2-2 夢の続き
ふぅ、とそう息を吐いて今度はゆっくりと机の元へと歩みを進める。白い丸椅子に腰掛けて、机に向かい合った。あぁここも、知っている景色だ。
ゲーム内でプレイヤーはその日の終わりに《日記を書く》という名目で、セーブを行う。またロードを行う際にも同様に、その日記帳を開く。つまり、セーブとロードを行う際に、目にするのがこの画角なのだ。机の上に置かれたペンホルダーとブックスタンド。そこには数冊のノートと日記帳が並んでいる。机のすぐ隣には少し大きめの本棚。ふぅ、と私はもう一度呼吸音を響かせた。ここまでは元々、ゲームを通じて得ていた知識だ。ここから見るのは、知るのは、画角外の情報となる。
そっと机上を優しく撫でると、ひんやりとした冷たさが指先から伝わってきた。ちらり、と目を向けた本棚の中には沢山の書籍が並んでいる。受験時に使っていたのであろう参考書と教科書。数冊の漫画本と文庫本。そして数え切れない程の医学書が目に入った。
主人公、雪代華の両親は医者だ。両親は現在仕事の関係で、海外で生活を行っている。昔から二人揃って家を空けることが多かった、両親。寂しい思いをしなかった、と言えば嘘になる。だが、いつでも人の命を救う為に尽力する彼らのその背中を見て育った雪代華は、自然と両親と同じ道を志すようになっていく。そんなバックグラウンドを
「語るシーンが、あったなぁ」
年季の入った医学書を目にそう小さく溢した。私の知らないその主人公の頑張りを確かに感じながらゆっくりと椅子から立ち上がると、本棚の上に数枚の写真が並んでいることに気が付いた。手に取った一枚の写真の中には、小さな女の子と男女の笑顔が切り抜かれている。知っている立ち絵よりも幾分か若いが、この男女はおそらく主人公の両親だ。そして、隣に並ぶ女の子からはあの鏡の向こうの少女の面影を感じる。つまり、これは
「幼少期の、雪代華」
別の写真にも目を向ける。華やかな着物に身を包んでいる少女。その表情はどこか硬く、緊張を感じさせるものだ。家の前で満面のピースサインを作る少女。その隣にいるのは若かりし日ののどかさん。入学式と書かれた看板の前で小さく微笑むセーラー服姿の少女。この制服には見覚えがある。これは雪代華の中学時代の写真だ。並ぶその思い出たちに、私は思わず目を細めた。ここには確かにゲームが始まる前の彼女が、この世界で雪代華が築いた十五年分の軌跡がある。
『百花繚乱 八重咲学院』の世界に突如発生した奥行き。私の知らない、雪代華の過去。
「………過去」
その響きに、私はある事実に気が付いた。ううん、気が付いてしまった。
「これは、夢」
そう、夢。そうでなければ、おかしいのだ。ここは乙女ゲーム『百花繚乱 八重咲学院』の世界。私はこのゲームが好きで、愛している。飽きることなく何度も、このゲームをプレイしてきた。何度も何度も、それこそ登場人物の台詞を全て暗記してしまうほど、どの選択肢が一番最善なのか選択画面が出る前に答えることができるほど、特別好感度には繋がらないミニゲームの発生方法を熟知するまでに、このゲームをプレイしてきた。そう、私はプレイヤー。今は主人公、雪代華の見た目をしているがそれは夢の中だからであって、私は決して雪代華ではない。雪代華ではない、のだけれど
「それじゃあ、私は、一体誰なの」
不思議なことに今の私には、私が誰なのか分からなかった。分かるのは『私』が、このゲームを愛していたことだけ。思い出すことができるのは、このゲームに関する知識だけ。今の私には、過去と呼べるものがない。
これは、夢。そう、夢なのだ。雪代華としての過去を一切保持していない身体。そこに突如、『これから』の知識だけを持った私という自我が発生したこの現象を、夢だから、以外にどう説明ができるというのだ。
「これは、夢」
夢なのよ、と小さく震える身体を抱きしめながら、私はそう祈るように呟いた。