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亡びの国の征服者~魔王は世界を征服するようです~  作者: 不手折家
第二十章 半島編

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第331話 レオナール・ディヴァー

 ユーリ・ホウとの偽りの仲違いから十日、アルフレッドの軍の侵攻が始まってから五日が経ち、そしてルオークからの撤退を始めて更に五日が経った。難民を引き連れながらアルフレッドを十分に引き込むと、同盟破棄が偽りであったことが公表され、便利な鷲たちがアンジェの手元に帰ってきた。

 それから更に数日が経ち、ユーリ・ホウの東進を察知したアルフレッドが軍を引き返しても、アンジェは軍の西進を続けていた。必要なのは河川を決壊させる意味をなくすことであり、可能な限り距離を取らなくてはならない。


挿絵(By みてみん)


 ユーリ・ホウ率いるシヤルタ王国軍であれば、東進してからの侵攻で、単体でアルフレッドを打破することも可能だろう。

 だが、アンジェにとって、これは自分の戦争だった。

 自分と兄との因縁は、自分の知らぬところで他人が決着をつけ、勝手に終わり、玉座の権利が転がり込んでくる性質のものではない。どうしても自分で決着をつけたかった。それは無理だとしても、決着に関与することはしたかった。

 だが、シヤルタ王国軍は約十五日先行している。迅速を尊しとする彼らの行軍速度を考えれば、鈍足の兵を連れて追いつける距離ではない。

 そのため、アンジェは取り急ぎ騎兵と最低限の補給段列だけを連れて追いかけることにしたのだった。


 三十四日後。


 行軍中立ち寄った民宿の一室で目を覚ましたアンジェは、まず朝であることに軽い驚きを覚えていた。夜中に一度も起きなかったのだ。

 決して表立っては言わないが、アンジェは行軍中の天幕暮らしが苦手だ。戦陣であるが故に常に聞こえてくるなにがしかの喧騒、日頃使っているものとは違う、硬いベッド。簡素な寝袋や毛布一枚で寝ている一般兵と比べれば、格段に快適な生活であることは間違いなくとも、居を定めた暮らしと比べれば劣悪だった。

 それに加えて連日の緊張のせいで、最近はよく眠れていない。

 しかし、今日はなんだか快適に目を覚ました。体はだるくなく、眠気は拭い去られたように消えている。特別なことをした覚えはないが、何かが噛み合って快眠できたのだろう。


 いい朝だった。


 ベッドに腰掛けると、コンコンとノックがされ、返事をすると身の回りの世話を頼んでいる女性が現れた。

「おはようございます、アンジェ様」

 朝の挨拶をし、軽く頭を下げる。

「うん、おはよう」

「今朝はご機嫌が麗しゅうございますね」

「やはり、そう見えるか」

「はい。格別にお美しいですよ」


 女性は洗顔の用意を整えながら言った。

 アンジェが顔を洗うと、柔らかい蒸しタオルを軽く押し付けるようにして水気を拭ってくれた。

 朝の用を済ませている間に朝食の用意を整え、食べ終わるのを待つ間に化粧の準備を終えていた。


 姿見の前に座って、髪を編んでもらい、薄く化粧をしてもらう。なすがままになっている間、今日やるべきことを頭の中で整理する。

 ユーリ・ホウの軍団は一度自領に入ってから東に向かったが、それは勝手知ったる自分の土地を通るためだ。こちらは、そこまで大回りをする必要はないだろう。合流を早めるためには別ルートを取ったほうがいい。

 そのためには、効率的に偵察を出しながら、慎重に進路を選択していかなければならない。

 ああ、それより先に、昨日調子が悪かった愛馬の様子を見なくちゃならないんだった。調子が悪そうなら控えの馬に換える必要がある。せっかく慣れてきた名馬を怪我させたくない。


「はい、終わりましたよ。お立ちください」


 化粧の最後に肩を揉んでいた手が離れる。アンジェが立つと、椅子が片付けられた。

 今度は服の着替えだ。すらっとしたパンツに足を通し、肌着の上から薄手のシャツを纏う。その上から体型に合わせて特注させた最高級の鎖帷子を着込み、軍衣を纏った。

 鎖帷子を一枚着込んでおくだけでも、かなりの確率で暗殺を防ぐことができる。アンジェは、これに何度も命を救われていた。子供に背中から刺されたときは刃を防いでくれたし、屋根の上から短弓で射られたときは矢を弾いてくれた。

