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第四話 査察は、いつも礼儀正しい


 査察が入るとき、必ず前触れがある。


 それは通達じゃない。

 警告でもない。

 空気だ。


 その日の朝、

 統制庁のフロアは、妙に静かだった。


 いつも鳴っているキーボードの音が、控えめになる。

 電話の声が、半音下がる。

 誰もが「余計なことを言わない」モードに入る。


「……来るな」


 俺はモニターを見たまま、呟いた。


 そして、その予感は外れない。


 九時ちょうど。

 エレベーターが開き、

 知らないスーツが三人、降りてきた。


 全員、黒。

 無地。

 ネクタイの結び目まで揃っている。


「統制庁・内部監査室です」


 先頭の男が名刺を差し出した。

 声音は柔らかい。

 柔らかすぎる。


「本日より、文書管理課の業務査察を行います」


 課内に、目に見えない壁が立った。


 誰も反論しない。

 反論しない訓練だけは、全員が受けている。


「対象者は――」


 男がタブレットを見る。


「霧島悠真主任」


 ……やっぱりな。


 俺は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。


「私ですね」


「ご協力、感謝します」


 その言葉には、感謝も期待もなかった。

 ただの手順だ。


 会議室に通される。

 ガラス張りの、小さな部屋。


 逃げ場はないが、

 外からよく見える。


 つまり、密室ではない。


 それが、この国の“優しさ”だった。


「単刀直入に伺います」


 監査官は言った。


「あなたが修正した、

 生活支援関連文書について」


 俺は頷く。


「規則に基づいた処理です」


「どの規則ですか」


「附則第三条、運用例第七項」


 即答した。

 ここは、俺の仕事場だ。


 監査官は、少しだけ眉を動かした。


「確かに、該当します」


 だが、と続ける。


「しかし、その結果として――

 予算執行が想定の五倍に膨らんでいる」


「……」


「これは“適正”でしょうか」


 俺は、言葉を選んだ。


「制度が、

 必要とされていただけです」


「では質問を変えましょう」


 監査官は、声を落とす。


「あなたは、その結果を

 予測していましたか」


 心臓が、一拍遅れた。


「……いいえ」


「でしょうね」


 その一言が、

 一番、刺さった。


「霧島主任」


 別の監査官が口を開く。


「あなたは優秀です」


 褒め言葉に聞こえない。


「だからこそ、危険です」


 俺は、苦笑した。


「面倒くさい評価ですね」


「ええ」


 監査官は頷いた。


「制度は、

 “善意”で運用されることを想定していません」


 聞き覚えのある言葉だ。

 星野の声が、脳裏をよぎる。


「あなたは“正しい書き方”をした」


「……」


「ですが、“正しい結果”を出す責任までは、

 負っていない」


 それは、

 免罪符でもあり、

 鎖でもあった。


「そこで提案です」


 監査官は、淡々と言う。


「当該修正は、

 “個人判断による逸脱”として扱います」


 空気が、冷える。


「今後、同様の処理は

 上長決裁を必須とする」


「……それは」


「事実上の、手止めです」


 否定しない。

 隠さない。


「あなたを処分する気はありません」


 監査官は続ける。


「ですが、

 “これ以上”は許容できない」


 俺は、しばらく黙った。


 反論はできる。

 条文もある。

 前例も、作った。


 でも――

 勝てない。


 これは議論じゃない。

 “調整”だ。


「……分かりました」


 俺は、そう言った。


 監査官は、ほんの少しだけ頷いた。


「ご理解いただけて何よりです」


 会議室を出ると、

 フロアの音が戻ってきた。


 誰も、俺を見ない。

 それが、答えだった。


 昼休み、

 庁舎の裏で、星野が待っていた。


「……来た?」


「来た」


「査察?」


「ああ」


 星野は目を閉じた。


「言ったでしょ」


「言われたな」


 俺は空を見上げた。


「止められた」


「……それで?」


「一旦は、な」


 星野が、俺を見る。


「“一旦”?」


 俺は、静かに言った。


「規則は変わってない」


「……」


「書き方も、

 まだ、そこにある」


 星野の目が、揺れた。


「霧島」


「分かってる」


 俺は、先に言った。


「これは、警告の次だ」


 空は、やけに青かった。


 静かすぎて、

 嵐の前みたいだった。


 たぶん――

 次は、選択の番だ。


 止まるか。

 踏み込むか。


 そのどちらも、

 面倒くさい。


 だからこそ、

 逃げられなかった。


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