58☆不穏なんですけど
あんなに激昂した真鈴は久しぶりだ。ヒカルの一件以来だ。呼吸をするのも躊躇うような張り詰めた空気が一気に弛緩し、あちこちで選手たちが息を漏らした。
サラはその場で崩れ落ちるように冷たい床へ座り込み、顔を覆った。数人がしゃがみ込み、サラの肩を叩いたり背を摩ったりと宥める。他の者は我関せずとこわばった顔のまま、スチール製のロッカーにユニフォームを叩き込むようにして帰り支度を急ぎ出した。
「ナルミさん、何があったんですか?」
サエが問いかけると、サラの背を摩っていたナルミが振り返った。一度扉のほうをちらりと診てから立ち上がる。
「私も一部始終見てたわけじゃないし、早口でほとんど聞き取れなかったからよく分かんないけど……」
ナルミは一度言葉を切った。言いにくそうに眉を寄せ、小声で続ける。
「『あたしに援護点も入れられないやつが、あたしのボールをヒットにしかけたモエカを笑うな』……ってとこかな……」
すかさずサエが疑問をぶつける。
「ヒットにしかけた? あれはるなが暴投しなければ、ぼてぼてのショートゴロでしたよね?」
自分の名前が出た瞬間、るなはビクッと肩を揺らした。得点には至らなかったものの、悔しさがぶり返す。
あの場面、ショートの自分がもっと正確に送球していれば、二塁を踏ませることはなかった。再び抱きつかれることも。突き飛ばすことも。
真鈴に冷ややかな目を向けられることも……。
サエの問いに対し、ナルミはやれやれと首を振った。
「神月真鈴のグラブに当たったから勢いが落ちて上手くるなのほうに転がってくれたけど、あれはグラブに当たっていなければセンターに抜けてた。……試合前も試合中もふざけたまねしてくれてたあの子、2打席目も3打席目もセンターフライだったじゃない? 動体視力とパワーがあっても、センスがなきゃ神月真鈴のボールはあそこまで飛ばせない」
るなとサエは、揃って頷く。汗と制汗剤の入り交じる選手が、数人大股で出て行った。
「じゃあ神月真鈴は高校時代のバッテリーだったからってだけじゃなくて、モエカのセンスに一目置いてるからこそ、モエカを笑ったのが許せなかったってことですかね」
「そう。自分が認めてる選手を笑ったのが、今日3三振のサラだったからね」
「『援護点も入れられないやつが』っての、私も耳に痛いです……。7回以降の神月真鈴のボール、すんごいピリついてたし。分かっちゃいるけど、あっちのエースは……」
「サラもそれ言ってた。『あっちのエースは打てないからしょうがない』ってね。だけど、そっから更に火が付いたように怒鳴りだして……」
ナルミは続きの代わりにため息を吐いた。開いたままのロッカーの鏡に映る自分たちの顔は、どれも酷く情けない。
サラに悪気はなかったのだろう。『相手もエースなんだから、打てない時だってある』。それは一見、仕方のない慰めのように思える。
だが、真鈴が求めていたのは、そんな『しょうがない』という諦めの言葉ではなかったはずだ。クールに投球しているように見えても、真鈴だって常に全力勝負している。一球に泣く野球にとって、甘いボールは1つも許されない。
自分と同じ熱量で勝ちにいく姿勢が見えないサラの一言に、真鈴の孤独とフラストレーションは限界を迎えたのだろう。
本日ノーヒットのるなも、その言葉には耳が痛い。それどころか、守備でのミスまで重ねてしまった自分には、言い訳をする資格すら残されていない……。
『あたしだけ頑張ってたって、味方が点を取ってくれなきゃ勝てないんですから』
真鈴のもどかしさはもっともだ。だが、打者だって頑張ってないわけがない。それでも、結果が全ての世界。数字で結果を出さなければ意味がないのだ。
ただ、真鈴ほどの選手ともなれば、今までだってこういう試合は何度も経験してきたはず。今日に限ってここまで激昂する要因は、やはりモエカの存在なのだろうか……。
ベース上に座り込んだモエカに手を差し伸べたあの時、真鈴はモエカになんと言ったのだろう。つかみどころのないあのマイペースさが、真鈴には放っておけない存在なのだろうか……。
まだ座り込んだままのサラの肩を優しく叩き、バッグを担いだナルミが「先に車行ってるよ」とるなたちに片手を上げた。
「うちらも行こ。早くシャワー浴びて肉食べたいわ」
「……そうですね。お肉たくさん食べて、明日はガンガン打ちましょ」
ユニフォームのままぞろぞろとロッカールームを後にする選手たち。サエがいそいそと帰り支度を始めたので、るなもそれに習う。視界の端で、同国の選手に抱えられ、部屋を出て行くサラの背が見えた。
なんとも不穏な空気の漂うバスの中。るなはホテルに着くまでずっと激昂する真鈴の横顔が頭から離れなかった。




