いくらいふ
むう。暑い……
暑くて寝てられん。
10月も中旬を迎えて、ようやく残暑もおさまって来たものの、まだまだ日中は寝やすいって程じゃないなぁ。
時計を見てみれば正午。
何時も俺が起床している時間である訳だが、本日は土曜日。
要するに休みな訳で、まだ起きなくても良いのに、目覚めちゃったのは習慣って部分もあるっぽい。
規則正しい生活と言えば、聞こえは良いかも知れんのだけど、実際のところは社畜根性が染みついてるだけかも知れない。
そして休日に俺が目覚めたら、真っ先に何をするかと言えば。
ビールである。
俺としては、真昼間っからビールを飲むとか最高の贅沢な訳ですよ。
え? 贅沢がしょぼいって?
そんな事は知ってるよ。
こちとら安月給の中で、年金がほぼゼロのお袋と、障害者の弟を養ってんだっての。
世間様のように絵に描いたような贅沢なんて出来やしないんだよ。
だからと言って、ビールだけってのも寂しい。
何か酒の当てになりそうな物はないかと冷蔵庫の中を大捜査。
大袈裟なって思うだろ?
でもな。うちの冷蔵庫は人外魔境の、いや、パンドラの箱と言っても過言じゃない。
平成の世になって早28年、昭和が賞味期限の魚肉ソーセージといった感じの災いが、うっかり飛び出して来たりするもんだから、油断出来んのだ。
迂闊な物を食ってしまった日にゃ、便座と一体化する未来は避けられない。
酒の当てという名の希望を掴み取る為には、慎重を期せねばならんのだ。
そんな想いを胸にパンドラの箱の封印を解いてみれば。
あれ? 思ったよりもスッキリしてるぞ。
いや、スッキリしているどころか、ほとんど中身が無くなっているって言った方が正解だわ。
どういうことだ?
数日前に見た時には、セーフなのかアウトなのかよく分からん物が所狭しと詰まっていた気がするんだが、恐らくお袋が整理したんだろうな。
まぁ、それは良いとして。
冷蔵庫の中央にて圧倒的な存在感を放ちつつも、鎮座しておられる特大の箱。
しかも二つ。
新参者の癖に、デデンと佇む一対のその御姿は神々しさすら感じられる。
差し詰め、我が家に降臨なされた雷神様、風神様といったところ。
いや、どちらかと言えば、雷神様、風神様というよりは、パンドラの箱を開けたら、再びパンドラの箱が出て来ちゃった感じ。
言わば不安のマトリョーシカ。
それだけに込み上げて来る圧倒的な不安感。
嫌な予感しかしないんだが……
だが、ここまで来て中身を確認しないって選択肢はあり得ない。
勇気を振りぼって箱の中身を確認してみる。
俺の目に飛び込んで来たのは。
鮮やかな紅。
そして丸いフォルム。
お寿司屋さんで人気のあの食べ物。
たらこ?
いいえ、違います。
これは……
イクラです!
ハーイ! バブー!
そう! 皆大好きイクラさんでございますよ!
それが特大の箱にみっちりと詰まっておりますわ!
見間違いじゃないよな。
間違いなくイクラだ。
うわぁい!
何か一気にテンション上がってきたぞぃ!
食って良いのかな!
食って良いのかな!
思わず二回言っちゃう位にはテンション急上昇だぜ!
おい、お袋さんよ。
このイクラどうしたんだ?
食って良いのか?
「安かったから買ったのよ」
買ったって。
安かったって言っても結構高いんだろ?
そんな俺の視線に気が付いたのだろう。
「北海道に遠縁の親戚がいるでしょ?
