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3-1 もしもの話

 コンコンコンと三回、規則正しく響いたその音にビクリと小さく肩が跳ねた。お嬢様ぁ、と声がして目の前の扉がゆっくりと開かれる。

「あらぁ?もうお目覚めでしたかぁ」

 そろそろ起きないと夜、眠れなくなってしまうと思ったのですがぁ、なんて紡がれたその言葉が改めて私に、ここが先ほどの夢の続きなのだと実感させる。

「余計なお世話でしたねぇ」

 そう口にしてのどかさんは穏やかな笑みを浮かべると

「…あらぁ?」

 ともう一度、先ほどよりも小さくそう呟いてその身を一歩、私へと寄せた。そして

「お嬢様ぁ」

 そっと優しく私の手を取って、言う。

「ココア、お飲みになりませんかぁ?」


 さぁさぁ、と私の答えを待つことなくそのまま手を引いて歩き出すのどかさん。リビングへと到着し、テレビ前のソファへと座るように促された。

「お嬢様ぁ、一桁の数字を何か一つお選びくださぁい」

「えっ」

 突然のその言葉に思わずのどかさんの顔を見上げると、そこにあるのは小さな笑み。意図の分からないその投げかけに困惑を抱いた。こんな時、雪代華なら何と答えるのだろう。どくん、と心臓が大きく脈打つのを感じながら

「さ、さん?」

 と答えた私に、はぁいとそう返すと彼女はくるりとメイド服を翻し台所へと向かった。少ししてチョコレートの甘い香りが漂ってくる。そう、確かな、甘い香り。手にじんわりと汗を滲ませながら思わず、はぁ、と溜め息を溢す。ここは、夢。夢なのだとそう、思い込みたいのに。まるで否だと言わんばかりに働き続ける私の五感。それによって目を背けていた幾つかの可能性が、私の脳裏から離れなくなる。直視せざるを、得なくなる。あぁ、もし、もしここが、夢の中でないとするならば。


 まず、可能性として考えられるのは『私』が彼女、雪代華の別の人格だというものだ。雪代華は今、何かしらの理由から解離性障害に陥っている。先ほど鏡を覗いた際に大きな外傷は見当たらなかった。つまりおそらく要因は心的ストレス。高校の入学を控えているこの時期、誰でも緊張や不安は感じるものだろう。それに加え、雪代華は首席として学院に入学をする。そのプレッシャーは計り知れないものだ。勿論それ以外にも、プレイヤーとしての私が知らない画角外の事情から雪代華がストレスを感じていてもおかしくはない。それらが積み重なって、彼女は解離性障害に陥り『私』という人格を生み出してしまった。

 記憶をなくす、ということは解離性障害の症状として代表的に挙げられる事象だ。それならば、雪代華としての記憶が存在しないのにも納得がいく。私としての過去を思い出せないのではなく、生み出されたばかりの人格だからそもそも『私』としての過去が存在しないのだとすれば、この現象にも説明はつく。ただ、唯一不可解なのが、雪代華により生み出された『私』が今後の彼女の身に起こることを全て把握しているということだ。八重咲学院へ入学を果たした彼女に、どんな出会いや出来事が待ち侘びているのか、私はそれらを知っている。

「…だけれど、まぁ」

 知っている、と思っているこれらの事柄が全て妄想で、私が思い描いてるような出来事が今後一切起こらない、という可能性もある。そしてそれらを確かめる術は、入学式をまだ迎えていない今の時点では残念ながら存在しないのだ。


 考え得る可能性、二つ目は、転生。いや、この場合は転移の方が正しいのだろうか。個がその個として存在するのに、必要なものは何だろう。身体、名前、それとも周りに認識されることによって初めて個として成立する?どれも決して間違いではないと思うけれど、私は個に必要なのは記憶だとそう思う。忘れてしまうことはあるけれど、生きていくその上で、過去そのものが存在しない人は決していない。

 だからこそ、今の私のこの状況は転生だとは言い難い。転生、とは生まれ変わることを指し示す。写真、思い出、時間の流れを感じる私物。確かにここに、この世界に、雪代華が存在していた証はあるのに、その彼女の身体には記憶が、十五年分の過去がない。過去のない人間は、存在しないのだ。そんな身体に突如発生した『私』という自我を指して、雪代華に生まれ変わったということができるのだろうか。

 私は、考える。この状況はやはり転生というよりは転移、『魂』だけが転移したと考える方が分かりやすいのではないか。そう、魂

「……魂かぁ」

 思わずそう、声に出した。魂の定義とは曖昧だ。この場合は一旦『身体以外で記憶を保持するもの』だとしよう。プレイヤーとしての私の魂が、乙女ゲームの主人公、雪代華の身体の中へと転移した。雪代華としての記憶がないこの状況も、今、元の私の身体に、彼女の魂が入っているのだとすれば。魂と魂同士の入れ替え。そうであれば、この身体が彼女の過去を保持していない点も、私が雪代華のこれからを熟知しているという点についても、辻褄は合う。またこの場合、私は『私』としての過去がないのではなく忘れているということになるだろう。そう、つまり

「思い出すことが、できれば…」

 なにも思い出せたところで、この状況が大きく変わるわけではない。それでも、この漠然とした不安を、自分が何者なのか分からない恐怖を、少しでも拭い去ることができるのなら。突如、湧いて出たその可能性に小さく頬が緩むのを感じた。


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