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幸せな日々

 スクスクとリリーは育ってきて、いつの間にか二歳になっていた。

 まだ少し舌足らずなところがあるけれど、元気に喋り、家の中をところ狭しと駆け回れるようになった。


「おちちょぉー!」


 てくてくと短い足でリリーがやってきて、私のお腹にダイブする。それを受け止めて、優しく抱き上げる。


 最近、私が暇つぶしにフェリクスに攻撃魔法や、結界魔法を教えすぎたせいで、彼女は私のことを「お姉ちゃん」ではなく「お師匠」と呼ぶようになってしまったのだ。


「リリー、どうしたのぉ?何かあったのぉ?」


 小さなほっぺを擦り寄せられ、私の理性は限界までデレデレに溶かされる。

 これがもし私が中身も外見も男性だったら、かなり危ない状況になっていたに違いない。


「リーも、まおー、ちたーい!」


「そっかそっか、いいよぉ。お師匠様が最高の魔法を教え込んであげるからね!」


 私がデレデレに頭を撫でていると、いつの間にか背後にニッコニコ…というよりは、目が笑っていない笑顔のクララが立っていた。


「……ねぇ、リナ。二歳から魔法教育を開始するなんて、世間一般的にどうかしら?」


 背中からひたひたと伝わってくる、尋常ではない圧力。


…あ、これ、今の私の立場だと確実に『教育方針を巡る家庭内裁判』が開かれるやつだ。


「じょ、冗談っ…!」


 声が裏返った情けない返事をしてしまった私を、クララはふっと目尻を下げて見つめた。先ほどまでの氷点下の冷気はどこへやら、いつもの女神のような優しい微笑みがそこにはある。


…恐ろしい。怒鳴るよりも、こうして『母としての慈愛』で包み込まれる方が、魔獣を相手にするより数倍手強い。


「…分かればよろしい」


 リリーは納得がいかないのか、頬をリスのように膨らませた。


「もー!リー、パパ、まねっこ、ちゅるー!」


 言うが早いか、リリーが拙い手つきで魔法術式を構築し始めた。

 未完成とはいえ、放っておけば家や森が火の海になりかねない。

 私はその光る術式を、指先でピン、と弾いて霧散させた。


「こーら。火事になるから、勝手に使っちゃダメだよ。六歳になった教えてあげるから」


 リリーの顔がぱぁっと明るくなり、はしゃぎ始める。


「ほんとー?うちょ、めっだよ?おちちょー!やくちょく!」


「…ずっと思ってたんだけどさ、『お師匠』はやめてってば。『ねえーね』だよ?」


 結局、私の切実な呟きは、元気なリリーの歓声にかき消されてしまった。


…まあ、四歳も待てば、『お師匠』から『ねえね』に昇格できるだろう。…たぶん。いや、絶対だ。…ああ、今日の夜ごはんはリリーの大好物を作ってあげよう!


 こうして、私の「お師匠」返上作戦は、今日も今日とて無残に敗北したのだった。



 今日は私が料理の腕を振るうと宣言し、意気揚々と包丁を握った。

 リリーが喉に詰まらせないよう野菜を極限まで細かく刻み、あの独特の青臭さを消すために特製ドレッシングをたっぷり回しかける。


…だが、ドレッシングで誤魔化そうが何だろうが、あのお嬢様は頑固だ。一口食べては「にぎゃっ…」と顔をしかめ、結局食べてくれない。


 次に、ハムを繊細な手つきで薔薇の形に巻き上げ、お皿の上に華やかな花束を咲かせた。

 見た目で釣ろうという作戦だ。これなら食べる率が上がる、はず!

