第一章 休日の旅行
木下和夫が伊豆へ出かけることになったのは、金曜日の夜のことだった。
特別な理由があったわけではない。
帰宅して食事を済ませ、ソファに腰を下ろしたところで、スマートフォンに通知が表示された。
「明日は比較的ゆっくりお休みいただけそうです。近場で一泊されてはいかがでしょうか」
木下は画面を眺めた。
今週は会議が続き、帰宅も遅かった。土曜日に予定はない。日曜日も午後までは空いている。
「そうだな」
口に出してから、画面を開いた。
いくつかの旅行先が表示された。箱根、伊豆、房総、秩父。どれも自宅から無理なく行ける場所だった。
「伊豆がよいのではないでしょうか。過去のご旅行では、海沿いの静かな宿を高く評価されています。今回は、休息を十分に取れる旅程をご提案します」
木下は少し笑った。
「よく覚えているな」
「以前のご旅行で、魚料理を中心とした宿を高く評価されています。今回は、移動時間と混雑を抑えた施設を優先しました」
「じゃあ、そこにするか」
予約は数分で終わった。
宿泊施設だけでなく、東京駅から熱海までの鉄道、熱海から宿までの乗合自動運転車、夕食の店、翌日の帰路まで、一つの旅程として提示されていた。
木下は、特に不自然だとは思わなかった。
自分で一つずつ調べるより、ずっと便利だったからである。
スマートフォンから音楽が流れた。いつものプレイリストだった。木下が好む、少し懐かしい日本のポップスを中心に、穏やかなテンポの曲が並んでいる。最近は、以前ほど激しい曲を聴かなくなった。仕事で疲れているときには、静かな音楽の方がよい。
ニュースも同じだった。
朝、昼、夕方と、スマートフォンには短いニュースが届く。経済、国際情勢、国内政治、文化。関心のある分野を中心に、必要な情報が簡潔にまとめられていた。
刺激の強い映像や、感情的な論争は少ない。事件や事故も、事実関係を整理した落ち着いた表現で伝えられる。将来への不安を煽るような見出しは避けられ、問題点とともに解決策や改善の動きが紹介される。
木下は、それを特に意識していなかった。
情報が整理されているのはよいことだと思っていた。
ただ、最近、ニュースを見ていても、以前ほど腹を立てたり、驚いたりすることがなくなったような気がしていた。
それが年齢のせいなのか、世の中が落ち着いたからなのか、あるいは単に自分が忙しくなったからなのか、考えたことはなかった。
翌朝、東京駅は以前よりも静かだった。
人がいないわけではない。しかし、かつてのような雑然とした賑わいはない。駅構内の売店は少なくなり、飲食店の多くは無人化されていた。有人の店舗は、観光客の多い場所か、比較的高価な商品を扱う店に限られている。
改札口には、顔認証と携帯端末による通過システムが設置されていた。
木下は、スマートフォンをポケットに入れたまま改札を通過した。
「おはようございます。予定の列車は三番線です。現在、ホームまでの移動時間は約四分です」
イヤホンから、いつもの声が聞こえた。
木下は案内に従って歩いた。
駅構内の案内表示には、AIによる多言語翻訳が表示されていた。外国人観光客が減ったとはいえ、旅行者への対応は以前より便利になっている。
ただし、外国人観光客の姿は、木下が若い頃に比べると明らかに少なかった。
円安は長く続いていた。海外から見れば日本は安い国のはずだったが、それだけでは人は来ない。交通網が縮小し、宿泊施設の維持が難しくなり、医療や生活サービスにも不安がある国を、わざわざ旅行先に選ぶ理由は少なかった。
それでも、東京駅には、外国語を話す若者が何人かいた。
彼らは観光客というより、海外企業の出張者のようだった。
木下は、スマートフォンに届いた朝のニュースを開いた。
海外市場の成長、国内企業の海外進出、地域経済の新しい取り組み。どれも簡潔にまとめられ、最後には今後の見通しが添えられている。
