第65話 大統領が直々に差し金を送って私を見張るなんて、一体どういうことだよ?
デレオのアパートの前に立ったとき、
チェラーレの表情は
どこか複雑なものに変わっていた。
彼女の指先がそっとドア枠をなぞる。
まるで、
そこに染みついた
記憶をたぐり寄せるように。
「知ってる?
少し前の朝ね、
ここに一人のバカな女の子が立ってたの。
手にはマスターキーを持ったまま、
一時間もドアの前でうだうだして、
結局開けられなかったのよ。」
チェラーレはカシヤを見て、
かすかに苦笑する。
「――ドアを開けたら、
見たくないものを
見ちゃうんじゃないかって、
怖かったんでしょ?」
「ひっ!」
カシヤが思わず声を上げる。
図星を刺されたみたいに両手で顔を覆い、
あたふたと首を振った。
「ど、どうしてそれを……!?」
「カシヤ、あんた警戒心なさすぎ。
あのとき、私はね……」
チェラーレはひょいと手を上げ、
階段の踊り場の暗がりを指さした。
そこは光がほとんど差し込まず、
身を隠すにはうってつけの場所だった。
「チェラーレ、そのときにはもう、
俺がここに住んでるって知ってたのか!」
デレオが思わず口を挟む。
驚きと、
少し居心地の悪さが混じった声だった。
「ち、ちがっ……その……」
チェラーレの頬が一気に真っ赤になる。
舌がもつれたように言葉が出てこず、
視線は泳ぎっぱなし。
いつもの冷静さはどこかへ消えていた。
「チェラちゃんって呼んで!」
カシヤがちょっと
むくれたようにデレオを小突いた。
「あなた、
私たちよりずっと
前から彼女のこと知ってるんだからね?」
「えぇ~……
なんでそこで話そらすんだよ。」
デレオはわざとらしく声を伸ばし、
肩をすくめて見せる。
「いいじゃない。
私たちはチェラちゃん、
ペスちゃん、シヤちゃん……」
アペスが楽しそうに続ける。
「それからアビちゃんとシミちゃん。」
アビスウズが指折り数えながら付け足す。
「ボクはアレちゃん!」
アレカも負けじと名乗りを上げ、
目をきらきらさせる。
「そして、あなたはディディちゃん!」
アビスウズが挑発するように眉を上げ、
指先でデレオの胸をつんとつついた。
「はいはい、わかったよ。
四対一じゃ勝てないし、
もう好きに呼べ。」
デレオは両手を上げて降参ポーズを取る。
「五対一だにゃ!」
アレカが変な顔をして見せた。
五人と一つの箱は、
ぞろぞろとデレオの
狭いアパートへ入っていく。
デレオは
客を招くなんて想像したこともなかった。
部屋にあるのは椅子が一脚、
小さなテーブルが一つ、
そしてベッドが一つだけ。
デレオは部屋に入るなり、
そのベッドへどさっと倒れ込む。
その隣にカシヤが
ちょこんと腰を下ろした。
アレカは部屋の中を跳ね回り、
アビスウズは椅子に腰掛ける。
チェラーレはテーブルに片肘をつき、
アペスは遠慮なく床に直接座った。
ようやく空気が和らいできて、
チェラーレの肩から
も少し力が抜けたのか、
さっきよりもずいぶん柔らかい
声で口を開いた。
「――あの夜からね。
あなたのアパートの周りで、
少なくとも三つの別々の勢力の斥候が、
交代で張り込むようになったの。」
チェラーレは小声で続ける。
「すぐ近くに住んでる知り合いが、
連絡をくれたのよ。
本当のところを言うと、
カシヤが
ここに出入りするようになってから、
その連中は一度も
このエリアから完全には引き上げてない。
でね、今はさらに厄介。
新顔のグループが、もう一組増えてる。」
「そりゃそうだろうさ。
きっと、
あんたのじいさんの手の者もいれば、
政界であんたのじいさんと敵対してる連中、
それに帝国のスパイ
まで紛れ込んでるかもしれない……」
デレオは眉間に皺を寄せ、カシヤを見る。
「それにきっと、
禁衛軍の連中も混ざってるわね……。」
アペスは
兄の顔を思い浮かべながら言った。
あの男のやり方はよく知っている。
「たぶん、
大統領派の調査官もいると思う。」
カシヤが重々しく付け足す。
「大統領?」
デレオは首を傾げる。
「王畿学院のあの特殊研究チームの予算、
あれね、立法部をすっ飛ばして、
大統領が“緊急行政命令”で直接通したものなの。」
カシヤの表情は真剣そのものだった。
「ってことは、『九宮盤』ってやつは、
大統領が直々に監視要員を
張り付かせるほどの代物ってわけか。
……どうやら、
俺たちが思ってる以上に
面倒なブツらしいな。」
デレオは大きく息を吐き、
あきれたように肩を落とした。
ちょうどそのとき、
窓の外を車が一台、
轟音を立てて通り過ぎる。
全員の視線が反射的に窓へ向き、
胸の奥を小さな緊張が掠めていった。
「……ま、いいさ。」
デレオはぱん、
と手を打って空気を切り替え、
あえて軽い口調で言った。
「タダでガードマンを雇ったと思えばいい。
あれだけの目が周りを見張ってるんだ、
ちょっとやそっとの泥棒は、
ここまで近づけやしないさ。」
チェラーレはデレオをじろりと睨んだが、
その声に混じる響きは、
苦笑に近いものだった。
「よくそんな呑気なことが言えるわね。
もし私にあんたほどの図太さがあったら、
不眠なんて
一生縁がなかったでしょうね。」
デレオは肩をすくめ、
無理やり笑みを作る。
「どうせ俺なんて、
一介のしがない庶民だよ。
わざわざ張り込んで覗き見する
ほどの価値なんて、どこにもないさ。」
窓から視線を戻しながら、
アビスウズがからかうように言う。
「ディディは
自分をそう思ってるかもしれないけどね。
あんたの周りに集まってる人たちは、
一人残らず新聞の一面トップを飾れる
レベルの“お騒がせ物件”なんだから。」
ふっと、場の空気が静まり返った。
窓の外では、
さっきと変わらず車と人のざわめきが、
いつも通りの日常を続けている。
アペスが小さくぼやく。
「……もういいや。
とりあえず、お腹すいた。
さっき結構いろいろ買い込んだじゃん?
