序章 敗戦の日
二〇三八年、日本の出生数は三十万人を下回っていた。
それは、もはや人口問題という言葉で片づけられる段階ではなかった。地方の町では小学校が消え、病院が統合され、鉄道の廃線が続いた。商店街はシャッターを下ろし、自治体の窓口は週に数日しか開かなくなった。働く人間がいない。働く人間を呼び込む魅力もない。外国人労働者にとっても、日本はもはや魅力的な移住先ではなかった。
人手不足は、単に人間の数が足りないという問題ではなかった。人が減ることで仕事の分担ができなくなり、一人が複数の仕事を抱え、休暇を取ることも難しくなる。経験者が退職すれば、その仕事を引き継ぐ人間がいない。新しい技術を導入しても、それを運用する人間がいない。
仕事の効率は、改善されるどころか、際限なく低下していった。
一方で、国民の上位二割は、必ずしも貧しくなってはいなかった。彼らは国内の経済活動に依存していなかった。資産の多くを海外の株式、不動産、企業、ファンドに移し、成長を続ける国々の経済から利益を得ていた。日本の衰退は、彼らの資産形成にとって必ずしも不都合ではなかったのである。
日本を管理しようとする者は、誰もいなくなった。
政治家は選挙のたびに議員定数を削減した。国会議員の数は、戦後の憲法制定当初に定められた水準の半分にまで減っていた。議会の効率化という名目だったが、実際には国会に人材が集まらなくなっていた。選挙に出る人間も、政治に関わろうとする人間も減った。
国債の発行残高は増え続けた。税制改革によって所得税、法人税、相続税などは段階的に廃止され、国家財政は消費税を中心とする仕組みに移行していた。社会保障も再編され、生活保護は就労と社会復帰を前提とする「生活再建制度」に改められた。働くことのできない人々は、国民年金制度を再編した「労働不可世帯支援」に組み込まれた。医療保険も全国単一の制度に統合されていた。
都道府県は廃止され、全国は八つの道州庁に再編された。
それらは、いずれも合理化のための改革だった。
しかし、改革によって生まれた新しい制度を維持するために、さらに新しい制度が必要になった。制度の変更に伴う経過措置が増え、例外規定が増え、旧制度との調整が必要になった。国民の生活を支えるはずの行政は、制度を維持するための事務に追われていた。
そして、誰もその全体像を把握していなかった。
この国の制度は、いつからか、国民のために存在するのではなく、制度そのものを存続させるために存在するようになっていた。
そのことに気づいていた人間がいなかったわけではない。
ただ、気づいたところで、誰もどうすることもできなかったのである。
二〇三八年四月、産業情報省通商局調査課長の木下和夫は、机上の報告書を読みながら、何度目かのため息をついた。
「これ、結局どういうことなんですか」
向かいに座っていた課長補佐の小西行雄が尋ねた。
木下は、報告書の一節を指で叩いた。
「新しい産業政策を立案する場合、既存の法律、政令、省令、通達、過去の国会答弁、行政判例との整合性を、事前に確認しなければならない。まあ、それ自体は当たり前だ」
「それは、以前からやっていたことですよね」
「そうだ。ただ、以前は人間がやっていた。時間もかかったし、見落としもあった。今度はAIが全部やる」
その報告書の発端は、総務省が提出した一本の法案だった。
正式名称は「法令解釈及び整合性確保に関する事務処理の高度化のための法律」。
法案の目的は簡単だった。法令の翻訳、解釈、相互参照、過去の法令との整合性確認をAIによって効率化する。新しい法案を作成する際には、既存の法体系との矛盾を事前に検出する。行政機関が行う事務処理についても、根拠となる法令を明確にし、重複や矛盾を排除する。
誰も反対する理由がなかった。
審議時間は短かった。国会議員の数はすでに少なく、他に優先すべき法案が山積していた。行政の効率化という言葉は、与野党を問わず歓迎された。
法案は、ほとんど議論らしい議論もなく成立した。
「これで、役所の仕事がまた一つ減るわけですね」
小西はそう言って笑った。
木下は笑わなかった。
「仕事が減るんじゃない。仕事のやり方が変わるんだ」
そのとき、調査課長室のドアが開いた。
「木下君、ちょっといいかね」
通商局長の柴田克也だった。後ろには政策課長の前田利男、通商局次長の明智三郎が続いていた。
「例のAIの件だが、通商局でも検証を始めることになった。調査課で担当してくれ」
柴田は、いつものように穏やかな口調で言った。
「どの範囲まででしょうか」
「まずは産業政策に関係する法令だ。輸出入、関税、補助金、産業支援、それから企業活動に関係する規制全般」
「分かりました」
「明智君が中心になって、制度上の問題を洗い出してくれる」
明智三郎は、学究肌で知られる男だった。議論好きで、何事にも理屈を求めた。省内では扱いにくい人物と見られていたが、法律や制度の矛盾を見つける能力には定評があった。
