同情、尊敬。
それらが入り混じって、セレスティアのもとへ紙になって届く。
ノアは机に封書を置く前に尋ねた。
「読む量を決めましょう」
「量を?」
「昨日、かなり疲れていました」
「……そうですね」
「今日は五通まで」
セレスティアは封書の束を見た。
五通。
少ないようで、多い。
「では、五通だけ」
「それで十分です」
ノアが封書を分類し、セレスティアはその中から自分で選んだ。
一通目は、若い男爵令嬢からだった。
『私は家の帳簿を父に見せてもらえません。女には不要だと言われています。けれど、セレスティア様の声明を読んで、不要と言われたものこそ見なければならないのではと思いました』
セレスティアは、少し手を止めた。
「この方には、返事を書きたいです」
ノアが頷く。
「どのように?」
「危険を煽らないように」
セレスティアは考えながら言った。
「いきなり父君と争うような形ではなく、まず家政や慈善支出など、見せてもらえる範囲から記録に触れるように、と」
「よいと思います」
「私のせいで、その方が家で孤立するのは避けたいです」
「そこまで背負わなくていい」
「はい。でも、無責任な言葉は出したくありません」
セレスティアは短い返書案を横に置いた。
二通目は、王都の慈善団体からだった。
セレスティアの経験をもとに、貴族女性の実務貢献を記録する講演会を開きたいという依頼。
丁寧だ。
悪意はない。
しかし、今のセレスティアには重かった。
「これは、今は辞退します」
「理由は?」
「まだ、自分の経験を人前で話せるほど整理できていません。それに、私の名前で人を集める形になります」
ノアは頷いた。
「そのまま書けばいい」
「はい」
三通目は、匿名の手紙だった。
昨日の下働きの手紙とは違い、紙質も文章も粗い。
『結局、貴族令嬢の内輪揉めでしょう。救貧院の子どもたちを盾にして、自分の名前を取り戻すなどと言っているだけでは?』
セレスティアは、その手紙を読んでしばらく黙った。
胸が痛む。
怒りもある。
だが、完全に無視できない痛みだった。
「これは、返事を書きません」
ノアが静かに尋ねる。
「傷つきましたか」
「はい」
「では、捨てますか」
「いいえ」
セレスティアは手紙を畳んだ。
「保管します。私が外からどう見えるのかを知る材料として」
「自分を責めるためではなく?」
「……少し、責めそうです」
「なら、一人で保管しない方がいい」
ノアは手を伸ばし、空の封筒を用意した。
「批判書簡として分類しましょう。読む日を決める」
「読む日」
「毎日読むものではありません」
セレスティアは、少しだけ驚いた。
確かに。
批判もすべて受け止めなければならないと思っていた。
それもまた、昔の癖なのかもしれない。
「では、週に一度」
「多いかもしれません」
「では、必要なときだけ」
「それがいい」
セレスティアは小さく頷いた。
四通目は、意外なものだった。
王妃宮の若い侍女たち数名の連名。
『私たちは、セレスティア様が戻らなければ王妃宮が止まると思っていました。けれど、今は止まらない仕組みを作ることが私たちの仕事だと考え始めています。分からないことが多く、何度もセレスティア様ならと口に出しそうになります。そのたび、言い直しています』
セレスティアは読みながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
これは、灯りに近い手紙だ。
戻ってくれではない。
あなたがいないと困るでもない。
自分たちで変わろうとしている、という手紙。
「これは、受け取れます」
セレスティアは言った。
「返事を?」
「書きます」
彼女は少し考えた。
『分からないことを、分からないと記録することから始めてください。セレスティア様なら、という言葉を言い直していること自体が、仕組みを変える第一歩です』
そこまで書いて、ふと笑った。
「また少し厳しいですね」
「あなたらしい」
「優しくはないですか」
「優しさの種類が違うだけです」
ノアの返事に、セレスティアは少しだけ安心した。
五通目は、レイノルド公爵家の家令からだった。
差出人を見た瞬間、セレスティアの肩がわずかに強張る。
父ではない。
