ばっとこみゅにけーしょん
自分に才能があるなど一度も思った事は無い、これは憧れた背中に追いつきたくて、必死になった産物だった。
母のスケートを一度だけ見た事がある、とてもつまらないものだった。
姉のスケートを間近で見た事がある、氷上で生きようとする人間の美しさに憧れた。
あたしの過去は、ずっと何かを追いかけていた。
「凪〜、おっはー」
「・・・甘ノ浦」
同じクラブメイト甘ノ浦 春希が手を振りながらこちらに駆け寄ってくる。
「今日遅かったね」
少し色の抜けた茶色の髪を耳にかけながら、甘ノ浦は遅刻したあたしに問いかける。
「寝坊?」
にひーっと口角を上げた彼女は少し揶揄いの意味を込めた。
「うん」
「マジか!珍しいね。凪って自己管理徹底してるから、寝坊とかしないと思ってた」
「そんな事ないよ」
「・・・あ、ごめん。凪、コーチに挨拶行って来な?」
「どこいる?」
うーんうーんと思案した後、いつものフリースペースで座ってるとの情報を貰ったので、あたしはノロノロとそこへ向かった。
「おはよう」
「はよーございます」
「寝坊か?」
「うん」
少し強面のおじさん、松林 努コーチが、パソコンと睨めっこしながら事情を聞いてくる。
「なんかあったのか?お前が寝坊なんて明日は猛吹雪だな」
「別に」
「そうか。・・・ま、なんかあったら遠慮せず相談しろよ、俺じゃなくてもいいから」
「うん」
もうこの人との付き合いもだいぶ長い、だからなのか、コーチはあたしの扱いを理解していた。
少しの会話を交わして、コーチはパソコンに何かを打ち込み始めた。
「来週の土曜、6級受けに行くぞ。大丈夫そうか」
コーチのその言葉を聞いて、あたしの頭の中に、1人の人間が思い浮かんだ。
そして、6級のバッチテストの日。
「え、凪?」
来週の土曜、あたしはクラブに足を運んだ。
そんなあたしを甘ノ浦はオバケでも見たかの様に口をあんぐりと開いている。
「ちょ、あれ?今日ってバッチテストじゃないの?」
「受けない」
「・・・えぇ!?」
リンクに響く甘ノ浦の声、あたしにばっか気にかけないで自分の練習をすればいいのに。
「やっぱどこか具合悪いの?」
「そうじゃない」
「自信ないとか」
その言葉に、紐を結んでいた手の動きを止めてしまう。
そんなあたしの心中を察してか、甘ノ浦はあたしの頭に手を乗せた。
「よしよし、不安だよね。大丈夫、次があるからね」
「下手くそに慰められても響かないわ」
「ちょー!!私、凪よりも1個上だからね!?」
止めていた手の動きを再開させて、今度こそ紐を固く結ぶ。
ちゃんと履けているかを確認して、あたしは銀盤へと歩いて行く。
「・・・でも、級はあたしより下じゃん。せめて5級は受かんなよ。下手くそ」
「あー!!言ったね!!自分は受かったからって!!」
事実を突かれたのか、頬を膨らませながら甘ノ浦も銀盤の上に乗っかった。
あたしの後ろをついて来ようと、必死になっている。
「待てー!!」
「・・・はぁ」
氷を蹴りすぎる甘ノ浦は、あたしに追いつく事は無い。
「はっ、はっや・・・!凪〜、どうやってそんな速く滑れるの〜!!」
「コーチに聞いて」
甘ノ浦の泣き言を無視して、あたしはその場でクルクルと回る。
最初は遅く、次第にスピードを上げて行く。
加速して行くたびに、冷やされた空気があたしの身体を侵食していく、その感覚が心地良い。
これは、あたしの一種の癖だった。
何かあるたび或いは何も無い時、今みたいにその場で回り続ける。
「・・・姫名」
いくら回れど、辞めると言った時の姫名の笑顔が、あたしの頭から抜け落ちてはくれなかった。
「あたしベット欲しい」
「・・・?」
3人で食卓を囲みながら、あたしは言いたかった事を素直に告げた。
「お布団いや?」
「嫌っていうか・・・。腰大切にしたいし」
大和さんの家にあった布団がダメな訳ではない、ただそれでも床に敷いてそこに背中を預ける事にあたしには畏怖感があった。
「あぁ・・・。至極真っ当な意見」
味噌汁を啜りながら、大和さんの表情が強張る。
それもそうだ、だってあたし達の居候の期限は1年だけだし、ベットを買ったところでその後の扱いが困るだろう。
「う〜ん、まぁでも、大切だよな・・・。わかった、また次の休日、家具屋に行こうか」
「え、いいんだ」
「こればっかりはね」
味噌汁を飲み終えて、今度はおかずに箸を伸ばす大和さん、案外即断するタイプだったらしい。
「〜〜っ、ま、またお買い物ですねっ」
あたしの隣に座る姫名は嬉しそうだった。
「そうだね。というか、2人の部屋には家具らしい家具ないしね、今日家具屋さんに行けば良かったね」
たったの1年の居候達に、よくもこんなに甲斐甲斐しくお世話しようとするものだ、その善性に少しだけ恐怖を覚えてしまう。
「姫名も、ベットが良い?」
「え?ん〜、私はそこまでこだわりはありませんし・・・、大丈夫ですよ」
「そう?」
姫名の就寝スキルはかなり高い、それこそ、そこら辺の道端ですら寝てしまえるレベルで場所を選ばない。
こんな儚い見た目をしているけど、意外にも本人の身体は丈夫だったりする。
「お金はあたし達が出すから」
「え?」
当たり前の事を言ったはずなのに、大和さんは意味のわからなそうな顔を浮かべた。
「お父さんから好きに使って良いとカードを貰っているので、大和さんは心配しなくても──」
「待とう。うん、ちょっと待とうね」