 …が、現実は甘くない。一口食べてはポイ、また一口食べてはポイ。

 結局、残された花束の残骸は、全て私の胃の中に収まることになる。…いいんだ、リリーが一口でも食べてくれたなら、それで十分なんだから。


「はぁ…」


 私は小さく溜息を吐いて、コンロに二つの鍋を並べた。

 大人の舌に合わせた料理をそのまま与えるわけにはいかない。とはいえ、違う料理を出すとリリーはすぐさま「リーも、パパ、ママ、おちちょーと一緒のがいい!」と拗ねてしまうのだ。

 仕方ないので、味を限界まで薄め、脂質も最低限までカットした「幼児用特製レシピ」を錬成するしかない。


「…よし、これならリリーの胃にも優しいはず」


 二つの鍋を交互に火加減を調整していると、キッチンの入り口からトコトコと足音が聞こえてきた。


「リー、おなか、ちゅいたー!」


「もうすぐできるから、ちょっとだけ待っててね」


 優しく声をかけたその時、視界の端に信じられない光景が飛び込んできた。…リリーがキッチンの近くに座っていたフェリクスの膝の上に乗り、甘えている!


 その瞬間、私の手の中のお玉が「ギギギ」と悲鳴を上げた。


「……っ!?」


 ハッとして鍋の中を見ると、シチューが沸騰を通り越して魔術的な光を放ち始めている。危ない危ない、今の感情が魔法に混ざるところだった。


…深呼吸、深呼吸。…そうだよ、私はリリーの姉として、この光景を見守るの。リリーの実の父に嫉妬なんて、そんな大人げない真似はしない。私は慈愛に満ちた、最高のお姉さんなんだから…!


 ふと、脳裏に遠い記憶が過った。

 エルフの国で王女として過ごした、あの日々。私を「お姉様」と呼び、無邪気に慕ってくれた双子の妹達。

 …結局、私は彼女達に嫌われてしまった。あの時の私の言動さえ違っていれば、あるいはもっと素直になれていれば。今でも仲良く笑い合えていたのだろうか。


 思考が澱みそうになり、私は小さく頭を振ってその重たい感情を振り払う。

 今はそんなことを考えている場合じゃない。目の前のシチューを焦がしては、リリーの楽しみが減ってしまうのだから。


「リリー!できたよぉ!」


 ダイニングテーブルに、愛情を込めて作ったシチューと色とりどりのサラダを並べる。


「これ、ヤー!」


 リリーがサラダを指さして、ぷくっと頬を膨らませた。野菜が大嫌いなリリーにとって、それはまさに『緑の悪魔』に対する宣戦布告だ。

 文句を言うその姿すら天使のように愛くるしいけれど…視線を横にずらせば、クララがもの言いたげな表情でこちらを見つめている。


…ひっ。その静かな圧は、どんな攻撃魔法よりも胃にくる。


「リリー、ちゃんと食べないと大きくなれないよ?」


 フェリクスが優しく諭すが、リリーは顔を背けて頑なにサラダを拒否する。二人で困り果てていると、背後からクララの冷ややかな声が降ってきた。


「魔法って体力勝負って聞いたわ。好き嫌いばかりしている子が、そんな高尚な道を志せるのかしら…?」


「…クララ、それは言い過ぎだよ。リリーはまだ二歳だし、これから少しずつ食べられるようになればいいんだから」


 私は強がって言い返したが、クララは肩をすくめてサラダの皿を見下ろすだけだった。


「まぁ、まぁ。リリー、魔法をたくさん使いたかったら、お野菜もいっぱい食べなきゃね?」


 フェリクスが優しく諭す。色々とツッコミたいところは山ほどあったが、その場を支配するフェリクスの穏やかで、かつ有無を言わせない貴族特有の空気に押され、私はグッと黙り込むしかなかった。


…貴族恐るべし。


 ふとした瞬間に漂う、あの洗練された佇まい。それが彼の言う「貴族出身」という言葉の裏付けなのかもしれない。


「ひとくちぃだけ!」


 リリーが精一杯の勇気を見せると、フェリクスは破顔し、クララも穏やかに目尻を下げる。


…あぁ。この光景、いつまでも消えないでほしいな。この和やかな時間は、私にとって何よりも守り抜きたい宝物だから。

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