苦しい世界
プルルルル‥
胸ポケットに入れているピッチをとる。
『はい、加藤さんどうされましたか?』
そのまま患者さんの病室まで行く。
『看護師さん、傷口が痛くて‥』
『大変ですね、確認しますね』
慣れた手つきで患者の腹部にある傷口を確認する。
熱感、腫脹、発赤などないか確認する。
血圧などのバイタルサインもモニター波形も安定しているものの、少し表情が苦しそうだ。術後2日目であり、痛みによるものだろう‥。カルテを開いて、医師の指示を確認する。
『先生が痛み止めを出してくれていますから、そちらを使用しましょうか。点滴から落としますね。』
『はい。お願いします。』
私、平川翠は市民病院の外科病棟で看護師をしている。
今日は、日勤5日目。全身が疲れている。
正直、疲労感が半端なく歩くのも辛い。
けど、慢性的な人手不足であり、欠員が出ると回らないのが現状だ。
けど‥頑張れる。なぜなら今日はたっくん(婚約者)との交際記念日!!
デパ地下でたっくんの好きなローストビーフ買って帰ってあげなくちゃ!!
絶対定時で帰るぞ!!
加藤さんに痛み止めの点滴を落とし、バイタルを観察する。
落ち着いたようで、表情も穏やかになり、眠りについた。よし、さあ、ナースステーションに戻ろう。
他の受け持ち患者の部屋もぐるりと回って、ナースステーションについた。
やっとこさ、椅子に座れる。
椅子に座って残りの患者記録を急いで終わらせる。
あと、15分で定時だ!よし!もうすぐ!
頑張るぞ!!何も起こらないでねー!!!
その瞬間、ナースステーションの生体モニターのアラームが鳴り響く、1人の患者の心電図モニターの波形が不規則に波打ち始めた。
ナースステーション内に緊張が走る。
そして、
『VT波形だ』
急いでアラームが鳴った加藤さんの元へ走る。
胸を抑えて苦しそうな表情をしている。
冷や汗をかいている。
持ってきた血圧計で血圧を測定。
『加藤さん、聞こえますか?』
『平川さん、主治医に連絡しました。』
『ありがとう。加藤さん胸が痛むかな?今先生きますからね』
‥定時までの受け持ち患者の急変。
残業コースだった。
病院を出たのは、夜の8時だった。
私の患者が急変しばたついたことで、新人看護師さんが緊急入院をとってくれた。
申し訳なさからその子のフォローもした。その結果この時間になってしまった。
『平井さん!』
『あ、お疲れー』
『本当にありがとうございました!急変対応で忙しかったのに私のフォローまでしていただいて‥』
『いや、いいのよ.ごめんね.通常業務も慣れてないのに、緊急入院まで取らされて大変だったでしょ?』
『いえ、本当にありがとうございます‥』
新人看護師さんたちも大変だ。
殺伐とした病棟では、お局たちは絶対緊急入院を取りたがらず不機嫌になるため、新人や比較的若いメンバーに突発的な仕事が回ってきやすい。
いつもなら私が取るのだが、今日は私の受け持ちが急変しその対応に追われていたのでこの子が取らされたのだ。私がフォローしなければこの子たちはまだ帰れていなかっただろう‥。
看護師辞めたい‥。
クソみたいな人間ばかり、もう嫌気がさす。
とりあえず早く帰って、ゆっくり休みたい。
帰りにデパ地下で半額シールの貼ったお惣菜を買えた。この時間に帰れて良かったことはお惣菜に半額シールが貼ってあることだ。
マンションについた。
『たっくーん!ただいま!!』
ドアを開けると、玄関に女物の靴が置いてあった。
私のものではない。
部屋の中からギターの音色と女の声も聞こえてくる。
ドアを開けると、リビングでたっくんがギターを弾きながら派手な女と2人で仲良さげに歌を歌いながらキスをしていた。
『たっくん‥』
『あ‥!!翠!おかえり!』
『‥なにしてるの?』
『あ‥いや、今日はその、遅かったな!こいつは妹のだよ!!』
『は?妹?違うわよ!誰よこの女!一人暮らししてるって嘘ついてたの!?』
『ち、ちがうって!空気読めよ!』
