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翌日、この時期には珍しく吹雪が止み、綺麗な透き通った青空と明るい日差しが現れた。
降り積もった雪の上では強い風に煽られ、ダイヤモンドダストが時折巻き上がり、幻想的な景色を見せる。
「わぁ、良い天気だねー。寒いのは好きじゃないけど、この景色は良いよね」
清々しい景色を窓辺に立って眺めていたネストは、首だけをぐるりと一八〇度動かして背後に頭を向け、テーブルに渋い顔をして座っているヴァンを見る。
「何でそんなに寝不足な顔しているの、君は。あれから、シズちゃんと仲直りしたでしょ?」
聴覚に優れるネストは、昨日の顛末までしっかりと意図せずとも聞きとっていた。
それをヴァンも知っている。
「しかも、夜は一緒のベッドで寝るとか言っていたじゃないか」
「俺じゃねえ、シズが言ったんだ」
獣形になったヴァンと一緒に寝たいと強請るシズに寄り添い、ヴァンは一晩中、理性と食事欲求のせめぎ合いを続けて、ほとんど寝ていない。
無邪気に全幅の信頼を寄せて来るシズを可愛いと思う反面、シズにはもう少し、餌としての危機意識を自覚してほしいとも思う。
シズの申し出を断れば済む問題だが、それが出来ないのがヴァンだ。
シズを一人で寝かせて、ネストにまた泣かされるような事態もないとは言えない。そして、最近はあまり一緒に寝て欲しいと言わなくなったシズからの、久しぶりの添い寝のおねだりだ。
どうあがいても、シズに甘めなヴァンはシズと一緒に寝ることを選択していただろう。
後悔はしていないが、辛い。それがヴァンの本音だ。
「あ、あれか。さては君、昨日の夜、ついにシズちゃん食べちゃったの?あ、性的な方で」
「そっちの方がましだ」
ヴァンはぐったりと机に突っ伏した。
もう、ネストのからかいに反応する元気もない。
夜、ヴァンの部屋には音を遮断する術がかけられたので、ネストの素晴らしい聴覚を以てしても聞きとることは出来ない仕様になっていたし、ネストも一応、友人のプライバシーには配慮して無理矢理聞き耳を立てることはしなかった。
「…どうしたの、本当に」
「お前のせいで疲れた。早く帰れ」
「やだなぁ。わざわざ僕が嫌われ役をして、君が本音をシズちゃんへ言えるようにしたのに」
「余計な世話だ。お前はさっさと帰って、婚約者の機嫌でもとってろ」
「アレは候補。というか、僕、健気なシズちゃん気に入っちゃったんだよねー。お嫁さんに頂戴?」
「やるか。俺のだ」
「そう?僕ってかなり優良物件だよ?侯爵家の三男だから家督継がなくても良いし、それなりに実家の権力とコネ使い放題。諜報部の部下たちの力をフル活用して、面倒そうな悪魔たちの弱みも握っているから、シズちゃんの良い盾になれると思うよ?」
家を捨て身一つで傭兵稼業をするヴァンとは違い、中央権力の中枢に身を置いて、諜報部で若いながらもナンバー2として君臨するネストの持つ権力は、シズを守るためにはとても魅力的なものだ。
だが、ヴァンの答えは決まっている。
「やらん」
「それなら僕が入り婿になるからさぁ、いいだろう?お義父上殿」
「誰が父親だ。しかも、お前が義息とか絶対断る」
「つれないなぁ」
顔だけを残して、器用に身体をヴァンの方に向けたネストは、ヴァンの腰掛けている机の正面の席に腰を下ろす。
「まあ、こっそりシズちゃんに自分の魔力与えて、彼女の身体を人から魔族に作り変えている最中の君には、僕の力は必要ないよね」
「昨日、お前がその力を消し去ってくれたがな」