だが、公爵家からだ。
封を開く。
『セレスティア様。
旦那様のご意向とは別に、屋敷内でも過去の記録を確認し始めております。
お嬢様が幼少期より受けていた教育、リリアナ様の教育停止に関する家内記録、前公爵夫人エレナ様のご病状に関する控えなどです。
すべてを直ちにお渡しできる立場にはございませんが、少なくとも、屋敷内にも記録があることをお知らせいたします。
また、旦那様が一方的な声明を出すことについては、家令として再考を進言いたしました』
セレスティアは、手紙を持つ手を止めた。
公爵家にも記録がある。
幼少期の教育。
リリアナの教育停止。
母の病状。
まだ、知らないものがある。
箱を開けたのに、まだ底がある。
「……終わりませんね」
声が漏れた。
ノアが手紙を受け取り、目を通した。
「公爵家の内側にも記録が残っているようですね」
「はい」
「見るかどうかは、あなたが決める」
「見たいです」
セレスティアは即答した。
だが、すぐに言い直す。
「いいえ。見なければならない気がしています。でも、それは今すぐではありません」
「よい判断です」
「父の屋敷へは行きません」
「はい」
「記録の写しを、書記局経由で求めます」
「それが安全です」
セレスティアは、深く息を吐いた。
新しい扉が開くたびに、また痛みが増える。
それでも、見ないままには戻れない。
「今日は五通まで、でしたね」
「はい」
「十分です」
セレスティアは封書の束から手を離した。
五通だけ。
それでも、心は大きく揺れている。
善意。
批判。
灯り。
新しい記録。
世界は、簡単に味方と敵に分かれない。
そこが一番疲れるのかもしれない。
同じころ、王妃宮ではリリアナが侍女たちの連名手紙の写しを受け取っていた。
セレスティア本人へ出したものと同じ内容を、王妃宮の記録にも残したいという申し出だった。
リリアナはそれを読んで、少し目を潤ませた。
「お姉様なら、という言葉を言い直している……」
マルタが頷く。
「良い傾向です」
「はい」
リリアナは嬉しそうに頷きかけ、すぐに顔を引き締めた。
「でも、これだけでは足りませんね」
「ええ」
「言い直すだけでなく、誰が何を分からないのか一覧にしないと」
マルタは少しだけ目を細めた。
「実務的になってきましたね」
「お姉様に似ましたか?」
リリアナは言ってから、慌てて口を押さえた。
「いえ、違います。今のは、また比較で」
マルタは首を横に振った。
「似たかどうかより、あなた自身が必要だと思ったのでしょう」
「はい」
「なら、それでよろしい」
リリアナはほっとしたように息を吐いた。
そして、紙に書いた。
『王妃宮内未共有事項一覧を作成すること。項目、担当者、現在知っている者、分からない者、確認先、期限』
書いてから、少し嬉しくなった。
昔なら、絶対に思いつかなかった。
いや、思いついても、すぐに姉へ渡していた。
お姉様、こういう一覧を作った方がいいと思うのですが、お願いできますか。
そう言って。
今は違う。
まず、自分で書く。
汚くても。
「マルタ様」
「はい」
「この一覧、私が作ってもいいですか」
「もちろんです」
「失敗したら」
「直します」
「怒りますか」
「必要なら」
リリアナは少し笑った。
「では、作ります」
そのとき、アデルが王妃宮へ来た。
彼は昨日より少し慣れた様子で、台帳机へ向かう。
だが、リリアナの書いている新しい一覧を見て足を止めた。
「それは?」
「王妃宮内未共有事項一覧です」
「未共有事項」
「はい。お姉様に聞けば分かる、で済ませてきたものを洗い出します」
アデルは、しばらく紙を見た。
「王太子府にも必要だな」
リリアナは目を上げる。
「殿下のところにも?」
「ああ。セレスティアが整理していた資料の原本や、想定回答の作成過程が分かる者が少ない」
「では、同じ形式を使いますか」
「使わせてもらってもいいか」
リリアナは少し驚いた。
王太子が、自分の作った形式を使うと言った。
以前なら舞い上がったかもしれない。
殿下が私を認めてくださった、と。
今は、別の意味で胸が温かくなった。
自分の作業が、誰かの役に立つ。
でも、それを自分一人で背負う必要はない。
「はい。使ってください。ただ、まだ試案です」