その伝手で安く譲って貰ったって訳よ」
そんな事を言うお袋。
ああ、そう言えば居たな。
死んだ爺さんの従兄の孫だったかな。
毎年お歳暮に新巻鮭を送ってくれる通称鮭の人が。
鮭の人呼ばわりも失礼かも知れんが、俺にとっては顔も知らん人なもんだから、その人のイメージは完全に鮭の人なんだ。
多分、向こうも俺達の事をミカンの人とかって認識してる気がするし、これに関しては許して欲しい。
因みにこの鮭、切り身じゃなくて、一尾丸ごと送られて来るもんだから結構大変。
何せデカいし、硬いしで、そのままじゃ冷凍庫に入りゃしないんだよ。
この鮭を切り分けて何とか冷凍庫に放り込むのが、我が家の年末恒例行事になっていたりする。
っと、話題がズレちゃったな。
要するにコネで激安で買えたって事らしい。
んで、このイクラ、おイクラだったん?
え? 全部で2万円?
持った感じからすると、2キロはあるよな。
2キロで見積もったとして、キロ単価1万円!?
ちっとも激安じゃないだろ!?
高すぎるわ!
バッカじゃねぇの?
イクラなんでも高過ぎるだろ! イクラだけに!
いや、ぶっちゃけ、イクラの相場がどんなもんかは詳しくないから、高過ぎるってのは言い過ぎなのかも知れんけども。
それでも2万って言ったら、月の食費の3分の1だぞ。
給料日までまだ20日以上あるってのに大丈夫なのかよ。
って、ちょっと待てよ?
パンドラの箱はもう一個あったよな。
ああ、なるへそ。
そいえば、全部で二万円って言ってたもんな!
つまりもう一つの箱の方には別の海の幸が納まっているって寸法な訳ね。
まぁ、そうだよな。
イクラだけを2万円分も買う訳ないよな。
いやぁ、まじで焦ったわぁ。
んで、こっちは一体何が詰まってんだ?
カニかな?
それともウニかな?
いや、本シシャモって線もあり得る。
希望に胸を膨らませて箱を開けてみるとそこには。
鮮やかな紅。
丸いフォルム。
それはまるでルビーが敷き詰められた宝石箱のよう。
うわー 綺麗だなー
って、これイクラじゃん!
うん。
何となくそんな気はしてた。
でも、賭けてみたかったんだよ。
一縷の望みってやつにね!
結果は見ての通り惨敗だったけどな!
って事はあれか?
今現在、うちの冷蔵庫ってば、イクラしか入ってないって事なのか?
それは冷蔵庫としてどうなんだ?
「イクラ5キロで2万円って凄く安いのよ!
お得でしょうが!」
まぁ、その言い分は分からないでもない。
5キロで2万円って事はだ。
キロ4000円って事だ。
イクラの相場に詳しくない俺にでも激安だって事くらいは分かるし、冷蔵庫の中身を整理の為に処分したってのも、勿体ないとは思うが理解は出来る。
でもな?
俺が聞きたいのは、そういう事じゃないんだよ。
冷蔵庫が空っぽな状況で、何でイクラだけを5キロも買おうと思ったのかを聞いてるんだけど?
「だって安かったんだもん」
不貞腐れるように言い放つお袋。
この野郎。
60過ぎのババアの「だって」とか「だもん」とか本当にイラッとするわぁ。
何なのこの人?
イクラなんでも、フリーダム過ぎやしませんかね。
第一、イクラ5キロもどうするつもりなんだよ。
3人家族で食う量じゃないぞ。
どう考えても食べきれんだろ。
「お友達に一箱分は分けてあげるつもりなの」
ふむ。まぁ、食べきれずに駄目にするよりはマシか。
でもな。お袋の友達って60↑の爺さん婆さんだろ?
こんなしょっぱいもん大量摂取したら、血圧上がって死ぬんじゃね?
いや、それ以前に魚卵ってのは痛風の天敵だったな。
連中のた打ち回る姿が目に浮かぶようだ。
お袋ってば、ちょいちょいナチュラルに他人を仕留めに来るよな。
俺も結構な回数仕留められかけた事あるし。
しかも、悪意がないだけに余計に始末に負えないっていう最悪のパターン。
まぁ、譲りたけりゃ、好きにすれば良いけど。
買っちまったもんは仕方ない。
3人で食えば何とかなるだろう。
そんな適当過ぎる算段で、おっさんライフならぬイクライフに突入じゃい。
初日。
ひゃっほーい!