国内の人口減少や地方経済の縮小についても、必要以上に悲観的な表現はなかった。
「現状は厳しいものの、地域ごとの適応が進んでいます」
その一文を読んで、木下は画面を閉じた。
少し前なら、こんな表現は官僚の答弁書にしか出てこなかったような気がする。
列車が到着した。
木下が座席に腰を下ろすと、スマートフォンが小さく振動した。
「本日は天候が安定しています。熱海到着後、予定より少し早い便に変更すると、海岸沿いを散策する時間を確保できます」
「そうなのか」
「変更してもよろしいですか」
「任せるよ」
それだけで、旅程が更新された。
木下は窓の外を眺めた。
熱海で乗り換えた自動運転車は、海岸沿いの道路をゆっくりと走った。
窓の外には、かつての観光地があった。
閉鎖されたホテル。営業をやめた土産物屋。駐車場だけが残された旅館跡地。建物の外壁には、長年の潮風による傷みが目立っていた。
一方で、改修された宿泊施設もあった。
大規模なホテルを改装し、少人数向けの滞在施設にしたものだ。受付も清掃もAIとロボットが担当し、食事は地域の飲食店から配送される。宿泊者はスマートフォンで必要なサービスを選び、施設側は利用者の動きに応じて設備を稼働させる。
宿泊料金は安くなっていた。
車内の案内が告げた。
「途中、海岸展望地点に立ち寄ることができます。現在は混雑しておらず、十五分程度の滞在がおすすめです」
木下は窓の外を見た。
「いいね。寄ってもらおう」
車は、予定になかった展望地点に停車した。
そこには、数人の旅行者がいるだけだった。木下は海を眺め、写真を撮った。撮影した写真は自動的に整理され、スマートフォンには短い旅行記の候補が表示された。
「本日の写真を旅行アルバムに追加しました」
木下は、特に意識せずに画面を閉じた。
宿に着いたのは午後二時過ぎだった。
チェックインは端末で済ませた。本人確認、決済、館内案内、食事の予約。すべてが数分で終わった。
部屋に入ると、窓の向こうに海が見えた。
木下は荷物を置き、しばらく椅子に座っていた。
スマートフォンから音楽が流れた。列車の中で聴いていた曲の続きだった。
「少し音楽を変えましょうか」
木下は、画面を見た。
「いや、このままでいいよ」
「承知しました」
音楽は、木下が特に意識しなくても、気分に合うように選ばれていた。曲の長さ、テンポ、音量、曲順。以前なら自分で選んでいたものが、今はいつの間にか整えられている。
それは便利だった。
ただ、木下はふと、自分が最後に自分で音楽を選んだのがいつだったか、思い出せなかった。
夕食は、近くの小さな料理店を予約していた。
店は、地元の夫婦が経営しているらしかった。調理場には二人の姿が見えたが、接客はほとんど自動化されていた。注文は端末から行い、料理は配膳ロボットが運んでくる。
それでも、料理は美味しかった。
魚は地元の漁港から仕入れたものだという。
「この辺りも、漁師さんが減ったんですか」
木下が尋ねると、店主は少し笑った。
「減りましたね。船を出せる人間がいないんですよ。魚は獲れても、運ぶ人がいない。市場も小さくなりました」
「それでも、こうして店を続けているんですね」
「まあ、あと何年できるか分かりませんけどね」
店主は、そう言って皿を下げた。
木下は、少し考えてから言った。
「でも、観光客向けの需要は、まだあるでしょう」
「観光客ですか。来てくれればありがたいですけどね」
「このあたりは、景色もいいし、魚も美味しい。これからも十分、魅力のある場所だと思いますよ」
店主は、木下の顔を見た。
「景色は変わりますよ」
「ええ?」
「海は毎日違いますから。昨日まで獲れていた魚が、今日は一匹もいない。去年まであった浜が、台風でなくなる。山から土砂が流れて、港が埋まる。そういうことがあるんです」
