8章:…うん、知ってた…。
私は静かに目を閉じた。目の前には闇が広がる。暗く黒い闇が広がる。何も見えない世界。静かなる安らぎの世界。私はこの世界が好きだ。
部屋に戻って高鳴る鼓動を制圧した私は、おもむろに立ち上がった。
時は満ちたわ。待ってて、ナオ君。
ひとつ大きな息を吐き出して部屋の扉を開けた。
途端に手が汗ばんでくる。ハンカチでそれを拭い、ナオ君を探す。
「部屋には戻ってないみたいね。何処にいるのかな?」
とりあえず私は階段を降りてロビーへ向かうことにした。
「あれ?帆乃風、気分はもう大丈夫なのか?」
ちょうど階段の降り口で鋭士さんと鉢合わせした。
食事を終えて料亭から部屋に戻って来たのね。でもナオ君とは一緒じゃないみたい。
「え、ええ。少し横になったら良くなったわ。」
「そうか、あんま無茶すんなよ?」
心配そうな顔をする鋭士さん。元々気分なんか悪くないけど。
「ところでナオ君見なかった?」
「那秧?ああ、アイツなら中庭で運動してるぜ。なんでも減量がてらボクシングのシャドウをしときたいって言ってな。アイツも熱心だよな。」
「そう、ありがとう。じゃあ…」
私は足早にその場を立ち去った。
中庭は夜のせいか、ひっそりと静まり返っていた。そんな中で一人ボクシングのシャドウをしているナオ君を発見した。彼は夢中になっていて、どうやら私には気付いてない様子だった。
どうしよう、緊張してきたわ。具合が悪いと嘘までついて心の準備をしてきたのに…。でも、今更後に引けないわ!今目の前には彼がいる。二人きりになれる今、言うならそう、今しかないわ。頑張れ私っ!
「ナ、ナオ君。」
私は意を決して彼の名前を呼んだ。それだけで胸の鼓動が急加速するのを私は覚えた。
「帆乃風さん?どうしたんですか?もう具合は大丈夫なんですか?」
「う、うん…。何とか…。あの、私、ナオ君に話があるの。」
思えば出会ってから、この数ヶ月間、想いをずっと溜め込んできた。さらなる緊張でにわかに体が震えるのを、拳を握り締めて抑える。
「何ですか、話って?」
彼は無邪気な笑顔で汗をタオルで拭いながら私の言葉を待つ。
胸がドキドキして仕方がない。でも、この日の為に今まで私は頑張ってきたんだもの。私はここから彼との関係を変えるために勇気を振り絞る。
「あのね、私、初めて出会った時からナオ君の事が…」
私は震える唇を噛み締める。そして…
「好きなの!」
やはり顔が俯き気味になってしまう私だった。
恥ずかしい話だけど恋の告白なんて事は私にとって生まれて初めての事で、とにかく恥ずかしくて恥ずかしくて顔を見られたくなかった。
ゆえにナオ君の顔も俯く私には見ることができない。一体どんな顔をしているのだろう?どんな返事を言ってくるのだろう?
木々の葉がさわさわと揺らめく音、優しい音だけが鼓動と反してとても静かだった。
短い沈黙が異常に長く感じる。
それから……。
「…全く気が付かなかったです。でも、すみません、僕……、他に好きな人がいるんです…。」
「!?」
信じられなかった。
「う…そ……?」
「………。」
「……。誰……?まさか、咲姫…?」
「……。」
私は顔を上げてナオ君を見つめた。眼に映る無言の横顔がとてつもなく悲しかった。そう、何も言わなくても解る、好きなのはヴォーカルの彼女なのだと。
困ったような伏し目がちになる黒い瞳は、いつの間にか私の知らないうちに淡くて切ない恋心まで見せる色になっていた。
嫌だった。嫌で嫌でしょうがなかった。そんな顔を見るのが、そんな瞳を見るのが、そんなナオ君を見るのが。
「ごめんなさい…。でも僕は帆乃風さんの事、バンドで尊敬してますし憧れもあります。僕にお姉さんがいるとしたらきっと帆乃風さんみたいな人なんだろうなって。そういう意味では大切だし、大好きです。でも、…僕は帆乃風さんが想ってくれている気持ちを、返す事はできないと思います。本当にすみません。」
その言葉の一言一言が、私の胸をギリッと締め付ける。
でも私は自然に口から言葉をすべり落とした。
「…うん、知ってた…。」
「帆乃風さん?」
私は感情とは裏腹に精一杯微笑む。
「嬉しいの。ナオ君が私の事、大切に思っててくれて。私の気持ちとは違っても、大好きって言ってくれて。大丈夫、私は大丈夫よ、それだけで十分だから。…ありがとう。」
もう一度、最大限の努力でにっこり笑って、それから私はその場を逃げるように走り去った。
思えば言うまでもなかったかもしれない。きっとこうなるのは、他の誰よりも私自身が一番よく分かっていたんだと思う。
例えば居酒屋で楽しそうに語り合うナオ君と咲姫。そこにはあったのは私には見せない彼の笑顔。
例えばレコーディングの打ち合わせでナオ君の家に集まった時、咲姫だけが私用で来れないと知ったときの彼。そこにはあったのは私の知らない彼の哀顔。
他にもそんなシーンはこれまで何度もあった。さらには私の知らないところであの二人はもっと親密になっていて、お互いを想い合っているのかもしれない。
以前ライブ前に鋭士さんに打ち明けたのは、私の想いが届かない事で悩んでいたわけではなく、本当はナオ君が咲姫とくっついてしまうんじゃないかという懸念からということだった。
ロビーで私は疲れてへたり込む。
「仕方ない。咲姫なら、仕方ないわ…。」
咲姫はいつも元気で明るくて、可愛くて優しくて、いつだってどんな時だって前向きで頑張っていた。それに比べて私は…彼女に勝てるところがどこにもない。だから、仕方がない。明るくて元気で前向きなナオ君にピッタリの彼女。私なんかとはどう考えても釣り合うわけがない。
あの二人なら例え恋人同士になっても、私の事を邪険にしたりしないと思う。きっと今まで通りで一緒にいられる。それは多分私にとって幸せなこと。…今はまだ辛くても、時が経てばきっと幸せになれる。それだけは信じていたい。私はそう信じていたい。
私は服の裾ををぎゅっと掴み、自分に言い聞かせながら静かに目を閉じた。
目の前には闇が広がる。暗く黒い闇が広がる。何も見えない世界。静かなる安らぎの世界。私はこの世界が好きだ。
そう、この世界が…。




