第三話 警告は、たいてい静かに届く
最初に異変に気づいたのは、俺じゃなかった。
星野だった。
「……これ、変よ」
統制庁から少し離れた喫茶店。
昼時を外した店内は静かで、コーヒーの匂いが落ち着く。
俺は書類をめくりながら言った。
「どこが」
「通った件数」
星野が指で示す。
「多すぎる」
俺は一瞬、意味を測りかねた。
「……良いことだろ。
救われる人が増えた」
「“増えすぎ”なの」
その言い方に、引っかかりを覚える。
星野は、ノート端末をこちらに向けた。
グラフが表示されている。
「この補助金制度、
今まで月平均二百件前後だった」
「それが?」
「今月、もう一万二千件」
俺は、思わず瞬きをした。
「……は?」
「噂が回ったのよ」
星野は淡々と言う。
「“書き方を変えれば通る”って」
俺は、コーヒーを一口飲んだ。
苦味が、やけに強い。
「……制度が、正しく使われただけだ」
「“正しく”?」
星野は眉を寄せた。
「霧島。
あなたが定義を書き直したのは、
“実態居住”だったわよね」
「ああ」
「つまり――」
一拍。
「住んでる“つもり”でも通る」
言われて、気づいた。
いや、
気づかないふりをしていた。
「制度はね」
星野は続ける。
「善意を前提にしてない」
「……」
「だから“抜け穴”じゃない。
“穴”なのよ」
俺は黙った。
紙の上では、
全部、整合している。
整合しているからこそ、
止められない。
「悪用、されてるって言いたいのか」
「悪用じゃない」
星野は、はっきり否定した。
「“利用”よ。
正当な、制度の利用」
その言葉が、
妙に重く響いた。
「……じゃあ、どうしろって言う」
「止める」
即答だった。
「一旦、戻す。
定義を絞る」
俺は書類を閉じた。
「それじゃ、
また切り捨てられる人が出る」
「出るわよ」
星野は目を逸らさない。
「でも、
出さなきゃいけない犠牲もある」
その言い方は、
あまりにも“正しい”。
俺は、笑ってしまった。
「効率、いいな」
「皮肉?」
「事実だろ」
星野の声が、少しだけ硬くなる。
「霧島。
あなたは今、
制度を信じすぎてる」
「……俺は」
「違う」
星野は言葉を遮った。
「あなたは“書いたもの”を信じてる。
自分が整えた文を」
胸の奥が、ひやりとした。
それは、
俺自身も気づいていなかった感覚だ。
「だって……」
俺は言葉を探す。
「書いたものが、
正しくなかったら、
何を信じればいい」
星野は、少し黙った。
そして、静かに言った。
「人よ」
俺は、顔を上げた。
「制度じゃない。
文でもない」
「……」
「“今、目の前で困ってる人”」
それは、
俺が一番苦手な答えだった。
「霧島」
星野は、低い声で言う。
「これ以上続けたら、
あなたは――」
一拍。
「止められなくなる」
俺は視線を落とした。
机の上の書類。
整った文字。
完璧な形式。
どれも、
嘘をついていない。
だからこそ、
怖かった。
「……警告か」
「忠告」
星野は言い直す。
「私はもう一度、
間違えたくない」
その一言で、
彼女が過去に何を失ったか、
聞かなくても分かった。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「……今日は、保留だ」
「霧島」
「まだ、戻すって決めてない」
星野は、目を閉じた。
「そう」
そして、静かに言った。
「それが、一番危ない答え」
その日の夜、
統制庁のシステムに、
一通の内部通報が入った。
――文書管理課による不正な制度運用について
差出人不明。
だが、
内容は正確だった。
俺が書いた一行も、
すべて、把握されている。
警告は、
もう一つ、届いていたらしい。
しかも今度は――
かなり、公式な形で。