そろそろ出番でしょ。」
デレオはてっきり、
この四人なら誰もがキッチンを
完全掌握したがるタイプだと思っていた。
だが、フタを開けてみれば、
彼女たちは台所を争うどころか、
楽しげな遊園地みたいにしてしまった。
鍋やフライパンの鳴る音、
誰かの笑い声、ちょっとした口げんか。
新鮮な野菜とスパイスの
匂いが混じり合い、
狭いキッチンを満たしていく。
デレオは自分の料理の腕前に
はそこそこ自信があったが、
この光景を前にすると、
静かに隅っこへ退くしかなかった。
彼女たちはそれぞれ“持ち場”を確保する。
チェラーレは包丁担当。
ニンジンを薄く、
均一な厚みでスライスしていく。
相手が人間じゃなくても、
彼女の刃は容赦がない。
アペスはソース作りに没頭している。
土鍋の中で謎めいた
クリームソースをかき回しながら、
何かをぶつぶつと呟いていた。
カシヤはてきぱきと肉を切り分け、
ときどき調味料のビンに手を伸ばしては、
感覚だけでぱっぱと振りかける。
『好きにやらせておこう。
俺は楽して見てるとするか。』
そう考えた瞬間、
キャベツの玉がひとつ、
デレオの頭にごつんと命中した。
「野菜洗って!」
アビスウズがためらいなく命令する。
デレオは観念してキャベツを抱え、
シンクへ向かった。
だが、水道の前はすでに満員御礼で、
カシヤとアビスウズがぎゅうぎゅう
押し合っている。
「ここはもういっぱいだから、
ごめんね、トイレで洗ってきて?」
カシヤが申し訳なさそうに言い足した。
一人で食事をするとき、
デレオのメニューはいつも雑で、
カップ麺か、そこらのサンドイッチ
一つで済ませてしまう。
だが、人数が増えると――
テーブルの上は一気に
色とりどりのごちそうで埋め尽くされた。
食後のフルーツもまた豪華だ。
一人一個なら十分なはずの量が、
まとめて切って盛りつけられると、
大皿いっぱいのフルーツプレートになる。
ぶどう、キウイ、リンゴ、オレンジ――
色も形も違う果物たちが、
ところ狭しと並べられていた。
食べ終わり、片付けもひと段落ついても、
皆はまだテーブルの周りに残って、
小声でおしゃべりを続けていた。
「……この部屋とも、そろそろお別れか。」
デレオは窓の外を見やる。
そこに広がるのは、
どこにでもあるような、
ごく普通の街の景色。
それなのに、
その声にはほんの少しだけ、
名残惜しさがにじんでいた。
「ここの荷物は、全部ボクに任せて。」
アレカがぱん、と手を叩き、
視界に入ったものをごそっとまとめて
箱の中に放り込んでいく。
「もったいないくらいね。
こんなに素敵な食事、
そうそう味わえないのに。」
アペスは名残惜しそうに
調理道具へ指先を滑らせ、
鍋の縁に沿ってそっと撫でるように
触れる。
その口元には、
柔らかな笑みが浮かんでいた。
「大丈夫だよ。
もっと広い家に引っ越すんだから、
これからいくらでも
素敵な思い出を増やせるさ。」
カシヤは大きく伸びをしながら言うと、
残ったフルーツを
小分け用の容器に詰め始めた。
「それに――シミリスも一緒にね。」
アビスウズが
みんなに念を押すように言う。
そう言いながら、アレカの箱に、
デレオの部屋に残っていた
細々したものをさらに詰め込んでいく。
「よし、行こうか。」
チェラーレは
包丁を一本一本きちんと拭いて鞘に収め、
最後にテーブルの上を見回し、
拭き残しがないか確認した。
「うん。」
デレオは力強く頷く。
「目標、召喚塔林!」
ちょうどそのとき、
チェラーレが手を上げて合図する。
「シッ」という仕草で、
全員に黙るよう促した。
彼女はそっと窓辺へ歩み寄り、
カーテンの端を指でつまんで、
わずかにめくる。
「下にいる。」
押し殺した声で告げる。
「三人。うち一人は見覚えがある顔。」
デレオも窓際に身を寄せ、
そっと外をのぞく。
私服姿の男たちが数人、
ビルの下で立ち話をしている。
ただの雑談に見えなくもないが、
視線が時々、彼の部屋の窓を鋭くなぞる。
「……どうやら、
引っ越し計画にひと手間加えないといけなくなったみたいだな。」
デレオは苦笑を浮かべた。
「裏口から出る?」
アペスが問う。
チェラーレは首を横に振る。
「裏口にもいる。
――別の方法を考えないとね。」




