99☆狂いそうなんですけど
るなに『先にるなのマンションで料理作ってるから、2人は1時間後に来てね』と伝え、チヒロは1人オーシャンドームを後にした。
加えてこっそり『デザートのケーキ、お願いしていい? 真鈴様に行ってもらうと目立っちゃうから、るなに行ってもらったほうがいいかな?』とお使いも頼んだ。球場敷地内のスイーツショップを指定。あそこなら車のないるなでも徒歩で行ける距離だし、近場なので怪しまれることもない。
そして、トレーナーへも根回し。こちらには『るなが足を気にしていました。あの子、平気な顔してるけど、絶対痛いはずなんです。聞き出そうとしても大丈夫だって言い張るでしょうから、トレーナーから自然な感じで診てあげてもらえません? 大丈夫って嘘ついても、ちゃんと診てあげてほしいです。明日の試合に響いてもいけないですし』と耳打ちしておいた。
これで、るなは時間通りにはこれないはずだ。真鈴が先に来れば、計画はほぼ成功する……。
「あぁ、ぞくぞくしちゃう……! 早く来ないかなぁ」
るな愛用のぶたさんパジャマを羽織るチヒロ。やはりるなサイズのパジャマではボタンが止まるわけがないので、キャミソールの上から羽織るだけにした。
煮込むにはだいぶ時間が足りないが、ネットで時短でもおいしい裏技を検索しておいた。くつくつと小気味よい音を立てるビーフシチューをかき混ぜる片手間、チヒロはサラダとバケット、それと赤ワインを手早く準備する。
傍らのスマホを見下ろす。約束の時間までもうすぐだ。チヒロは至近距離で狼狽える真鈴の顔を思い出し、ぶるっと武者震いを起こした。
直後、ドアベルが控えめに鳴った。「はいはーい!」とまだ聞こえないはずのモニターに向く。クールなサングラスをかけた真鈴がモニターに映っている。独りだ。チヒロは鳥肌が立った。
「どうぞー!」
オートロックを解除する。るなの声でなかったことには気付いたであろうが、るなが不在だとは疑った様子はない。エントランスに向かったのを確認し、チヒロはそわそわと玄関前で待機した。
「お待ちしてましたー! さぁ、どうぞどうぞー」
エレベーターが着くと同時に玄関扉を開け、1歩躊躇った真鈴を招き入れる。るなの靴はシューズボックスから使用感のあるものを拝借し、あたかも室内にいるよう予め設置しておいた。真鈴はそれをチラリと一瞥して警戒を解いたらしく、「お邪魔します」とサングラスを取った。
「あの……るなさんは?」
ダイニングに案内すると、開口一番真鈴が問いかけてきた。チヒロとはさりげなく距離を置き、リビングのほうも見渡している。
「あー……それがですね……」
チヒロは小首を傾げ、眉尻を下げて言葉に詰まるふりをした。
「いない……んですか……?」
「ううん、いることはいるんです。でも……」
意味深に、ベッドルームに視線を送る。案の定、真鈴もその視線の先を追ってきた。
「帰ってくるなり、具合悪いって言い出して……。青い顔してたから、真鈴様来るまで休んでなよって横にならせてるんです」
「え……? トレーナーに声かけられてたのは見かけましたけど、あの時は普通に……」
「えっ! トレーナーに? 何か言われたのかなぁ……。ちょっと様子見てきてもらえませんか? 火、止めてきます」
「あ、あぁ、はい」
チヒロはキッチンへ行くふりをし、真鈴がベッドルームに向かうのを確認する。予め数センチだけ開けてあるので、ノックをしても返事が返ってこないので入らない、という選択肢は消えるはずだ。
「るなさん……? 大丈夫ですか?」
真鈴が扉の隙間から中に呼びかけた。ベッドの上では、枕元まですっぽりと掛けられたタオルケットが盛り上がっている。返事がないのは当たり前だ。真鈴がるなだと思って声をかけているのは、るなサイズに丸めた布団なのだから。
「るな、起きません? ご飯どうするのか聞きたいんで、起こしちゃってもらえませんか?」
入室を躊躇っている真鈴の背に問いかけた。真鈴は素直に「分かりました」と言って、暗がりのベッドルームへ入っていった。
「るなさん? 具合どうですか? チヒロさんが、ご飯どうしますかって……」
丸めた布団にタオルケットを掛けただけのベッドに、真鈴は優しく話しかける。本当にるなを心配しているんだというのが嫌というほど伝わってきた。チヒロもそろりそろりとベッドへ近付く。
「るなさん……?」
枕の下、るなの肩にあたるであろう部分に真鈴が手を添えた。タオルケットがくにゃりと沈む。真鈴が一瞬手を引いた。疑惑を感じたのだろう。恐る恐るといった手付きで、タオルケットを捲った。
「えっ……! チヒロさん、騙したんですかっ?」
真鈴が青ざめた顔で振り向いた。すかさずチヒロはベッドへ押し倒す。るなに模した布団が真鈴の下でぼふっと潰れた。
「なっ……なにするんですかっ!」
「真鈴様、聞いて? 騙してごめんなさい! でも、こうでもしないと2人で話せないと思って……」
「話なんかできませんよ! どいてください!」
