第二章──遭遇②
食堂はほぼがらんどうだった。
数名の士官、下士官が隅でコーヒーを飲んでいるがこちらに話しかけることもない。
俺たちは四人席の椅子にそれぞれ腰掛け、ノアが調達した人数分のコーヒーをそれぞれすすった。
「まず、最初に言っておくわ。黒田彩夏さん」
飛行帽を抜いたクレア・クライン中尉は、悪戯っ子のような目で俺を見た。
「私、実はサミア人なの」
その瞬間、俺は頭をバットで一撃されたような衝撃を受けた。頭の一角から大声が響く。
(この場を離れろ、黒田彩夏!)
声の主は……俺だった。
いや。正確には、俺が発する黒田彩夏の肉声が心の中で響いている。
いったいこれはなんだ?
(事情はトイレで話す。今はこの場から離れろ)
なに?
どうしたんだ俺は?
混乱する俺に対し、激しく苛立った『俺』の声が再び響く。
(急げ!)
俺は混乱しつつ、軽く手を上げた。
「トイレがどこか、判るか?」
俺の声にノアが廊下に続く一角を指さした。
「あの奧よ」
「すまん。続きは戻ってから聞くよ」
クライン中尉に告げるや、俺は脱兎のようにトイレに向かい、ドアを閉めた。
中は無人だった。
手洗いの前に立った瞬間、俺は我が目を疑った。
鏡に写る自分──黒田彩夏の姿に、もう一人の彩夏が重なるように姿を現していた。
二重露光で写真を撮った心霊写真にそっくりの様だ。
俺が二人いる……。
途端に頭の中に声が響いた。
(段取りが狂ったが、俺が本物の黒田彩夏だ、鳥飼理人)
「なに?」
俺の混乱は続いた。
先刻の説明では、本物の黒田理人は、俺、鳥飼理人の意識と記憶によって『上書き』されたのではなかったのか。
打てば響くように彩夏の声が頭の中に響く。
(『上書き』については俺も知ってるが、今回は例外らしい。お前が鳥飼理人の意識を取り戻した後、俺、黒田彩夏も意識を取り戻していたんだ。理解したか?)
「つまり、お前はこの身体本来の黒田彩夏ということか」
(そうだ。とはいえ、今はそのまま黒田彩夏の身体に精神転移した鳥飼理人として振る舞え)
「なぜ?」
(今、この身体を制御しているのはお前──鳥飼理人だ。俺は……たとえるなら、車の助手席からお前の運転を眺める事しかできない)
「なに?」
(コントロールを取り戻そうといろいろ試したが、どうやっても戻せない。今、この身体には二人の人間の精神と記憶が同居している。そしてコントロールの主導権は鳥飼理人、お前の側にある)
「なるほど……しかし、俺の名前を知っているということは、俺の持つ記憶も……」
(表面的なところはざっと見れた。八〇年ほど先の未来から精神転移して来たな、鳥飼は)
「そうだ。尋問でそれを言わなかったのは……」
(未来を知る存在と知られたら、ゲルマニア、連合軍双方から狙われる存在になる。おおむねそんなところだろう)
「ご名答」
(今の状態が、一歩間違えれば危険だとも理解しているな)
「そのつもりだ。俺には、この世界に関する知識がほとんどない」
(だから緊急介入したんだ。サミア人について何も知らないのが今のお前だ。二〇年前の過去から精神転移の設定ではボロが出る。否。一〇〇年前でも却ってボロが出たはずだ』
「サミア人って何なんだ?」
(お前の世界で言うユダヤ人とほぼ同じだ)
「なに?」
(この世界では、紀元前五九〇年前後に起きたバビロン捕囚から歴史が変わり、ユダヤ人の代わりにサミア人と呼ばれるようになったんだ)
ユダヤ人は「ヘブライ人」の中でユダ族の事を指した言葉だが、その辺が史実の旧約聖書から書き換わっているということか。古代イスラエル一二氏族の名前まで書き換わっているなら、これは大ごとだ。
「他に違いは?」
(この世界じゃ、ナチのユダヤ人を示すダヴィデの星が六角形に黄色い印──ヘキサゴンになっている。縮めて「ヘキサ」とも呼ばれている)
ダヴィデの星の元になったのはヘブライ王国全盛期の王、ダヴィデ王の名前からだが、その辺も書き換わってるなら……これは旧約聖書全般が書き換わっていると考えて良さそうだ。古代イスラエル王国ダヴィデ王が存在せず、代わりにヘキサ王あたりに置き換わっているという事かもしれない。
知らずに反応していたら、過去から来たという設定が全崩壊していた。
危なかった……。
「わかった。それと、日本とサミア人の接点は少ないという理解で正しいか?」
(正しいが、日本では、中華大陸にアメリカと共同でサミア人自治区を作る河豚計画が進展中だから、話がそっちに触れたらとりあえず肯定しろ。あとは臨機応変に何とか誤魔化せ)
「わかった。感謝する、黒田彩夏」
(お前がヘマをすれば俺も死ぬ。運命共同体、喩えるなら二人羽織の変形だ。気をつけろよ)
「判った」
俺はトイレを出ると、元いた席に戻り、クレア・クライン中尉に向け笑みを返した。
「精神転移からバタバタしていてね。身体がまだ本調子じゃないんだ」
そう応じつつ、俺はあらためてクライン中尉を見つめた。
彼女はユダヤ……もとえ、サミア人だと自ら秘密を打ち明けた。
俺が知る限り、ユダヤ人の定義は『母方がユダヤ人で、他の宗教に改宗してない人』もしくは『ユダヤ教に改宗した人』だ。
すなわち宗教が基本にあり、人種ではない。
目の前の彼女、クライン中尉は栗色の瞳と髪を持つ整った相貌を持つ美人だ。
温和な笑みが魅力的で、ノア・ニールセンとは違った意味で美しい。サミア人……それがいったい何だというのだ?
