第2話『いつかみた、知らない場所』-2
――はいカット。全部“夢オチ”でしたとさ。
「お、オレンジと白が、コラボあがぁッッ!?」
ローアングルから綾のスカートの中身を確認した大輔は、瞬時に股間を踏まれて悶絶した。
水曜日、午前八時十五分。
綾はいつもより十分も早く登校していた。もちろん、他ならぬ昨夜の出来事が、現実だったのかどうかを確認する為だった。
そして、出た結論が夢オチである。
収拾のつかなくなった漫画や、駄目小説にありがちなこの答えに至ったわけは、説明するまでもない。朝霧綾の足元に倒れ伏す、叶大輔が言外に告げていた。
「……ったく、昨日のクールなあんたは何だったのよ?」
剣道部はしばらく朝練が休みらしく、綾は気の抜けた大輔と登校中に再会した。
昨夜の雰囲気をまるで感じさせない彼の姿に、綾は思わず毒気を抜かれたが、考えてみればこれが彼女の日常だった。
そしていつものように、大輔は彼女の背後からセクハラを試みて、見事に失敗していた。
「綾、後生だ……。もう一度、青春をこの目に焼き付けたい。頼…ッ!?」
「だまれ、この人間失敗!」
学院へ向かう大勢の生徒達は、通学路で大の字に倒れる大輔と、それを見下ろす綾の姿を目撃していた。しかし、皆すでに見慣れた光景であるだけに、気にする者も特にない。
昨晩の大雨が嘘のように、蛇穴市の空はからりと晴れ渡っている。
秋風はほのかに暖かく、なるほどこれなら四季にちなんだ諺が次々に生まれるのも頷ける話だと、綾には納得のいく理由であるように思えた。
そして足元にはクラスメイト、叶大輔の(股間を押さえた)姿がある。
風流かつシュールであった。
目が覚めて、朝一番に違和感があった。
綾の部屋から例のコートが無くなっていたのである。
昨夜一緒にずぶ濡れになったはずの衣類も、なし。そればかりか、朝食時に同席していた父に問い合わせたところ、彼はブランド物のコートなど買ってきていない、というのである。
昨夜の雨降り具合から、水溜まりの跡くらいは残っていてもいいはずだった。だが、玄関を出た途端、綾の目に入ったのは、カラカラに乾いたアスファルトと、萎びた雑草だけだった。
きわめつけは大輔のセクハラである。
ふざけた話だが、彼がセクハラをする朝というものが、綾にとってもっとも強く現実を認識させる判断材料になってしまっていた。
「……大輔。あたしさぁ、昨日の夜、あんたに会った?」
「いや。会ってねえけど? それがどうかしたか?」
「ううん。……それならいいんだけどさ」
後ろを歩く大輔は、性懲りもなく明るい声を上げた。
「よー。今度の休みにデートしようぜ、綾」
「あんたとデートしたら、九割方の確率でラブホに連れ込まれそうだよね。だから嫌」
「百パーって言って欲しかった」
「うん、そろそろ自分が未成年だって事に気付こうか? あとね、あたしは金輪際、あんたの誘いには乗らないようにする」
うんざりだった。それでなくとも今朝の綾は、睡眠過多の影響で、脳の底辺にずしりとした重みを抱えている。
九条学院に続く地獄坂を辟易しながら登っていると、その途中で彼女は大輔と出会ったのだ。ところが彼は、昨夜の事を欠片も覚えていないという。
だが、さすがに先日学校でやってしまった失敗は、大輔なりに反省しているようで、学院に着くまでに綾は小声で何度も謝られた。
こういうところは、大輔の長所なのだ。綾も素直に彼を許してやった。
全てが昨日までと変わらない。不気味なほどに。
だから教室に入る頃には、もうほとんど、綾はあの奇妙な夢の事が気にならなくなっていた。
「あ、綾だ。おっはよー」
「おはよ、香織。……あれ? 今日は日高君と一緒じゃないんだ?」
教室に先着していた香織は、綾を見つけるなり元気よく手を振った。
しかし、この二日で彼女とセット扱いになっていた日高の姿がない。
「うーん。日高君、風邪引いちゃったんだってさ」
「あらら、そりゃ残念だなー。転入早々、休学かー」
嬉しそうな大輔である。
この男、さっきはあれほど綾に謝ってきたくせに、昨日の失敗自体は少しも懲りていないらしい。綾は思わず頭痛がしそうになったが、幸いなことに、大輔への忠告は香織が代わりにしてくれた。
「はぁ。叶君―? そんな事ばっかり言ってたら、ホントに綾に嫌われちゃうよ?」
「ンなわけねぇだろ。いいか西井。好き嫌いの問題じゃねえ。そもそも、綾のチチとシリがばいんばいんなのはな、俺に揉まれる為に生まれてきたからあぶすッッ!?」
「誰の、何が、ばいんばいん、なのかな? 叶君?」
大輔の後頭部に打ち込んだ右拳を引き、綾は不機嫌を隠そうともせず椅子に座り込む。
すると、どうだ。大輔の言う綾の“ばいんばいん”は、制服に押さえつけられたまま、こともなげに揺れ出すのだった。その揺れ具合に合わせるように、叶大輔を除く男子一同の頭が規則正しく上下に振れたのを、西井香織は醒めた眼で見ていた。
教室には岬の姿がなかったので、陸上部は朝練があったのだろう。一限は適当な授業で知られる化学だった事もあり、生徒達の気怠げな雰囲気はいつも以上に増大している。
やはり、全てがいつも通りの『日常』である。
まだ頭はぼんやりとしていたが、綾は無意識に鞄から取り出した教科書を、机の中に差していく。
先に気付いたのは、香織だった。
「……ねえ綾。手、ケガしてないー?」
見れば掌に、一文字に走った切り傷があった。
「ホントだ。別に痛くはないけど……」
だが、それは皮一枚切れているだけで、痛みはなかった。もし出血があれば、彼女が今朝方シャワーを浴びた時点で、ちゃんと気付いていただろう。
もの珍しそうに綾の手を覗き込んだ香織は、追い打ちを掛けるように首を傾げた。
「あれー? 逆の手にもついてるよ」
「ありゃ? おっかしいなぁ。どこでやっちゃったんだろ?」
薄皮一枚だけを切った一文字が、左右の掌に刻まれている。
そこで――――、
ようやく綾は、昨夜の出来事を思い起こすに至った。
昨日の夜、朝霧綾は慣れないことをした。
手を合わせると、左右の一文字はぴたりと合致する。
……やはり、そうらしい。
「……あーあ」
「ど、どうしたの? 急にあさっての方を向き出すなんて、綾らしくないよー」
「ううん、いいんだ。どうせあたしの人生なんて、ろくでもない事だらけなんだからさ」
「えっと、なんの話? そんな遠い目をされても、私困るんだけど……」
綾はうなだれるが、理由が分からない香織は頭を捻るばかりである。
無くなったコート。
乾いていたアスファルト。
そして、いつもと変わらない大輔。
教室に入ってきた岬が、快活に笑っている。綾は生返事をしながら、自分が底無し沼のような厄介事に脚を突っ込んでしまったのだと確信した。
「ははは。いやーまいったね、ホントに……」
『夢』だと思っていた『現実』は、彼女の体に消えない証拠を残していたのだ。
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