 最後にブーツを履く。靴紐を縛るのだけは、自分でやった。


「ありがとう。さて、今日も一日頑張ろうっ」


 自分に言い聞かせるように、軽く勢いをつけて言うと、アンジェはドアの前に立つ。その向こうには、アンジェの指示を待っている部下が並んでいるはずだ。だが、急ぎの報告がないなら、先に馬を見よう。

 ドアを開けると、最前列に特徴的な軍衣をまとったシャン人が立っていた。

 鷲乗りのシャン人は、騎兵とも歩兵とも傭兵とも違う、革で作られた飛行服を纏っている。なので、一目で区別がついた。


「アンジェリカ殿、内密のご報告があります」

 シャン語だった。

「緊急か」

「はい」


 借りてきた鷲乗りの兵は、全員が流暢にテロル語を話せるわけではない。また、真っ先に報告を届けるべき最高指揮官が女性であるという環境にも、やはり慣れていない。

 緊急であれば戸を叩いて報告したところで咎めなどあるはずもないのだが、女性の朝を邪魔する無礼を恐れて外で待っていたのだろう。


「入れ。急ぎ報告してくれ」


 目配せをすると、中で化粧道具を片付けていた女性が、何も言わず部屋を出ていった。

 ドアを閉めて、鷲乗りと二人きりになる。


「で、どうした」

「堤防が決壊されました」


 アンジェは、そのシャン語の意味を飲み込むことができなかった。


「?? 意味が良くわからない。表現を変えてくれないか」

「敵の作戦で、川から水が溢れ出しています。これで伝わりますか」

「ああ、ああ。うん」


 あいづちを打ちながらも、アンジェの頭は少しも動いていなかった。

 一体、なんの話をしているのだろう。


「現地は、最悪の状況です。鷲を降ろす場所も見つからないほどに水が広がり、人家も森も畑も、すべて呑み込まれました」

「え……あっ、お前は、置いてきた再編中の軍に配属した連絡係だったよな。軍はどうなっているんだ?」

「ご安心ください。まったく無事でございます。宿営地までは、わずかな水も届きませんでした」

「それじゃ、意味が……」


 アンジェは、茫然自失の中で思った。軍は無事だって? 本来なら吉報であるはずの情報が、なぜだか凶報のように聞こえた。

 軍に損害がなかったのは幸いなことだ。

 でも、それじゃ、民たちは一体なんの意味があって殺されたのだ? 今このときにも溺れ、窒息して、失意と絶望の中で命を失おうとしている者たち……既に息絶えた人々も、なんのために死んだというのだろう?

 濁った泥水の濁流で、押し流される愛おしい都市。美しい田園地帯は、流出した川底の泥で覆われてしまっているだろう。


 その虐殺は、こちらの軍を一網打尽にしたのなら理解できる。それは軍事だ。そのために無辜の民が何十万人、何百万人死んだとしても――それは、冷酷な、とか無慈悲な、とか形容される性質を帯びることにはなるのだろうが、軍事であることに変わりはない。

 軍事であれば、理解できる。

 だが、そうでないなら。軍に少しも損害を与えていないなら、この虐殺は一体なんなのだ。


 一体、なにがしたいんだ、あの男は?


 猛烈な怒りがアンジェの脳を襲った。たちまちに思考を塗りつぶし、衝動に任せて近くにあった燭台を思い切り腕で払った。

 所々黒錆のついた燭台は、宙を飛翔して姿見に衝突し、けたたましい音を立ててそれを破壊した。


「――すまないが、少し一人にしてくれ」

「はっ。では、失礼します」

「早くいけ」


 バタンとドアが閉められると、アンジェはしばらくの間、叫び声を上げながら遣る瀬ない怒りを拳にぶつける作業に没頭した。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 遠征には同行せず、主君の帰還を城で待っていたラインハルト・ディヴァーは、耳に入ったその情報を、最初信じようとしなかった。

 ツカツカと廊下を歩き、急く気持ちを抑えながら、主君の私室をノックする。

 返事を待って入ると、


「陛下、堤防を切る命令を出したというのは真でありましょうか」


 と、開口一番に言った。


「どうした。主が遠征から帰ったのだ。まずは無事を祝え」

 アルフレッドはかすかに笑みの混じった声で、茶化すように言った。真鍮のマスクをしているため、真実笑っているかは読み取れない。

「本当なのですね」

「なにがだ?」

「堤防を切る命令を出したこと、です」

「ああ。なにか問題でもあったか?」


 その声色からは、ラインハルトを煽っている様子や、ふざけているような調子は、まったくといっていいほど感じられなかった。悔恨も葛藤もない。様々な感情が少しずつ混ぜ合わされた複雑な声色でもない。なにも存在しないのだった。

