プロローグ 【定期】今夜も生きて歌ってます
金曜日、二十一時五十分。
わたしの六畳間は、この時間だけ「楽屋」と呼ばれる。呼んでいるのはわたしだけだけど。
カーテンは二重。壁には吸音材がわりの毛布。学習机の上には、お年玉とバイト代と投げ銭の積立から生まれたコンデンサーマイク。その隣で、ノートパソコンのファンが離陸前の飛行機みたいにうなっている。
配信ソフトを立ち上げる。画面の中に、女の子がひとり現れる。
紫がかった黒髪のロング。月の髪飾り。白い花――夜顔をあしらった、夜空みたいな衣装。
わたしがウェブカメラの前で首をかしげると、画面の中の彼女も、同じ角度で首をかしげた。
――夜顔ルネ。
チャンネル登録者、二十八万四千人。歌ってみたのバズから生まれた、個人勢VTuber。顔出しなし、本名非公開、年齢非公開。プロフィール欄に書いてあるのは「夜にだけ咲く花です」の一行だけ。
そしてその中身が、わたし。
野々原すみれ、十六歳。日中の主な生息地は教室の窓際、特技は気配の消去、口癖は(小声で)「あ、大丈夫です」。
我ながら、詐欺だと思う。
二十一時五十八分。待機画面に切り替える。コメント欄が、ぽつ、ぽつ、と灯りはじめる。
『待機』『まちー』『金曜きた』『一週間これのために生きてた』『初見です、緊張します』
初見さん、緊張するのはこっちだよ。毎週してるよ。
深呼吸。吸って、止めて、吐く。吐いた息のいちばん最後に、昼間のわたしを混ぜて捨てる。
二十二時、ちょうど。
配信開始。
「――こんばんは。夜にだけ咲くほうの花、夜顔ルネです」
わたしの喉から、わたしじゃない声が出る。
低すぎず、甘すぎず、夜の温度にちょうどいい声。昼間、購買で「あ、大丈夫です」しか言えない喉と同じ喉から出ているとは、製造元のわたしですら信じがたい。
「金曜二十二時になりました。今週も皆さん、無事に夜ふかしのお時間です。おつかれさまでした。えらい。全員えらい。出席取りませんけど、全員に出席点あげます」
『こんルネ〜』『こんルネ』『出席点助かる』『単位ください』『こんルネです』
コメント欄が滝みたいに流れていく。同接、三千二百。四千。金曜の夜ふかしたちが、灯りに集まる羽虫……じゃなくて、そう、夜に咲く花のまわりに集まってくる。
「単位はあげられませんが歌ならあげられます。今夜は歌枠です。が、その前にですね、聞いてください。ルネ、今週、人生で初めて『タピオカの入ってないタピオカミルクティー』を買いました」
『ん?』『どゆこと』『事件』
「新作がただのミルクティーだったんですよ。タピオカ店なのにあえてタピオカなしキャンペーンという謎期間中だったみたいで。喉が完全にタピオカの態勢で待ってるのに、来ない。吸っても吸っても、来ない。皆さん、この絶望わかりますか。改札でICカードが反応しないときの三倍くらいの絶望です」
『わかるwww』『改札の絶望を基準にするな』『タピ難民』『かわいそうで草』
「というわけで今夜の一曲目は、喉にタピオカが来なかった悲しみを込めて――嘘です、普通に歌います。じゃあ、いこうか」
BGMをフェードアウト。イントラの音源を流す。
マイクとの距離、こぶし一個ぶん。
息を、吸う。
――歌っているあいだのことを、わたしはうまく言葉にできない。
ただ、教室で三十デシベルしか出ないわたしの声が、ここでは天井を抜けていく。六畳間の天井なんて最初からないみたいに、夜の上のほうまで、まっすぐ。誰にも届かない昼間のぶんまで、ぜんぶ。
一曲目を歌い終えると、コメント欄が一拍だけ静まって、それから、決壊した。
『うわ』『鳥肌たった』『これが無料でいいのか』『残業ぜんぶ溶けた』『はー好き』『生きててよかった』
流れていく文字の速さで、みんなの息づかいを測る。速い夜は、いい夜だ。
そして――流れの中に、それは今夜も、あった。
『さいた』
ひらがな三文字、ひとつだけ。
ID・よるのひまわり、さん。
先に断っておくと、同接四千の配信者が、コメント欄のひとりのIDを覚えているなんてことは、普通はない。流れるコメントは川だ。川の水を一滴ずつ覚える人間はいない。現にわたしは、毎週来てくれている常連さんの名前だって、ぜんぶは言えない。ごめんなさい。
でも、この人だけは、事情が違う。
ひとつ。名前の横に、メン限――月額メンバーシップの継続バッジがついている。それも、およそ一年前、登録一万人の記念にメン限を開設した、その初日に入ってくれた組の色。個人勢のメンバーなんて数百人の世界だから、初日組の名前は嫌でも視界に馴染む。
ふたつ。こっちが本題だ。
去年の冬、風邪をこじらせたまま歌枠に挑んで、二曲目の途中で声が裏返り、音を止めた夜があった。ごめんなさい、今夜はうまく咲けませんでした――そう言って、いつもの半分で配信を閉じた、わたしの配信人生でいちばんの失敗放送。
その夜のコメント欄の、いちばん最後に、それは置かれていたのだ。
『さいてたよ』
咲けなかった夜に――咲いてたよ、と言われた。
風邪で弱っていたせいもあってか、妙に染みて、画面の前でちょっと泣いた。
そして、次の金曜からだ。この人が、歌が終わるたびに『さいた』の三文字を置いていくようになったのは。まるで、あの冬の夜の続きを、ずっとしてくれているみたいに。
歌のあとの『さいた』、ただそれだけの人。名前も、顔も、年齢も、どんな一週間を過ごして金曜の夜にたどり着いたのかも、わたしは何ひとつ知らない。
それでも――この『さいた』がある夜と、ない夜とでは、わたしの歌の着地点が、ちょっとだけ違う。
三曲、四曲。合間の雑談。リクエスト。二十三時二十分。
「――はい、というわけで、今夜の夜顔はこのへんで閉じます。来週も金曜二十二時、いつもの場所で咲いてますので。夜ふかしのみんな、ちゃんと水分とって、ちゃんと寝ること。……おやすみなさい。いい夢を。夜顔ルネでした」
配信終了ボタン。
同接四千六百人ぶんの夜が、ぷつん、と切れる。
六畳間が戻ってくる。毛布の壁。ファンの音。喉の奥に、心地いい疲労。
ヘッドホンを外すと同時に、スマホが震えた。妹・こむぎのメッセージ。
『三曲目の高いとこよかった。タピオカのくだりは三十点。あと風呂まだなら先入っていい?』
採点が辛い。リスナー第一号の実妹は今夜も手厳しい。『どうぞ』とだけ返して、わたしは機材の電源を落とす。
画面の中の夜顔ルネが、消える。
鏡に映るのは、前髪の長い、地味な女子高生がひとり。
これでいい。
夜顔は夜にだけ咲いて、朝が来たらしぼむ花だ。昼間のわたしは、道端のすみれ。誰にも摘まれず、誰にも気づかれず、ひっそり生えているのが仕事。二十八万人の夜と、出席番号二十五番の昼は、絶対に交わらない。
交わらないはず、だった。