木下は、返事をしなかった。
店主は続けた。
「この間も、沖の潮が変わりましてね。魚が寄らなくなった。何年か前から、そういうことが増えました。気候が変わったんでしょうかね。まあ、自然のことだから、こっちがどうこう言っても仕方ないんですが」
「それは大変ですね」
木下は、そう答えた。
すると店主は、少し首を傾げた。
「大変というか、そういうものですから」
その言葉が、木下には妙に引っかかった。
スマートフォンのニュースなら、こうした話は「海洋環境の変化による漁業への影響」として整理される。原因、影響、対策、今後の見通し。そこには必ず、何らかの対応策が添えられている。
しかし、目の前の店主は、何かを解決しようとしているわけでも、誰かに責任を求めているわけでもなかった。
ただ、海が変わったと言っている。
「それでも、続けていくんですね」
木下が言うと、店主は笑った。
「まあ、海が相手ですからね。こっちの都合で待ってくれませんし」
その言葉を聞いたとき、木下はなぜか少し居心地の悪さを感じた。
店を出ると、スマートフォンが振動した。
「本日の夕食は、以前の嗜好に近い内容でした。満足度はいかがでしたか」
木下は画面を見た。
「よかったよ」
「ありがとうございます。明日は、周辺の散策をおすすめします。現在の天候と体調を考慮すると、午前七時半から八時半が適しています」
木下は、返事をしなかった。
翌朝、木下は海岸を散歩した。
スマートフォンが勧めた時刻より少し早く目が覚めたのである。
海辺には、昔ながらの旅館が一軒だけ営業を続けていた。玄関には、手書きの案内が貼られている。
「本日は予約のお客様のみ営業」
その横に、小さな紙があった。
「お困りの際は、呼び鈴を押してください」
木下は、その文字をしばらく眺めていた。
最近では、何かを尋ねるにも、まず端末を操作する。困ったときにはAIに相談する。役所の窓口も、銀行も、病院も、ほとんどが同じ仕組みになっていた。
人間に尋ねるという行為そのものが、少しずつ特別なものになっていた。
海岸の先に、小さな漁港があった。
一人の老人が、船の上で網を繕っていた。
「おはようございます」
木下が声をかけると、老人は顔を上げた。
「おはようございます。旅行ですか」
「ええ。一泊だけ」
「そうですか。いい時期に来ましたね」
木下は海を見た。
「今日は穏やかですね」
「朝はね」
老人は網に目を戻した。
「午後から風が出る。明日は荒れるかもしれん」
木下はスマートフォンを取り出した。天気予報では、翌日も晴れだった。
「予報では、明日も晴れになっていますよ」
「空は晴れても、海は荒れることがあるんです」
老人は、網の糸を引いた。
「風向きが変わるんですよ。沖の波が違う。あんた、海に出るわけじゃないから関係ないでしょうけどね」
木下は、少し笑った。
「そうですね」
「昔は、こういうことを見て覚えたもんです。今は機械で分かるんでしょうけど、機械も海の中までは見えませんからね」
老人はそう言って、また網を繕い始めた。
木下は、何か返そうとしたが、言葉が見つからなかった。
スマートフォンが振動した。
「周辺の気象情報に大きな変化はありません。現在の散策を継続しても問題ありません」
老人の言葉と、スマートフォンの表示は、どちらも間違いではないのかもしれなかった。
しかし、二つの言葉は、まるで別の世界から来たもののように感じられた。
「おじいさんは、毎日こうして海を見ているんですか」
「毎日じゃないですよ。見ない日もあります」
「それでも、分かるんですか」
老人は、少し笑った。
「分かるわけないでしょう。外れることもありますよ」
その答えは、木下が予想していたものと違っていた。
「でも、見ておかないといけない。外れたら外れたで、また考えるんです」
木下は、老人の顔を見た。