 テーブルの上に置いてあったブドウなら食べてしまったが、なにか問題があったか? というような口調なのだ。

 狂っている。ラインハルトは、自らが腹心を務め支える主君の狂気が、更に進展していることを察した。


「大有りです。あの状況では、軍の所在地を誤魔化してユーリ・ホウの仕業に見せかけることもできない。アンジェリカ姫殿下の軍は、既に氾濫域の外に逃れていたのでしょう。軍を巻き込めなかったのなら、なぜ堤防を切る意味があったのです?」


 ラインハルトからしてみれば、この作戦はユーリ・ホウの仕業に仕立て上げて、更に敵の軍を壊滅させる効果があったとして、それでも復興のことを考えれば極めて問題の多い作戦だった。

 すべて上手くいったと仮定しても、人的被害も物的被害も恐ろしい規模になる。三つの貯水池を台無しにするだけでも大損害なのに、最悪の場合、ククルスル川の流域が変化してしまう可能性すらあった。

 そうなった場合、破壊された堤防より下流は、川そのものが消滅したのと同じ状態になる。水が流れてこないのだから、当然、歴代の王が整えてきた灌漑水路網はすべて使えなくなる。それは、川を頼りにした穀倉地帯ヘケレの農業が破綻することを意味していた。それだけではない。水路はそれ自体が船を使った交通通商網である。それらはすべて麻痺するし、流域の都市は渇水に苦しむことになるだろう。

 むろん、それらは現在こちらが支配している領域ではない。アンジェリカ側が握っている土地だ。だからといって、なにをやっても許されるというわけではない。

 こちらの将兵も、全員が血も涙もない鬼畜というわけではないのだ。物質的な被害は及ばなくとも、精神的な影響はあるだろう。

 しかしアルフレッドは超然と、


「せっかく手間をかけて用意したのだ。使わなかったら勿体ないではないか」


 と言った。ラインハルトは、唖然とする思いがした。


 ラインハルトは、父の跡を継いでアルフレッドの帝領伯となるため、若い頃から彼に仕えてきた。アルフレッドがこの国唯一の王で、アンジェリカ姫がアルティマの狭い所領に押し込められていた――つまり、兄妹がかろうじて同じ国で共存していた時代からずっと仕えてきた。

 その頃のアルフレッドは、断じて狂った人間ではなかった。生来残忍で手段を選ばない傾向はあったにせよ、それは陰謀家としては持っていて当然の資質だ。その上で、統治には徳が必要であること――少なくとも、民に対してそう見せかける必要があることは理解していた。例えばかつての十字軍に参加していた頃の彼であったなら、このような愚行は選択肢に入りすらしない行動だったはずだ。

 なにが彼を変えてしまったのか。


 アルフレッドは、自身の左手を()めつ(すが)めつ、手首を回しながら表と裏とを交互に見ている。

 三ヶ月と少し前、ティーフラント会戦からの撤退の最中、追撃されていたアンジェリカが唐突に逆襲してきたことがあった。その奇襲の際、戦場の只中で兄妹は邂逅し、剣の一撃を防ごうと手をかざし、籠手ごと切り裂かれてこうなったらしい。

 その手は、歪となっていた。中指と薬指の間から侵入した刃は、アルフレッドの左手をまっすぐに手首まで割った。傷は迅速に縫われたが、どのような不思議なのか、その後しばらくして人差し指と中指が壊死した。壊死部分を広範囲に取り除く再手術が行われ、現在の掌は大きなスプーンでえぐり取ったように醜く欠けている。

 手という人体で最も目にする部位に、不具の証を刻まれたわけだ。

 その変化が今回の凶行を引き起こしたのか、ラインハルトには分かりようもない。しかし、いずれにせよ、アルフレッドのひび割れた精神を修復するすべは思いつかなかった。せめて妻君が存命ならと思うが、すでに落命してしまっている。


「陛下、しかし、これからどのような戦略を立てるおつもりなのですか。ユーリ・ホウは東進を開始しています。同じことをもう一度できる地形などありません。アンジェリカ軍との合流は避けられるでしょうが、どこかで改めて決戦を挑まれるおつもりですか?」