「はぁ?小遣い制?」
「そう、2人にはこれを徹底していただきます」
「え、えっと・・・?理由を教えてもらっても良いですか?」
大和さんが箸を置いて、対面に座るあたし達の目を見て、口を開く。
「好きに使っても良いって言われても、それは2人のお金じゃなくて。和也さん、もしくはアンジェラさんのお金なんだ」
真剣な声色だった、いつもはどこか気の抜けた言葉しか放たないのに、こういう所では鋭さを見せてくる。
「それに、買うのはあくまで俺の家に置くための家具。だから、凪のベットは俺が買います」
「律儀すぎ。これはあたし達の為のお金だし、あたしの為の寝具じゃん」
「それでもダメです、俺はそのお金を使う事を認めません」
「・・・チッ、じゃあいらない。だる」
気に入らない、こういう時だけ大人っぽく振る舞おうとするのが癪に障る。
「凪ちゃん・・・!」
あたしの分のご飯を食べ終わって、お皿を全部シンクへと持って行く。
「姫名もだよ。頑なに俺に払わせなかったのは、それがあったからなんだね」
「え!?あ、えと・・・」
「それは和也さんが、2人は生活費に使ってくれると信頼して渡したものだよ」
「は、はい・・・」
その後も、20分近く大和さんの説教は続いた。
あたしは早々にコンビニへ行くと言ってその場を去ったから、残りの説教は姫名へと向けられるだろう、ごめん姫名。
「さむ・・・」
夜の春風は想像以上に寒かった。
けれどこの寒さが消え失せ、鬱陶しい夏の暑さがやって来ると思うと億劫になってしまう。
「らっしゃせ〜」
やる気のない店員さんを素通りして、あたしは店内を物色する、逃亡のために来たので特に買いたいものはない。
「・・・水でも買おうかな」
手ぶらで帰るのもあれだし、あたしは常温水が置かれている棚を目指す、冷たい水は身体に良くないので。
「んー」
唸りながら、水だけ買うのも寂しいと思い惣菜コーナーへ足を動かす、探し物は野菜スティック。
丁度いい物を見つけると、またひとつ欲しいものが生まれる、隣のコーナーにサラダチキンが置かれていた。
「卵も買おうかな」
気づけば腕に3品も抱えていた、カゴ持てば良かったと後悔しながら、レジへ向かう。
「合計で782円でーす」
「・・・あっ」
「はい?」
「──ふ、袋ッ、お願いします」
「は〜い、お値段変わって785円です」
ここであたしは気づいた。
ポケットに入れていたと思っていたものが入っていない、スマホはある、財布が・・・ない。
どうしよう・・・。
無いと知っていながらも、探すふりをやめられない。
こんな事なら携帯に決済用のアプリでも入れておけばと後悔する。
「お客様?・・・うわ、可愛い」
店員の呼び声はほとんど聞こえなかった、羞恥心で被っていた帽子を深く被り直して、今の商品を全てキャンセルしようとすると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「PiPiでお願いします」
「え?あ、えっと?
「や、大和さん・・・」
電子決済のためのバーコードが写された携帯を差し出すのは、まぎれもなく大和さん本人だった。
「あ、はい・・・」
どこか残念そうな店員は決済を終えて、感謝の言葉を述べた、気の抜けた声はとてもやる気を感じられない。
何はともあれ、あたしは救いの手を差し伸べられたのだった。
「夜出歩くなら、一声かけなさい」
「かけた」
「え、ほんと?」
「本人は説教垂れてて聞いてなかったけどね」
大和さんの右手に握られたビニール袋をもらうために、あたしは自分の右手を伸ばす。
「ありがとうございます〜、助かりました〜」
「あぁ、ごめん。どうぞ」
嫌味ったらしく言ったのに、大和さんは気にする事なく袋を差し出して来た、なんだごめんって、それはあたしの台詞だろうに。
「・・・ありがと」
「全然、にしても財布忘れるなんてね」
「鞄に入れっぱだった。てか、隣歩くな」
あたしの言葉を素直に受け取って、大和さんの歩幅が速くなる、あたしより前に行くつもりだった。
「前歩くなっ」
「注文が多い・・・」
「前、その、歩かれると、や、やりづらいじゃん。ほら」
何故だか、前を歩かれるのは嫌だった。
別に話しかけづらいとかじゃなくて、わざわざ急いで前へ行かなくてもじゃなくてもいいじゃないかみたいな、そんな、感じ。
「そう、そこで良い」
「なんのこだわり?」
2歩後ろを歩く大和さんの文句は聞き流す、袋を漁りながらとりあえずと思い、水を取り出す。
「んく・・・ぷはっ」
美味い、味無いけど。
「流石アスリート、買う物がOLみたい」
「アスリートなのかOLなのかどっちだし・・・」
続けてサラダスティックを取り出す、ドレッシングは無い、当然だ。
「行儀悪いよ」
「食べ歩きぐらいするでしょ」
「せめて座ろうよ、ほら、公園ある」
指差したのは、初めてここを訪れた時に来た公園・・・ではなく、別の公園だった。
前とは違い、かなり小さな公園だった。
「──、姫名をひとりにしたくない」
「一応、君のお姉ちゃんだよ?子供か何かと勘違いしてない?」
「うっさいな、姫名の何を知ってんのさ」
公園を素通りしようと歩幅を速める。
家でひとり寂しがってるに決まってる、そんな思い絶対にさせたくない。
「まぁ、凪よりかは知らないけどさ」
「ほらね、あと名前呼ぶ──」
「姫名は、凪が思ってるよりも強い子っていうのは知ってるよ」