抵抗する真鈴に、チヒロは全体重を込めてベッドに押さえ付ける。さすがの腕力で突き飛ばされそうになったが、鼻先まで顔を近付けると案の定力が弱まった。
「ごめんなさい! ほんとは私だってこんなことしたくないんです。でも、るなのためなんです! 分かってください!」
「……るなさんの……? こ、これのどこがるなさんのためだって言うんですかっ」
廊下から漏れる灯りで、真鈴の白い肌が青ざめているのが分かる。怯えた瞳が揺れていた。そんな姿も、チヒロにはたまらなく美しく見える。
「分からないんですか? 真鈴様が私を拒絶しているから、るなは悩んでいるんです。私はるなが大事なんです。あなたもるなが大事なら、るなを困らせるようなことはしてほしくない!」
真鈴が切れ長の目を見開いた。そして、震えた声で答える。
「……は? じゃあ、チヒロさんはこんなことして、るなさんが悲しまないとでも思ってるんですか? あたしだって、るなさんを困らせていることは分かってます。でも、その原因があなたにあることを自覚してください!」
「あはっ。確かに! でも、しょうがないじゃないですか。だって、私……」
ここで泣き落としに入る予定だった。……が、チヒロの瞳にはすでに自然と涙が浮かんでいた。演技の前にぽたり、ぽたりと真鈴の頬に落ちてしまう……。
「るなには笑っていてほしいんです。笑ってるるなの一番近くにいたい……。だから……私を、抱いてください……」
「……な……」
真鈴は絶句した。チヒロは反論される前に続ける。
「るなのことが好きすぎて頭がおかしくなっちゃうの……。狂った私がるなを傷付ける前に、真鈴様のものにして……? そしたら私、るなをすっぱり諦められる。真鈴様に溺れるほうが、私も苦しくないしあの子を傷付けずに済むから……」
「ば……バカなこと言わないでください! そんなことできるわけないでしょう」
「どうして? あなたがかわいい日本人選手をたくさん抱いてきたの、私だって知ってます。私じゃダメなんですか? 私がかわいくないから?」
「そうじゃなくて……あたしはもう、誰とも遊ばないって決めたんです! るなさんにも誓いました」
「そんなの、私と真鈴様の内緒にすればいいでしょ? るなはトレーナーに捕まって、しばらくは帰って来ない……。お願い……私が嫉妬で狂いそうになる前に、あなたに溺れさせてください……」
止めどなく流れ落ちる涙が、真鈴の白い肌を滑っていく。一体この涙は何の涙なのだろうか……。チヒロは答えが出ないまま、動揺を隠せずにいる真鈴を見つめ続けた。
「……チヒロさん、あなたの都合にあたしを利用しないでください。あたしはもう……」
「お願い! あなたしかいないの! それとも……るなを壊しちゃってもいいの……? 私、誰と結ばれてもダメだったの。春平さんと……るなのお兄さんともそうだった。元旦那もそうだった。みんな『るな、るな』って……るなは私の大事なものなのに……。だから、るなから剥がしてきちゃった……」
「あたしは……そんな手には引っかかりませんよ」
「分かります。その目を見れば……あなたは私には落ちない……。だけど、だから、嫉妬で狂いそうなの! あなただって、あの子の傷つく姿は見たくないでしょう?」
哀れむような視線が突き刺さる。愚かな女を見る目だ。自分だって愚かなくせに。るなを愛するが故に誰とも寝ないなんて、遊び人の身体が欲してないわけがないのに……。
じっと見上げていた真鈴が、ゆっくりと瞼を閉じた。葛藤しているのだろう。しばらくの沈黙ののち、真鈴は静かに抵抗を解いた。チヒロは形の整った真鈴の唇に、そっと口付けた。
唇が重なった瞬間、弾かれたように真鈴が跳ね起きた。体勢は逆転し、チヒロはベッドに押し倒された。
真鈴の熱い舌が、荒々しく入ってくる。今まで肌を重ねてきた男性たちの誰よりも情熱的で、それだけで快感が湧き上がってきた。全身の血液が沸騰しそうだ。チヒロも舌を絡め、真鈴を欲する。
やがて真鈴の舌先が首筋に移った。吐息が耳たぶをかすめる。
「ん……」
思わず声が漏れた。押し殺そうと、必死でシーツを握りしめる。真鈴は容赦なくチヒロの身体をむさぼり続ける。
誰もが憧れるカリスマエース。その人が今、自分の身体を味わってくれている。こんな幸せなことがあっていいのだろうか……。
快感が全身を駆け抜ける。もう一度キスをおねだりするように、真鈴の首に両腕を回した。唇が重なる。とろけそうだった。快楽に溺れ、もうこのままどうなってもいいとすら思えた……。
「ただいまーぁ」
チヒロの意識がハッと現実に引き戻された。るなの声だ。こんなに早く帰ってくるとは想定外だった。
真鈴は気付いていないのか、無心で舌を絡めてくる。肩を押し戻そうとするが、覆い被さったままキスを続ける。「あれ? チヒローぉ?」とるなの声が近付いてきた。
「……なに……してるの……?」
真鈴がようやく飛び退いた。パチンっと灯りが点く。呆然としたるなが立っていた。手にしていたケーキの箱が、ドサッと落ちる音がした。




