第66話 局部悪魔化――都市から脱出し、召喚の塔林へ駆ける
「屋上に行こっ!」
アビスウズがそう言い終えたそのとき、
下の階から突然、
慌ただしい足音が響き上がってきた。
五人は一斉に上へ向かって駆け上がる。
「追いついてきてる!」
チェラーレの顔色が変わる。
階段の隙間から、
黒い影が
素早く駆け上がってくるのが見えた。
アビスウズは歯を食いしばる。
「間に合わないね、
思ってたより反応が早い。」
「他に手はないの?」
デレオが緊張した声で問う。
「あるよ。でも、かなり危ない。」
アビスウズは大きく息を吸い込む。
「みんな、
しっかりつかまって。
何が起きても、
絶対に手を離さないこと!」
「生命の伝道師メンデルよ、
進化の結果に属さぬ肉体を、
どうか私にお与えください。
私に一対の悪魔の巨大な翼を授けてくれ。
夢を掘り霊媒フロイトよ、
我が精神を守りたまえ。
心が肉体と共に魔道へ堕ちぬように。」
アビスウズは小さな声で祈りを唱えた。
「局部悪魔化!」
その背中に黒い翼が現れる。
コウモリの翼膜のあいだから、
かすかな光がちらちらと瞬いた。
監視役たちが屋上へ飛び込んできた、
その瞬間――
アビスウズの黒翼が大きく広がり、
一同を抱えたまま屋上から身を躍らせる。
下からは怒号と、
立て続けの通信の声が響き上がってくる。
階下の便衣の男たちは、
呆然と空を見上げた。
彼らの視界に映ったときには、
すでに黒い影は屋根の列を飛び越え、
街の一角へと消えかけていた。
アビスウズは、幻術・霊術・呪術に
通じた悪魔締約者である。
彼女にとって悪魔を呼び、
その力を借りることは、
食べて寝るのと同じくらい当たり前の行為にすぎない。
* * *
それから三十分後。
召喚塔林へ向かう道の上で。
デレオは、
さっき買ったばかりの
中古ジープのハンドルを握っていた。
タイヤが砕けた砂利道を踏みしめるたび、
低い振動が車体を揺らす。
彼はハンドルを強く握りしめ、
前方に少しずつ輪郭を
現していく召喚塔林の姿を見つめながら、
複雑な思いを胸に抱いていた。
三年前も、こんな夕陽だった。
あのときが、
シミリスと会った最後の日だった。
あの頃の彼女は、
まだ笑っていた。
一体一体の召喚獣の、
叙事詩みたいな壮大な物語を、
楽しそうに語ってくれていた。
今――塔林の上空には雷雲が渦巻き、
さまざまな召喚獣たちが空で激突し合い、
まるで終末の光景のようになっている。
「……あいつ、
そこでいったい何してるんだよ。」
デレオがぽつりとつぶやく。
後部座席のチェラーレは
黙り込んだままだったが、
固く組んだ両手が、
その緊張を物語っていた。
この車は二十分ほど前、
近くの中古車屋で買ったばかりだ。
車体の側面には
前の持ち主のステッカーがまだ残っており、
車内には薄くオイルの匂いが漂っている。
今はもうナイトメアに乗ってはいない。
主な理由は、
アビスウズの魔力を少しでも節約するためだ。
このあとシミリスを
迎えに行くことになるが、
今回の再会が穏やかに済むのか、
それとも激しいものになるのかは誰にもわからない。
もし面倒な事態や予期せぬ戦闘になれば、
主力として頼れるのはアビスウズだけだ。
今のメンバーの中で、彼女が最強。
唯一、職業を第四階級まで昇格させている。
そういう場所に辿り着く者は、
先天的な才能がずば抜けているか、
あるいは数え切れない失敗とやり直しを経て、
常人には想像できない努力を払い続けてきた者だけだ。
そんなランクの冒険者は、
萬人に一人いればいいほうだろう。
アビスウズとシミリスは、
まさにその頂点に立つ存在だった。
「シミリスなら、
とっくに召喚士の資格も持ってる。
それなのに、
今さら塔林で何をしようっていうの?」
デレオの不安はどんどん大きくなっていく。
腰に下げた烈焔犬ランプが、
じわりと熱を帯び始めた。
シミリスは生まれつきの天才召喚師だ。
強力な精霊も、幻獣も、遠い昔の英雄も、神々でさえ、
軽々と呼び出して戦わせることができる。
冒険者ギルドの中で、
正面から彼女に喧嘩を売ろうとする者など、
ほとんどいない。
召喚塔林――
首都の外れにそびえ立つ、古い尖塔群。
それぞれの召喚塔には、
その塔ごとの塔主が棲んでいる。
銀白の巨鷲の姿を取る者もいれば、
荘厳な水晶竜の姿を取る者、
尽きることのない知恵をたたえた
古代精霊の姿を取る者もいる。
彼らはそれぞれの領域の召喚権を
司る存在であり、
数えきれない召喚者たちが
夢に見る試練の相手でもあった。
「シミリスは、
もうとっくに召喚塔林を踏破してる。
ここに来てるのは、
力を求めてるからじゃない。」
チェラーレが幽かな声で言う。
その視線は、遠くにぼんやりと浮かぶ灰色の尖塔の輪郭に向けられていた。
塔林の石段は、
歴代の召喚師たちが
何百年も踏みしめてきた跡で、
すっかり磨り減っている。
「力を『解き放つ場所』を探してるんだ。」
チェラーレはさらに小さく付け加える。
その声は、
夕闇の風のようにかすかだが、
はっきりと耳に届いた。
「彼女の悲しみも、怒りも――
全部、三年前、
あんたがあの子の想いを断った瞬間から始まってるんだよ。」




