1.森を抜けて【ルキ】
「おおーっ、広い」
クライスの能天気な声が真っ先に聞こえてきて、ルキは眉根を寄せる。
ルキはあの教会にしばらく身を寄せてはいたものの、結界である森を抜けたのは初めてのことだった。
危険な魔物の跋扈する外界にわざわざ出ようなどと思わないのは当然だ。
町の住民たちが、森の存在も、教会堂も、森の向こうにある魔物の世界のことも全く意識していないということは知っていたが、それもすべて森に張られている結界の作用によるものだという。
そんなこと、ルキはこれまで気に留めていなかったが、あの黒髪の魔法使いがボルドー翁から聞き出していたのだった。
どこまでも続くかと思える黒々と茂った木々の間を歩いて行くと、やがて光の下に出る。
まぶしさに目を細めながら見渡せば、そこは広大な草原であった。
柔らかな草の緑色を目で追っていけば、朝の青白い空と地を区切る地平線が見える。
「広い、広ーい」
再び、少年のはしゃいだ声。洞窟で育ちでもしたのだろうか。
広く見えるのは確かだが、喜ぶ気になど少しもなれない。いまからこの先の見えない草っ原を抜けなければならないのだから。
右肩から左肩へ、ぐるりと頭を半回転させて見ても、目に飛び込んでくるのはやはり草と空ばかり。
嫌になるほどに広い。
「ひろ――」
「うるさいわよ!」
「世界とは広いのさ!」
三度の嘆声を遮ったのはルキだけではなかった。
大砲のように耳に刺さる声の主を睨むと、彼は悦に入った様子でマントをはためかせ仁王立ちしている。
「そうさ、クライス。きみの知らないことはいくらでもあるものだクライス。広いなあ。俺だって知らないことだらけさクライス。箱に入った猫は存在しているのか? 男はなぜ赤い洗面器を頭に乗せているのか? 機械が人間を操る時代が訪れるのか? とにもかくにも、ここはほんとに広いなあクライス。くらああああいす」
「なんだよ、叫ぶなよ、なにその無駄なビブラートは」
この少年を始めとして名前を言い合ったことが、この男には何故か喜ばしいことだったらしく、先ほどからますます異常とも言える上機嫌になっている。
精神がどうかしているのかもしれない。
「ほんとに広いわねえ」
「そうだ広いんだビオラ。俺の心も晴天だビオラ。クライスの頭はいつでも夏の夕焼け小焼けだなビオラ。お前も叫んでいいんだぞオズモ。血沸き肉躍るなオズモやクライス。楽しくなるぞオズモ」
やはり異常な男だ。
魔法使いのビオラがイバンの躁状態を無視して苦笑する。
「でもちょっと広すぎるみたい。歩いてみれば、きっと見た目ほどの距離はないと思うけれど」
「見た目ほどの距離はないんだ? そら、そうか。地平線がこんなに続いてるんじゃ、いくら歩いても越えられねーよな」
魔物の世界に常識が通用するとは思っていない。時間も空間も独特の在り方をしているというのだから、予想や計画は何の役にも立たない。
動き始めなければ何も分かるまい。
「ここでしゃべってても仕方ないわ」
意味のないことをさえずっていても話は進まない。
ルキは、嬉しそうに空を見上げているイバンに向かって指を突き付けた。
「お前が先導すると言ったでしょ。ピクニックに来たわけじゃないのよ」
「それは今のところ二の次じゃないかな」
期待していない答えが返ってきて、内心舌打ちする。
この男は昨日からずっとそうだ。是か非かと問うても、どちらでもない勝手な答えを投げつけてくる。
イバンは妙に気だるそうな語調になって、ルキを見返した。
「三四がなくて、五の次だ。俺はどうすればいいというんだ? そんなに人を困らすものじゃあないよ」
「何ですって? 人を困らせて喜んでるのはどっちなの。言いたいことがあるのならハッキリと言えばいいわ。何が問題だって言うの?」
「だからぁ――」
イバンは両手のひらを肩の前で上げる。
「お前さんだけ名前教えてくれないんだもん。俺はいったいなんて呼べばいい?」
ルキは深々とため息をつく。
行き先よりも、名前が優先事項だとでも言うのだろうか。
ルキは戦士が来るのを待っていた。森を通り抜け魔物の世界へ進むという戦士を。
僧侶であるルキには魔物を討伐する力はない。だから、それだけの力を持ち、運命に支えられた男が現れるのを、あんな生温い辺境の町でずっと待ってきたのだ。
それなのに、この男はなぜこうもふざけた振る舞いをする?
ルキはつかつかとイバンの目の前まで詰め寄り、その青い目を間近に睨みながら低い声で言った。
「あたしの名前を呼ぶことに何の意味があるっていうのかしら。お前でもなんでも好きなように呼べばいいわ。そんなことより、これからどうやって進むかをさっさと言ったらどうなの」
イバンは目を逸らすことなく、よく通る声で言い返してきた。
「名前には大きな意味がある。きみだって分かっているから、今ここにいるのだろう。もちろん、キュートなコードネームを付けてほしいというのならばやぶさかではないぞ。そうだなあ、僧侶だし『ヒーラー』とか、鋭い切れ味が武器だから『ウルヴァリン』とか……」
ルキの頬がぴくりとけいれんする。
こんなふざけた言動をしておきながら、この男の目はあくまで真剣そのものだ。
真剣にやってこれでは、やはり頭がどうかしてしまっているとしか考えられない。
――だが、ずっと待っていたのだ。
ルキは唇の端をゆがめると、イバンと顔を突き合わせたまま、いまいましげに一文字ずつゆっくりと名前を口にした。
それを聞いたイバンは、にっこり、と音が聞こえてくるように笑って、名前を繰り返した。
「ルキ!」
「……どうかしてるわ……」
それ以外に、なんと言えばいいのだろうか。