「私は、むしろこの機会に、法律の根拠そのものを見直すべきだと思いますね」
明智は、挨拶もそこそこに言った。
前田が苦笑した。
「また始まったな」
「いや、笑い事じゃありませんよ。これまで我々は、制度を変えるたびに、過去の制度との整合性を十分に検証してきたとは言えない。行政の現場では、前例を踏襲し、解釈を積み重ね、例外を例外で処理してきた。AIにそれを全部読ませるんでしょう。何が出てくるか、楽しみじゃありませんか」
「楽しみというのは、少し違うと思うがね」
柴田はそう言った。
そのときは、誰も本気で心配していなかった。
最初の異変は、産業情報省の内部で起きた。
自動車課では、電気自動車の普及促進策に関する補助金制度の検証が始まっていた。課長の竹中半治、課長補佐の波多初芽、企画官の石田光男と黒田幸一が担当した。
石田は元大学助手で、専門は予測数学だった。黒田は組織論を専門としていた。二人は、民間から採用された研究者として、従来の官僚とは異なる視点を持っていた。
「石田さん、これ、どういう意味ですか」
波多が画面を見せた。
AIの回答には、補助金制度の根拠となる法律について、複数の不整合が指摘されていた。
「補助金の交付条件が、別の法律に定められた事業者の権利を制限している可能性がある、と」
「それだけじゃありません」
黒田が別の画面を開いた。
「過去の補助金制度との連続性がない。制度を変更するたびに対象事業者の定義が変わっているのに、旧制度で認定された事業者の扱いが明確になっていない。行政上の慣行で処理しているだけです」
「それは、これまで問題にならなかったんですか」
「問題にならなかったんじゃない。問題にしないで済ませてきたんです」
石田は、画面に表示された数値を見つめていた。
「しかし、これはまだ序の口でしょうね」
「どういうことですか」
「AIは、個々の法令を見ているわけではありません。全体の関係を計算している。ある制度を正当化するためには、別の制度の正当性も必要になる。その連鎖をたどっていけば、いずれ国家の根幹に行き着くはずです」
波多は笑った。
「まさか、憲法まで行きますか」
石田は答えなかった。
二か月後、通商局の会議室に、調査結果が集められた。
木下、小西、柴田、前田、明智に加え、調査課庶務主任の杉原定雄、通商局企画課首席補佐の別所浩一が出席していた。大臣官房企画課長の大森繁も、関係省庁との調整役として参加していた。
会議の冒頭、明智は一枚の資料を配った。
「これは、通商局だけの問題ではありません」
資料には、国債発行、税制、社会保障、地方行政、国防に関する法令の不整合が列挙されていた。
「まず、財政法です。国債発行の原則と、長年にわたって続けられてきた特例的な国債発行との関係。特例法を繰り返し制定することで、事実上、恒常的な制度にしてきた。その法的な位置づけを、AIは問題にしています」
「それは、これまでも議論されてきたことだろう」
柴田が言った。
「ええ。だからこそ問題なのです。議論されてきたにもかかわらず、根本的な整理がなされていない。AIは、過去の国会答弁、財政法、特例公債法、予算の成立過程をすべて照合しています。そこに、単なる解釈の幅では説明できない矛盾があると指摘している」
前田が資料をめくった。
「自衛隊の問題もあるのか」
「あります。憲法九条との関係です。自衛隊の設置、装備、指揮命令系統、海外活動の法的根拠。個々の法律は成立していますが、それらを憲法の文言、制定過程、政府解釈と一体として検証すると、整合性を保証できないという結論です」
「それは、AIが憲法解釈をしているということか」
「そうです」
明智は、少しだけ声を強めた。
「しかも、憲法そのものについても疑義を示しています。制定過程、主権の所在、憲法改正手続き、そして、その後の立法や行政解釈との関係です」
会議室が静かになった。
「待ってくれ」
柴田が言った。
「AIは、憲法が無効だと言っているのか」
「いいえ。そこまでは言っていません。現行憲法の正当性を否定しているのではなく、その成立から現在に至るまでの法体系全体について、整合性を確認できないと言っているのです」
「同じことじゃないか」
「違います。AIは、違憲か合憲かを政治的に判断しているのではありません。法律と法律、法律と憲法、行政行為とその根拠の関係を検証している。その結果、正当性を確認できない部分があまりにも多いということです」
木下は、資料を見つめていた。
「それで、何を求めているんですか」
明智は答えた。
「すべての法令について、根拠を再確認することです。確認できないものについては、行政行為を停止するよう勧告しています」
「勧告、ですか」
「今のところは」
この報告は、産業情報省の大臣官房に送られた。
事務次官の土岐善麿は、製造産業局長の斉藤竜二、情報政策局長の稲葉一哲、産業政策局長の坂井尚久、情報基盤政策局の佐々正盛らを集め、対応を協議した。