こぼれイクラ丼じゃー!
おかわりし放題だぜー!
ウマウマー!
3日目。
モグモグ。
美味い、美味い。
5日目。
パスタに絡めてみる。
タラコパスタがある位だからイケるんじゃね? って予想がドンピシャリだ。
美味い美味い。
7日目
パンに乗せてみる。
悪くないかも。
意外と合うんだなぁ
10日目。
もうアドリブが思いつかねぇ。
流石に飽きてきた。
15日目。
…………
20日目。
さて、ここで問題です。
Q イクラって20日経つとどうなるの?
わかるかなぁ?
わっかんねぇかも知んねぇなぁ
それでは正解のお時間です。
A 糊になる
これが正解。
糊って別に海苔の誤字って訳じゃないぞ。
イクラが破れてさ、本当にネットリとした糊みたいになるんだよ。
そんな感じで生臭い糊と化したイクラなんだが、まだ腐ってる訳じゃないっぽい。
食った感想はと言えば、旨味のある糊って感じ。
いや、糊なんて食った事あるのかと問われれば、ないんだけどさ。
因みに食感に関してはネチャッとしていて最悪。
それでも食うよ。
勿体ないしね。
食うけどさ。
どうしても納得いかないんだよな。
何が納得いかないのかって?
お袋も弟も食わないって事だよ。
まぁ、弟に関しては分からんでもないよ。
毎日毎日イクラ食えって言われても飽きるよな。
ただし、お袋さんよ。
てめーは駄目だ。
「もう年だし、塩分には気を付けないと」
って、なんだよそれ。
ふっざけんなよ!
それでいて、御同類の気を付けなきゃいけなさそうな連中にゃ、イクラを配ってるとか意味わからん。
自分が食わない物をこんなに大量に買うんじゃねぇっての。
しかもだ。
イクラにコスト掛け過ぎた所為で、給料日前の食事がメッチャ切ない事になってるじゃんよ。
白米、糊、漬物、この三品だけ。
晩飯でこれってどうなんだ?
え?
私はごはんとお漬物があればそれで良いだと?
あんたはそれで良くても、俺は良くないんだよ!
肉体労働者の食欲を舐めんな!
1日3500~4000キロカロリー必要なんだよ!
栄養バランスも考えたいんだよ!
っと、見苦しいところを見せちゃったか。
愚痴ってみても、現状は何も変わりゃしないんだけどさ。
それでも。
それでも、愚痴らずには居られなかったんだよぉぉ!
だが、このイクライフもあと少しだ。
何故なら、もうすぐ糊の処理が終わるから!
そんな希望が見え始めたある日の事。
疲れた体を引きずるように帰宅した俺。
そんな俺の目に飛び込んで来たのは。
冷蔵庫の中央にて圧倒的な存在感を放ちつつも、鎮座しておられる特大の箱。
しかも二つ。
Q デジャビュですか?
A NO! NO! NO! NO!
Q もしかしてイクラさんですかぁ?
A Exactly
まさかのイクラさんの再臨である。
ちょっと待って。
何これ?
おい、お袋さんよ。
これは一体全体どういう事だ?
え?
美味しそうに食べてたから、もう一度注文してみた?
あほかああああああああああああ!
好きで食ってた訳じゃねぇよ!
いや、イクラは好きだけどな!?
それにしても、限度ってもんがあるだろ!
それぐらい分かれよ!
こうなりゃヤケクソだ!
最後はテンション上げて行くぞ!
それでは皆さん、御唱和お願いまっす!
せーのっ!
俺達のイクライフはこれからだ!!!!
2016年11月12日現在、絶賛イクライフ中でございますよっと。