そこには、悲観も楽観もなかった。正確な予測をすることへの自信もなければ、未来を保証する言葉もない。ただ、海を相手にしてきた人間の、当たり前の態度があった。
木下は、少しだけ気持ちが悪くなった。
自分のスマートフォンは、いつも正確な情報を届けてくれる。自分の好みに合わせ、疲れないように、腹を立てないように、余計な不安を感じないように、言葉を選んでくれる。
それなのに、目の前の老人の言葉は、何の配慮もなく、何の結論も用意せず、ただそこにあった。
「そうですか。ありがとうございました」
木下は、そう言って港を離れた。
歩きながら、イヤホンを耳に入れた。
音楽が流れた。いつもの穏やかな曲だった。
しばらく聴いていたが、木下は音量を下げた。
帰りの交通手段は、すでに最適化されていた。
予約した自動運転車の出発時刻、熱海での乗り換え、東京駅到着後の帰宅経路。スマートフォンは、木下が何かを尋ねる前に、必要な情報を提示していた。
画面には、帰路の途中で利用できる飲食店や、駅構内の買い物情報まで表示されていた。
木下は、そのうちの一つを選んだ。
特に理由はなかった。ちょうど昼食の時間だったからである。
列車の中で、再びニュースを開いた。
国内経済の見通し。海外市場の成長。地域社会の新しい取り組み。短い記事がいくつか並んでいた。
その中に、漁業資源の分布変化に関する記事があった。
「環境変化に対応する地域漁業の新たな可能性」
木下は、記事を開いた。
内容は、海水温の変化によって魚種の分布が変わり、新たな漁業の可能性が生まれているというものだった。漁業者の高齢化や後継者不足にも触れていたが、最後は新しい養殖技術や流通システムによる改善の見通しで締めくくられていた。
木下は、画面を閉じた。
昨日の店主や、今朝の老人の言葉とは、何かが違っていた。
ニュースは、現実を説明しているはずだった。
だが、そこには、現実の持つ不規則さや、どうにもならなさがなかった。
木下は、スマートフォンに尋ねた。
「このニュース、どうしてこういう見出しなんだ」
「記事の内容を簡潔に伝え、過度な悲観や誤解を避けるためです。関連する政策や技術的な対応策も併せて紹介しています」
「誰が決めているんだ」
「お客様の情報閲覧傾向、関心分野、過去の反応、情報の正確性と理解しやすさを考慮して調整しています」
「俺が不快にならないように、ということか」
少し間があった。
「不必要なストレスを避け、必要な情報を理解しやすい形でお届けすることを目的としています」
木下は、スマートフォンを見つめた。
「そうか」
それ以上は尋ねなかった。
東京駅に着くと、改札の前に人が並んでいた。
一人の高齢者が、端末の操作に困っているようだった。駅員を探しているらしい。しかし、近くに駅員はいなかった。
木下は、声をかけようとした。
そのとき、改札機の表示が変わった。
「お客様の認証に問題があります。案内AIに接続します」
高齢者は、画面を見つめたまま立ち尽くしていた。
木下のスマートフォンが振動した。
「ご自宅までの移動経路を確保しました。現在の混雑状況では、こちらの通路が最短です」
木下は画面を見た。
そして、案内された通路へ歩き出した。
自分にも、月曜日から仕事がある。
誰かが対応するだろう。
そう思った。
そのとき、木下はまだ知らなかった。
自分がこの一泊二日の旅行で、行き先を選び、宿を決め、交通手段を選び、食事をし、帰宅するまでのほとんどを、スマートフォンのAIに委ねていたことを。
聴く音楽も、読むニュースも、自分が不快にならないように調整されていたことを。
そして、それらを便利だと思いながら、ほんの少しだけ気持ち悪いと感じ始めていたことを。
誰かに命令されたわけではない。
ただ、便利だったのである。
その「誰か」が、もうこの国には、ほとんど残っていないということを。