「いいや、退却する」

「退却? どこに」


 ラインハルトには考えつきもしないことだった。国を譲り渡して、フリューシャ王国にでも退却するのか。歓迎されるわけがない。


「村々を焼きながら国土の奥へ奥へと引き込むのだ。連中の補給線を伸ばし、教皇領の援軍と合流する」

「援軍? 当てがあるのですか」

「ああ。約束を取り付けた。今回は大司馬自ら兵を率いて来る。引き込んで迎撃する形にできれば、まず負けることはなかろう」

「そんなに迅速に来れるのですか。ただの(から)約束では」


 ラインハルトは心配になる。決戦と同時に内乱を仕掛けてみせると言われた時は、そんな大げさな陰謀劇が上手くいくのかと思ったが、実際彼らはやってのけた。

 結果論でいえば上手く回避されてしまったものの、ラインハルトは発想自体は悪いものではなかったと考えている。むしろ、極めて高い評価を与えられてもおかしくない謀略だった。

 しかし半島から首尾よく撤退できたといっても、損害がまったくなかったわけではないだろう。軍の再編も必要なはずだ。そんなに早く大量の援軍を派遣できるものだろうか。


「三日前に督戦隊の者が来た。遅れることはあっても、来ないことはあるまい。堅城に籠もれば時間を稼ぐことはできる」

「どこに籠もるおつもりですか」

「アレジーンだ。ちょうど良かろう」


 アレジーンか。山岳部に位置する小型の城塞都市で、三卿独立領との国境近くにある。

 そもそも現在まだ残っている三つの選帝侯の土地は、穏やかな山脈に両腕で包まれたような巨大な盆地にあり、防衛に都合がよいために手出しができなかったという背景がある。

 その中にアレジーンはあった。動乱の中で、攻略というより城主の寝返りによって運良く調略することのできた城塞都市だ。

 たしかに、あそこであれば援軍が到着するまで一ヶ月程度持ちこたえることは容易だろう

 大砲が到着してしまえば壁などすぐに壊れてしまうだろうが、以前ユーリ・ホウを内陸部に引き込んだ際の経験でいえば、あれは馬を十頭以上使って曳いても極めて鈍足だ。アレジーン要塞までならば、軽く一ヶ月以上はかかる。楽観的な見方をすれば、あの重さでは山岳地帯の坂道を登れない可能性すらあるように思えた。


「分かりました。では、そのように」

「そういえば、お前の弟を捕らえたぞ」

 アルフレッドはなんでもない事のように言った。

「……は?」

「あの売女に誑かされた、お前の弟だ。レオナール・ディヴァーのことだよ」


 意味がわからない。なぜ、レオナールが囚われの身に?


「どうする。お前の手で殺すか?」


 殺すわけあるか。この狂人め。発作的に口に出かけた言葉を飲み込みながら、ラインハルトは返答に迷った。

 殺すか、という提案は、ふざけているわけでも、試しているわけでもないのだ。彼にとっては一種の親切心ですらあるのだろう。目の前にいる自分の腹心は、きっと弟のことを手ずから殺したいと思っているだろうから、望むならそうさせてやろう。という考えから提案している。


 アルフレッドには、仲間への信頼が篤いという一面がある。それは、アルフレッドの内部にある二面性の善の側面なのかもしれない。信頼している仲間を疑いたくない、という強い気持ちがあるのだ。

 その資質は、長い間続いた肉親への猜疑心の反動から産まれたものなのかもしれない。肉親を信じない代わりに、自分が信じたい者は疑わない。

 しかし、疑う役割の部下は置いた。ラインハルトも、その一人である。

 アルフレッドは、信頼を裏切った者に対しては、想像を絶するような苛烈な仕打ちをする。ラインハルトは、自分が調査した結果判明した裏切り者が、アルフレッドの手によって惨たらしく殺されるところを何度も見てきた。


 その極端な表裏によって、アルフレッドは勢力の結束を保ってきた。一部の熱狂的な部下からは親のように慕われ、アルフレッドも部下たちを親のように庇う。都市を奪った時に略奪をしようが虐殺をしようが咎めはない。

 そういった絆で結ばれた一部の連中は、秩序ある国家では決して許されない、人類の獣の(さが)を思う存分満たす人生を謳歌していた。


「どうする。必要ないなら、拷問官に任せるが」


 ラインハルトは、頭の中で慎重に言葉を選んだ。アルフレッドの中で、何があっても自分を支えるべきディヴァー家の中で、たった一人アンジェリカ側に与したレオナールは、確実に裏切り者のカテゴリに入ってしまっている。下手な言葉で裏切り者を庇えば、自分の身が危うくなる可能性すらあった。


「待ってください。拷問で得た情報は、あてになりません。まずは、私が身内の情を使って情報を引き出してみます」


 これでいいはずだ。拷問で得た情報は、取引で得た情報より精度が低い。

 それは、「知らない」と言った人間が、本当にそれを知らないのか、決意から黙っているだけなのか、確認する方法がないからだ。拷問官は苦痛によって秘密を吐かせようとするが、本当に知らない人間は、苦痛から逃れようと自分で作り出した情報を喋る。