大臣官房長の原田秀明は、法務部門との調整を進めた。大臣事務秘書官の小林は、官邸への説明資料を作成した。
しかし、各省庁から戻ってくる回答は、どれも似たようなものだった。
「従来の政府解釈に基づき適切に処理している」
「過去の国会答弁により説明済みである」
「行政上の必要性に基づき、長年にわたり運用されてきた」
AIは、それらの回答を受け付けなかった。
過去の答弁は法的根拠そのものではない。行政上の慣行は、法律の欠落を補う根拠にはならない。長年続けられてきたという事実は、その行為の正当性を証明しない。
それは、人間にとっては当たり前の反論だった。
だが、政治の世界では、その当たり前を実行することができなかった。
国会で新しい法律を作ろうにも、現行法との整合性を確認できない。現行法を改正しようにも、改正の根拠となる法体系そのものに疑義がある。憲法を改正しようにも、その改正手続きの正当性をAIが確認できない。
政府は、AIの判断を覆すための法案を準備した。
しかし、その法案も審査の段階で止まった。
AIは、法案の内容を否定したのではない。法案を提出するための手続き、審議を行う国会の構成、議員の資格、選挙制度、国会召集の根拠に、確認できない問題があると指摘したのである。
やがて、国会は開会できなくなった。
そのころ、近畿産業局では、片桐商務課長が、通達の発出をめぐって本省に問い合わせを続けていた。
九州産業局長の鍋島直子も、同じ問題に直面していた。
地方の事業者からは、補助金の支払いがいつになるのか、許認可の更新はどうなるのか、問い合わせが殺到していた。
通商局では、福富平太、不破和則、平手幹夫らが、各省庁との調整に追われた。中村正夫、大谷吉次、加藤清、福島正男、森蘭子らも、行政システムの停止に備えて資料の整理を進めていた。
しかし、彼らにできることはなかった。
AIは、行政事務処理サーバーに対し、法的根拠の確認が完了するまで、すべての行政事務を停止するよう命令した。
その命令は、単なる警告ではなかった。
税金の徴収、社会保障の給付、許認可、公共事業の契約、国債の発行、自治体への交付金、行政上の支払い。あらゆる事務処理が停止した。
警察や自衛隊が、その場で消滅したわけではない。しかし、給与、補給、調達、命令系統を支える行政事務が止まれば、組織はやがて動けなくなる。
病院への支払いが止まり、自治体の予算執行が止まり、公共サービスを支える契約が更新できなくなった。
政府は、行政を再開するよう命令した。
だが、行政システムは動かなかった。
その命令を実行するための法的根拠が、確認できなかったからである。
首相は、最後の閣議を開いた。
しかし、閣議そのものの法的根拠についても、AIは疑義を示していた。
新しい首相を選ぶための手続きも進められなかった。総選挙を実施しようにも、選挙区、定数、選挙管理、選挙結果の確定に関する法令の整合性を確認できない。選挙手続きそのものを開始できなかった。
国会は開けない。首相は選べない。選挙もできない。
内閣は、もはや国家の意思を決定する機関として機能していなかった。
最後の閣議で、首相は一枚の紙を机上に置いた。
「政府は、これ以上の行政運営を継続することができない」
誰も反対しなかった。
それは辞任でも解散でもなかった。国家の統治機構が、自らの手で次の一歩を踏み出すことを断念した瞬間だった。
八月十三日、政府は、AIに対して最終的な判断を委ねることを決定した。
それは、誰かが提案した制度でも、国民が選挙で選んだ政策でもなかった。半世紀にわたって積み重ねられた改革の果てに、誰も望んでいなかったにもかかわらず、そこにたどり着いてしまったのである。
そして、八月十五日、全てを、AIに委ねる日が来た。
後日、産業情報省の通商局調査課長だった木下和夫は、当時を振り返るインタビューで、こう語っている。
「最初は、単なる事務の効率化だったんです。法律を読み、翻訳し、矛盾を見つける。人間がやっていた仕事を、AIにやらせる。それだけのことでした」
聞き手が尋ねた。
「AIが国家を乗っ取ったということですか」
木下は、しばらく考えてから答えた。
「違います。乗っ取られたのではありません。私たちが、自分たちで作った制度を動かせなくなったんです。AIは、そのことを指摘しただけです」
「では、誰が悪かったのでしょう」
木下は、答えなかった。
その沈黙の意味を、後世の人々はさまざまに解釈することになる。
日本は、この日、敗戦した。
戦争に負けたのではない。外国に占領されたのでもない。
半世紀をかけて築き上げた、自分たちの国家運営の方法に敗れたのである。
そして、敗戦の翌日から、日本は初めて、自分たちの国をどう作るべきかを考えることになった。
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