『‥。』
目の前で金髪の派手な女とバンドマンの彼氏が喧嘩をしている。
婚約してたはずなのに‥。
五連勤目の疲労感と脱力感と虚しさが込み上げてきた。大好きだった彼氏。
たっくんのために働いて、お金を稼いで、養っていた。それがなんだか馬鹿馬鹿しくなった。
あんなに大好きだった、かっこよかったたっくんが情けない冴えない男に見えてきた。
‥冷めたわ。
『もういい』
『え?翠?違うって!帰ってもらうから!』
『そうね、帰ってちょーだい』
『そうだぞ!ほら!帰れ!』
『お前も帰るんだよ!!』
ブチギレた。
こんなにキレたのは何年振り、いや何十年振りだろうか。
彼氏と女を家から追い出し、彼氏の服や靴、ギターや化粧道具など荷物も全て放り出した。
『まてまて!翠!話し合おう!』
『うるさい!!話し合うことなんてないわ!』
『もう浮気しないから!結婚するんだろ?』
『あんたみたいな冴えない男と結婚するわけないでしょ!!女と将来について語り合うなら金稼いでからにしろ!!!』
ドアを勢い良く閉めた。
鍵を閉めてチェーンをかけた。
はあはあはあ‥
呼吸が荒い。息ができない。苦しい。
悲しい。涙が止まらない。
‥私はなんのために生きてるんだろう。
こんなに働いて、周りに気を遣って、優しくして一生懸命生きてるのに、浮気されて‥馬鹿みたい。
もう嫌だ.辛い。辞めたい。
何もかも辞めたい。
そして、ベッドに倒れ込んで意識を失った。
チュンチュン‥
ん‥小鳥の鳴き声‥スズメかな。
んん、眩しい。もう朝‥?
眠い目を擦りながら目を覚ますと、そこは‥。
草原だった。
だだっ広い草原、ところどころに綺麗な花が咲いてる。高い空には雲がゆったりと流れる青空が広がっていた。
『空ってこんなに広かったっけ‥』
‥てか、ここどこ?
見渡す限り、原っぱと空と雲しか見えない。
『あ、私‥死んだ?天国かな?』
立ち上がる。服装は、あの時部屋で寝た時とそのまま。
ワンピースに、靴下にスリッパを履いている。
『‥靴履いてないじゃん。やば。』
しかし、肩には見覚えのないコートがかけられていた。
紺色のコート。まるで中世の貴族が身につけているかのような美しい模様が刺繍されている。
大きなロングコートなのに、とても軽い。けれど、重厚感があり、高価そうだ。
少なくとも、私のものではない
私はワンピースと靴下しか身につけていなかった。
日勤5日目で疲労感が半端なかったのに、体は少し軽くなっていた。
肌もいつもよりハリがあるような‥?
気づかないうちにめちゃ寝たのかな?
それとも‥やっぱり死んだ?
『目が覚めたのか』
後ろから声がして振り返る。
そこには、中性的な顔立ちをした美しい青年が立っていた。長い白い髪を一つにまとめており、肌は白く透き通っている。大きなエメラルドの目に長いまつ毛、通った鼻、薄い唇。白いノーカラーシャツに黒いズボンと黒い編み上げブーツを履いていた。
ネックレスやブレスレットをつけていて、それぞれに緑や青色の宝石がついているのか、キラキラと輝いている。
『綺麗な人‥』
『君はこの辺の人なのか?』
『え?えっと‥この辺ってどこかしら?ここはどこ?』
『‥ここはエメラルド王国の僻地だ。』
『エメラルド王国‥??そんな国あるの?え、ここは、日本じゃないの?』
『何を言ってるんだ?君は?ニホンなんて国はないぞ。』
『え‥』
青年は、スタスタと翠の方へ歩いてきて、翠の額に手を当てた。
すると、額がうっすらと光り輝いた。
ほんのりと暖かい空気が身体中を巡っていく。
不思議な感覚だが、不快ではない。
『‥!!』
『‥元気そうだ。』
『‥な、何しをしたの?』
『君がここに倒れていたんだ。顔色の真っ青で動かないから死んでるかと思ったけど、息もしてたしね。回復魔法を施したんだ。』
『か、かいふくまほう‥?』
『魔法を知らないのか?』
『えっと‥』
こ、これは噂に聞く、異世界転移ってやつ!?