「流石に守護術の方を破ったら、君に拳で殴られそうだもの。それに、シズちゃんの成長が遅れて困るのは君だろ?なのに、また力与えちゃったんだね」
扉を隔てた厨房にいるシズを思って、扉にネストは視線を送る。
人間である彼女は、ここの食物連鎖のヒエラルキーでは最下層だ。ヴァンの所有物だと言う印があっても危険だから、ヴァンはシズと共に、この辺境の地に隠れるように住んでいる。
魔族に作り替えれば肉体もそこそこ丈夫になり、二つ名を持つヴァンが剣技を仕込んでいるから、街で暮らしても、まあ、危険はあるが暮らす事も出来るのだ。
ただし、魔族になれば寿命が延び、成長速度も緩やかにしか進まなくなる。だから、この五年間のシズの成長は、豊かな食事をとり健康な生活を送っているにもかかわらず、人としては異常に遅れていたのだ。
それを分かっていて、ネストはヴァンのその術だけをこっそり破ったのだ。
慌てずとも、シズの成長を待ってから魔族化をしても遅くはないのだからとネストは考えたが、ヴァンはそれを善しとはしない様だった。
「ペドフィリアの変態、って昨日の君の言葉、そのまま君に返しておくよ」
「御稚児趣味はない」
「そう?僕とシズちゃんが、仲良くするのも気に食わなさそうに見て邪魔したし、せっかくシズちゃんにマーキングで付けた僕の匂いもさっさと上書きしちゃうくらい嫉妬してたくせに?」
「知らんな」
「認めないならそれでも良いけど、傍から見ると君とシズちゃんは、大男と小さな女の子だからね。それがイチャイチャしたら、誰でもそう思うよ?」
「っ!誰がイチャイチャした!」
「え、自覚ないの?砂糖吐けるくらいの雰囲気で、プロポーズまがいの台詞はいてシズちゃんにデレてた癖に?」
「そんな台詞は言ってない」
「『寿命全うするまで、俺の傍にいて俺の世話をしろ』なんて、まんまそれじゃないか。自覚なしで言っていたなら、これを機にしっかり自覚した方が良いよ?」
途端に、ヴァンの尻尾と全身の毛が逆立ち、威嚇モードでネストを睨む。
「シズちゃんだって、『大好き』とか『ずっと傍に置いてください』って、OKしていたし。相思相愛じゃないか」
「曲解するな!」
「確かに、シズちゃんはまだ恋愛ってよりは、親愛の情だよね」
「当たり前だ」
身体を魔力で作り変えている影響か、シズの精神年齢は身体と一緒であまり成長していない。
大人びたことを言ってみても、どこかまだ幼くてヴァンには手のかかる子供という気持ちしかない。
「なのに、シズちゃんの可愛いプルプルの唇舐めて小さなお口の中貪りたそうな野獣が傍にいて、大変だねシズちゃんは」
「お、おま、見てたのか!?」
「うん、見るに決まっているよね?こんなに楽しいこと」
しかも、聞き耳だけかと思えば、ばっちり覗き見していたらしい親友に、ヴァンは恥ずかし過ぎて顔から火が出るかと思った。
「あ、あれは食欲的な意味だぞ」
「ふふっ。食べてしまいたいほど愛しいなんて、末期的な愛だよ?シズちゃんの身体に尻尾絡ませてるし、餌は甲斐甲斐しく運んでいるみたいだし、まんま求愛行為だよ。諦めて認めたら?」
ヴァンが何を言っても、ネストは悉くそれを潰す。
あまり自覚していなかったことを、どんどんと突きつけて来る相手に、ヴァンの意思が揺らぎ、確かにネストの言葉が自分の胸にしっくりくる自分に、ヴァンは片手で頭を抱えた。
「…マジでか?」
「遅い初恋おめでとう、ヴァン」
祝福とも呪いとも取れる言葉に、急激に自分の感情を自覚したヴァンは、慌ててその場から立ち上がる。
あれは俺じゃない。あんな抱きしめて撫でまわして、独占欲丸出しの言葉を吐いた恥ずかしい真似をしでかして、シズにどう顔を合わせれば良い!?