想いをよそにクライン中尉はこちらに気づかいの視線を向けた。
「無理もありません。精神転移の人が初日に実戦をこなした例は、ほとんどないそうですから」
俺は驚いた。
前例ありの戦闘だと思いこんでいたからだ。
「そうなのか?」
「精神転移の半分が一二世紀頃の人たちなんですよ。暗黒の中世と呼ばれた時代の人たちで、言葉も今と違いますから、コミュニケーションを取るだけで一苦労です。今回の精神転移は本当に……」
「ラッキーだった?」
「そうですね。ペーターセン少佐のやり方は、ムチャクチャです。うまく行ったからよかったものの、最悪の場合、貴重なドラゴンとドラゴンナイトを失うところでした」
俺は瞬いた。
「実際に戦って、戦闘そのものは一方的に思えたけど、敵──ゲルマニアの戦闘機にドラゴンが倒せるのか?」
「攻撃法によりけりですね。コクピット周りを狙われると、ドラゴンナイトの負傷はあり得ます」
「その典型が、私よ」
ノア・ニールセンが割りこみ、頭の包帯を指さした。
「コクピットを集中的に狙われ、敵弾が風防を貫通、致命傷は防御結界で防げたけど、不時着を余儀なくされたわ。私は医務室送りになって、その隙に……」
「少佐が強引に俺をドラゴンに乗せた、か。知らなかったとはいえ、ノア、お前のドラゴンを勝手に使って、悪かった」
ノアに謝罪すると、彼女は肩をすくめた。
「もう、怒ってないわ。あなたも被害者の一人よ」
俺はうなずくと、クレア・クライン中尉に視線を転じた。
「サミア人の話に戻るけど、君はゲルマニアから逃げてきたのか?」
「ええ。一九三五年、ゲルマニアでニュルンベルク法が施行された年、家族毎リンデベルンに亡命を決めました」
「亡命とは大ごとだね。ところでニュルンベルク法ってなんだ? 俺の記憶は一九二〇年止まりだからその後にできた法律なんだろ?」
あくまで初期の設定、一九二〇年からの精神転移体の設定に基づき、俺は質問した。
クラインは寂しげな笑みを返した。
「ニュルンベルク法は、ゲルマニアで制定されたサミア人の公民権を奪う人種差別法のことです。サミア人とゲルマニア人の結婚禁止、公職追放を定めた法律で……私の父は公務員だったから法律制定後に職を奪われたの」
「それでリンデベルンに? ゲルマニアは妨害しなかったのか?」
「出国税として全財産の七割を没収されたわ」
「ひどいな。ぼったくりじゃないか」
史実では確か七五%だから少しだけマシか。
とはいえ──。
「この調子だと他にも手数料がかかりそうだね」
「その通り、マルクを外貨に換えるとき、手数料としてゲルマニアの銀行に八〇%引かれました」
聞いてるだけでウンザリする話だ。
史実同様、ナチはサミア人の海外出国を促しつつ、財産没収や外貨交換の膨大な手数料でサミア人の出国を逆説的に阻止している。
その主な理由は、史実と同じなら外貨不足が原因だ。
サミア人は追い出したいが外貨の流出は避けたいという、アンビバレンス──相反する態度を同時に示しているわけだ。
この辺もやはり史実ナチスドイツと変わらない。
ゲルマニア=ナチ体制と見て、どうやら正しいようだ。
俺はため息交じりに応じた。
「でもゲルマニアを脱出できたのは……」
「不幸中の幸いだったわ。もっともリンデベルンは亡命を受け入れたけど、入国料として一万リンデフラン取られたから……」
「決して優しくはなかったわけか」
「それでも私は恵まれていた。入国後、ドラゴンナイト適性試験を受けたら、適性ありと出て能力召喚を受け、ドラゴンナイトの力を授かったの。お蔭で両親は無事一級の市民権を得ることができたわ」
「普通は違うわけ?」
「最低でも三年は必要で、その間は二級市民扱いですね。これは傭兵団でも基本的には変わらないわ」
「二級市民と一級市民の違いは?」
「二級は、参政権を持たず、住む場所も限られる。就労ビザを持つ労働者扱い。もちろん納税義務もあるし、悪い事をすれば警察に捕まり、国外退去処分です。ただし健康保険はあります」
「一級市民は?」
「普通に参政権があって国籍も与えられる本物のリンデベルン市民よ」
様々な制限こみで就労ビザを持つ労働者という事は、現代に当てはめるとシンガポールの外国人労働者あたりが比較的近いのかもしれない。
「リンデベルンでは、サミア人差別はあるのか?」
「入国拒否の事例は多いです。貧しいサミア人の大半はシャットダウンされ、国に入ることさえできない。でも唯一の例外があるの」
「例外?」
「傭兵団に入り、一定の活躍をすること」
俺は身を乗り出した。
「その傭兵団について聞きたいんだ。いったい規模はどれくらいだ? 軍種は? 現在、どれくらいの隊員が傭兵団に所属している?」