 今回の場合であれば、レオナールが拷問の苦痛から逃れるために「アンジェリカの本隊はこの道を使って侵攻をかけてくる」と喋り、それを真に受けてしまった場合、大変な損害を被るかもしれない。

 できることなら、情報は拷問ではなく交渉や籠絡で得るべきだった。


「そうか。じゃあ、やってみろ」


 そう言うと、アルフレッドは興味を失ったように視線を外し、グラスの中のワインに目を向けた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「どういうことだ、この馬鹿者!」


 ラインハルトは激昂して、レオナールの頬を殴った。

 後ろ手に縄を打たれたまま部屋につれてこられた、久しぶりに会った弟は、殴られた勢いで一歩後ろに下がる。


「……すみません、兄さん」

「説明しろ。なんでこんなところにいる」

 ラインハルトは、殴った手をさすった。慣れないことをしたせいで、右手にひしゃげたような痛みを感じる。

「……失態でした。功を焦ってしまい、こちらに潜入したところで捕まりました」

 馬鹿か。

「功を焦ろうがなんだろうが、ノコノコと敵地にやってくる人間がどこにいる。父上がなぜお前をアンジェリカ姫殿下のところにやったのか、まさか忘れたのか」


 レオナールは、ディヴァー家の生き残りのためにアンジェリカのところに送られた。

 幼少の頃からアルフレッドに仕えていたラインハルトと違い、レオナールは成人してからも主君を持たず遊び回っていたからだ。なので、アンジェリカが帰還したとき、その下に送り込む人材としては唯一かつ最適だった。

 その一手で、勝者がどちらになってもディヴァー家はこの国に残る算段だった。アルフレッドが勝者になった場合、レオナールは切り捨てることになる。だが話が分かる方のアンジェリカ姫が勝者になった場合は、一家全体の助命が叶う可能性が高い。

 言ってみれば、レオナールはディヴァー家にとって万が一に備えた予防線であり、安全装置だった。

 しかし、その安全装置は自ら捕まれば殺される地域に赴いて、こうやって捕まってしまった。これでレオナールが処刑されてしまったら、アンジェリカ姫にディヴァー家を安堵する理由は何一つない。


「ですが兄さん。俺はアンジェリカ姫の前で犯した失態を挽回しなければならなかったんです」

「失態? なにをした」

「ユーリ・ホウの前で誤った意見具申をしてしまい、彼に面罵されました」

「それで功を焦ったのか。そんなもの、あの御方の気質を考えれば、大した問題じゃない。側近の一人にさえ収まってさえいれば、十分役目は果たせたはずだ」

「……俺は、彼女の第一の側近でありたかったのです」


 レオナールは、ディヴァー家の家風を十分に受け継いだ人間だ。

 すなわち、臆病で怯懦で、戦いに向いていない。刃物を向けられれば足が震え、戦場に出ることなど考えられない。歴代のディヴァー家は、常にそうやって生きてきた。どんな時代も自ら軍を率いることなく、戦争よりも謀略によって全ての物事を解決してきた。

 それなのに、レオナールは捕まったら拷問を受けて殺される敵地にまで来た。ラインハルトであったら、いくら功を焦っても絶対にそんなことはやらない。弟は勇気を振り絞ってそれをしたのだろう。


「らしくもない。惚れたのか」

「いいえ……そんなものではありません。彼女のことを、人間として尊敬しているのです」

「……はあ」


 それは尊敬ではなく、崇拝だ。

 彼女には昔から家臣を惹きつけてやまない求心力があったが、それに当てられたらしい。男を死地に送り、喜んで死なせる女の魅力など、ラインハルトには解りたくもなかった。


「まあいい。こっちとしても、お前には生きていてもらわなければ困るからな。人質交換で釈放できないか努力してみる」

「……ありがとうございます、兄さん」

「だが、どうにもならなかった時は、覚悟はしておけ」


 その時は、自分で殺すとアルフレッドに言えばいい。喜んで快諾するだろう。そうなれば、少なくとも嗜虐性癖(サディスト)の連中の手にかかることなく、楽に殺してやることはできる。

 しかし、自分に弟を殺せるのか。

 ラインハルトには、想像もできないことだった。

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― 新着の感想 ―
この物語時々(割と頻繁に)狂人現れるな
アルフレッド、こりゃ後ろから刺されても仕方ないな。
自滅の流れかな…
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