「試案でいい。セレスティアも最初から完成形を出していたわけではないのだろう」
その言葉に、リリアナは少しだけ笑った。
「お姉様に聞いたら、初稿は必ず汚いと言いそうです」
「言いそうだな」
二人は、ほんの少し笑った。
そこへマルタが淡々と割って入る。
「では、笑っていないで作業を」
「はい」
「はい」
二人同時に返事をして、また少し笑いそうになった。
だが、作業に戻った。
その午後、王太子府にも未共有事項一覧の作成が始まった。
若い書記官たちは戸惑い、古参の側近たちは不満を示した。
「このような細かな洗い出しを殿下がなさる必要は」
そう言った側近に、アデルは静かに返した。
「私が知らずに済んでいた細かさの中に、セレスティアがいた」
側近は黙った。
アデルは続けた。
「今後、同じことを誰か一人にさせないために必要だ」
その言葉は、まだぎこちなかった。
だが、彼の言葉だった。
王太子府も、少しずつ動き始めていた。
一方、レイノルド公爵邸では、家令が古い保管庫を開けていた。
埃っぽい空気。
湿気を避けるための薬草袋。
古い木箱。
そこに、エレナ前公爵夫人の療養関連の控えが残されていた。
家令は慎重に箱を開く。
中には、母エレナの筆跡ではなく、公爵家侍医の記録があった。
『長女セレスティア嬢、母君の病室前にて長時間待機すること多し。幼年ながら妹君の世話を任される場面あり。情緒表現少なく、疲労を訴えず』
家令は、胸が重くなった。
幼年ながら。
疲労を訴えず。
それを当時、誰も問題にしなかったのか。
さらに別の紙。
『次女リリアナ嬢、母君不在時に不安定。セレスティア嬢が対応すると落ち着く傾向。以後、姉妹同席を推奨』
家令は目を閉じた。
そこから始まっていたのだ。
リリアナが泣けば、セレスティアを呼ぶ。
セレスティアがいれば、リリアナは落ち着く。
だから、呼ぶ。
その繰り返しが、姉という名の小さな鎖を作った。
家令は記録を写し始めた。
旦那様に知られれば叱責されるかもしれない。
だが、今残さなければ、また消える。
彼もまた、遅すぎる記録を始めていた。
夕方、北方辺境伯家の屋敷に王妃宮から報告が届いた。
未共有事項一覧の作成開始。
王太子府でも同形式を導入。
リリアナが自ら試案を作成。
アデルも参加。
セレスティアはそれを読み、少しだけ笑った。
「リリアナが一覧を」
「はい」
「字は大丈夫でしょうか」
ノアが真面目に言う。
「読める程度には改善しているのでは」
「だとよいのですが」
その返事には、姉らしい響きがあった。
セレスティア自身もそれに気づき、少しだけ戸惑う。
ノアは何も言わなかった。
彼女は報告書を畳んだ。
「私がいなくても、仕組みができ始めています」
「はい」
「寂しいです」
「はい」
「でも、嬉しいです」
「はい」
「両方です」
「両方でいい」
セレスティアは、深く頷いた。
その夜、彼女は差出人不明の下働きの手紙をもう一度読んだ。
灯りを覚えています。
今日は、その言葉が少し違って見えた。
灯りは、誰かを照らすために燃え尽きるものではない。
誰かが灯りを覚えているなら、今度はその人たち自身が小さな明かりを持つこともできる。
王妃宮で、リリアナが一覧を書いている。
王太子府で、アデルが未共有事項を洗い出している。
公爵家で、家令が古い記録を写している。
どれも小さな灯りだった。
遅すぎる灯り。
でも、灯りだった。
セレスティアは帳面を開き、今日の記録を書いた。
『私が灯っていたことを覚えている人がいる。けれど、私だけが灯りである必要はない』
書き終えて、少しだけ息を吐く。
その一文は、彼女自身を少しだけ楽にした。
ただ、そのころ王都の別の場所では、また新しい噂が生まれていた。
セレスティア様に励まされた令嬢たちが、家の帳簿を見せろと父親に迫り始めたらしい。
王妃宮の侍女たちが、自分たちの仕事を記録に残そうとしているらしい。
王太子殿下まで台帳を読んでいるらしい。
これは女たちの反乱ではないか。
そう囁く者が現れた。
善意の次は、恐れ。
セレスティアの名前は、また別の形で揺れ始める。
彼女はまだ、その噂を知らない。
だが、王都はもう静かには戻らなかった。