そう頭の中でヴァンは自問していたが、既に朝、同じベッドで目覚めて何事もなく、いつも通りのおはようの挨拶も済ませている。
平静を装えば良いものを、混乱したヴァンは目覚めた時の事など、綺麗に脳裏から消し飛んでしまっていた。
今シズの顔を見て、ヴァンは冷静でいられる自信がなかった。恥ずかしさで全身から炎を吹いて床に丸まってしまいそうで、それどころではない。
「お待たせしました、お食事でき…って、師匠!?どちらへ!?」
厨房の扉が開いた音と共に、ビクッと震えたヴァンは駆けだして広い窓の前まで来ると、窓を観音開きに開いて、窓枠に脚をかけてのりあげ、そのまま外に飛び出して駆けていく。
突然の行動に、シズは食事を乗せた大きな盆を抱えたまま、雪の中へ小さく消えていく主の後ろ姿と、食事を交互に見る。
「せっかく、ごはん出来たのに…」
それを見たネストが、机に突っ伏して、手で机をたたいて爆笑する。
友人のこんなに動揺する姿を見る日が来るとは、ネストは思わなかった。
彼はきっとシズといて幸せなのだと実感して、喜ばしさで胸が温かくなる。が、それ以上に、敵前逃亡した事のないヴァンの見事な逃げっぷりに笑いが止まらならない。
「あはははははははっ、駄目っ、お腹いたっ」
「…アンドラス様、今度は師匠ですか?」
ネストが自分の主をからかっているのだと悟ったシズは困り顔で、満足そうなネストに頼む。
「ごめんね、シズちゃん。君がお嫁に欲しいってお願いして振られちゃったから、ちょっと腹いせしたの」
「駄目です。私は師匠だけのものですから、どなたの所にもいきません」
「おやおや、君はヴァンが大好きなんだね」
食事をテーブルに置くシズに、ネストがからかえば、シズははにかむ様に笑う。
綻んだその嬉しそうな表情が、シズの心のすべてを物語る。
あぁ、これは蕾が綻んで花になる日も近いなと気付いたネストは、近年まれに見る浮足立った高揚感を覚えた。
「そうかい。ヴァンに嫌なことされたら、僕に言うんだよ。仕返ししてあげるから」
「…それで、私も一緒にいじめるんですよね?昨日のように」
「良く分かってるね。僕、大好きな子は苛める性質なんだ」
「アンドラス様は時々、意地悪ですね…今度は騙されませんから」
「おや、僕に対抗しようと言うのかい?嬉しいね。本当に、君をこのまま連れて帰りたいよ…その前に、君が作ってくれた美味しい食事が冷めないうちに、ヴァンを呼び戻さないとね」
ネストは、また首をぐるっと180度回転させ、窓の外の相手に声をかける。
「ヴァーーーーンッ!早く戻ってこないと、シズちゃん連れて帰るよーーーーーっ!?」
次の瞬間、遠くから雪煙を上げて何かか、猛スピードでこちらに向かってくる。
「だれがやるかぁぁぁぁぁっ!」
血相を変えたヴァンが叫ぶその声に、首を戻したネストとシズは顔を見合せて笑う。
かなり吹っ切れた友と、意外と大人な小さな少女が、長くこうして暮らせればいいとネストは思いながら、幸せな二人をこれからどうやって邪魔して困らせてやろうと、悪魔らしい事をウキウキと考えて窓の外にいるヴァンを眺める。
シズは、友人が来るといつもより多弁で気安くなり、雪の中でも元気に動き回るようになる主を見て、ちょっぴり、彼と仲の良いネストに嫉妬してしまう。
ヴァンは勢い良く部屋に飛び込んでは来たものの、シズの顔を見るなり気恥ずかしさで思わず獣型になってしまう。そして、床に突っ伏して耳をへにょりと曲げ、尻尾を垂らしながら顔と片手で覆い、身体をプルプルさせてしまう。
そんな主に首をかしげたシズだが、あることに気付いてヴァンの前まで進み出た。その場に屈んで雪まみれの彼の身体を撫でれば、想像した通りに冷え切っていた。
「師匠、コートも着ないで外に出たから、身体が冷えたんですね。それならここより暖炉の前の方が温かいですよ?」
「お、おぉ。そうする」
身体の冷えのお蔭で、羞恥に打ち震えていたことを誤魔化す事が出来たヴァンは、身を震わせて毛にこびりついた雪を振り払い、そのまま暖炉の方へ歩いて行き定位置で腰をおろして暖をとる。
いったん場を離れたシズは、膝かけを持って戻ってくると、ヴァンの身体にそっとかける。
「師匠、ホットワイン入れましょうか?」
その心遣いに、ヴァンは何とも言えない胸の温かみを感じて、顔を上げて直ぐ近くにあったシズの顔をぺろりと舐める。
「大丈夫だ。ありがとな」
それだけ言ってヴァンは頭を伏せて眼を閉じた。内心、心臓はバクバクして爆ぜそうなことを隠して。
初めて聞くヴァンの感謝の言葉に、思わずシズの頬が赤くなる。
嬉しくて、嬉しくて、その気持ちを表現するように、膝かけの上からヴァンにぎゅっと抱きつく。
「師匠、大好きです」
「そんな事は知ってる」
素気無く言いながらも、ヴァンの尻尾が嬉しそうに揺れているのに気付いたのは、離れた場所で二人を見ていたネストだけだった。
「はい。でも、言いたかったんです!」
「変な奴だな」
今がとても幸せだとシズはヴァンに向けて全身で表現し、 ひしっと抱きつく少女にヴァンは口元を緩めて素知らぬふりでされるがままだった。
彼も、今がとても幸せだった。
END
お読み頂きありがとうございました。