今宵も誰かがドアを開ける
東京都内・私鉄沿線の商店街。
アーケードの中には、全国チェーンのファーストフードやカフェ、コンビニ、居酒屋が軒を連ね、昼間は主婦や学生、夜はサラリーマンが多く行き交い、賑わいを呈している。
一見、都内であればどこでも見かける普通の商店街であるが、一本脇道にそれると、場末風のスナックや麻雀荘など、昭和時代から生き残っている町の「怪しげな」一面が姿を現す。
そんな風情の残る、脇道沿いにある古い雑居ビルの地下に、この町で長く営業しているカクテルバー『メロス』がある。
関口秋音は、いつものように沢山の果物やお菓子が入った買い物袋を下げて、地下へと続く階段を、コツコツとヒールの音を響かせながら、1段1段、ゆっくりと下りていった。
この日は朝から強い北風が吹きつけ、秋音は白いファー付きのコートとマフラーでしっかり防寒してきたが、それでも露出した頬や額に冷たい風が吹きつけると、体の芯まで凍り付くような気分になった。
「こんばんは、マスター。遅れちゃって、ごめんなさい」
秋音が木造の重いドアを、ギギギ~と音を立てて開けると、薄暗い中に小さなシャンデリアが灯る室内からは、重低音のハードロックが響き渡り、カウンターの中で、上半身裸の男が、真っ黒な胸毛をさらしながら、箒の束を握りしめ、時には振りかざして、音楽に合わせて大声で歌っていた。
外は凍てつくように寒いのに、男の額からは大粒の汗がしたたり落ち、それでも男は目を閉じて、声を枯らして一心不乱に歌い続け、歌い終わると、喉が破裂しそうな声で絶叫した。
「俺たちはチャンピオンなんだ!絶望と悲しみで満たされたこの世界に君臨するチャンピオンなんだ!」
秋音は、あまりにも凄まじい光景にあっけにとられ、手に提げていた袋を床に落としてしまった。
そして、眉間にしわを寄せ、男を睨みつけながら大声で叫んだ。
「やめてよ!マスター!何で服脱いで歌ってんのよ!お客さんが来たら、恥ずかしいからやめてよっ!!」
その瞬間、男は、音楽が続いているにも関わらず、そのまま体が固まり、しばらく動けなくなってしまった。
秋音は、マスターと呼んだ男の手から箒を奪うと、掃除道具入れにしまい込み、着替えのワイシャツとネクタイを男の手に押し込んだ。
「さあ早く着替えてきてよ!もう営業時間が始まってるんですからね。こないだだって、その格好で歌ってたら女子大生のお客さんが店の中に入ってきて、警察沙汰の騒ぎになったの、もう忘れたのかしら?」
男はようやく気を取り直したようで、箒の代わりに着替えのワイシャツを持ち換えていたことに気が付くと、照れ笑いを浮かべながら、
「あははは・・・俺、歌ってた?」
「歌ってたわよ。もうやめてよ!ただでさえお店の売上げ、上がらないんだから、それなのにお客さんに逃げられるようなことするの、やめてくれる?」
男はシュンとした顔で、カウンターの奥にトボトボと進み、ワイシャツに袖を通した。
カウンターの上には、メキシコから入荷したばかりの、純度の高いテキーラの瓶と、おそらく男が試飲に使ったであろうグラスが残っていた。
「マスター、このテキーラ、飲んだの?もう瓶の半分近くぐらい、液体が無くなってるけど」
「まあ、ね。美味しかったから、グイグイ飲んじゃった。あははは」
「あははは、じゃないっての!せっかくメキシコから直輸入したのに。何てことするのよ!」
秋音が怒りのあまり、男が試飲に使っていたグラスをカウンターにたたきつけると、グラスに残っていたテキーラの液体と、氷がテーブルに散らばった。
「ご、ごめんちゃい」
「ごめんちゃいじゃないわよ!ああ~・・・これ、すごく高いんだからね」
秋音はイラついた表情でテキーラの瓶を他の瓶とともに丁寧に箱にしまい込むと、カウンターの裏にある倉庫に戻した。
男は、着替えが終わると、鏡を見ながら髪型と口ひげを整え、少しオドオドした表情でカウンターの前に戻ってきた。
男の名前は、岡崎祥次郎。
この街で30年近く続く老舗のカクテルバー『メロス』のマスターである。
人生の半分以上を、このバーとともに過ごしてきた。
オールバックのヘアスタイルと丸くてくりっとした目、そして丁寧にそろえられた口ひげがトレードマークで、イギリスの某ロックミュージシャンや、名探偵ポワロのような雰囲気が特徴である。
基本的には祥次郎が1人きりで店を切り盛りしているが、数年前に、若き女性アシスタントの秋音が入店すると、秋音が祥次郎の片腕として、接客からカクテルづくり、そして店の「財布番」までこなしている。
祥次郎の性格は基本的に「自由奔放」であり、酒に酔うと突然歌いだしたり、突拍子もない行動を起こすため、もっぱら秋音が「ストッパー」として祥次郎の暴走を防ぐ役割も果たしている。
「秋音ちゃん。悪かった・・・このお返しは、今度、フランスワイン1本でどうかな?」
「フン!以前の私ならそれでチャラにしたけど、今はもうワインなんかで落ちませんからね」
秋音は長い栗色の髪を束ねると、コートを脱ぎ、白シャツに黒の膝上のミニスカート姿で、颯爽と動き回り、開店の準備を始めた。
「マスター、何ボケっとしてんのよ?お通しぐらいは作っておかないと。お客さんが来たらどうするのよ?」
「は、ははは。すまんすまん。」
やがて、重いドアがギギギ・・・と音を立て、徐々に開き始めた。
「ほらね、だから言ったじゃん。さ、早く準備しないと!」
秋音が冷たく祥次郎に言い放つと、ドアを開けたショートボブの若い女性が足早に
店内に入り、カウンター前の椅子に腰かけた。
「ねえ、お酒出して!何でもいいから、強いヤツを出して!」
女性は、椅子に座るや否や、鋭い眼光で祥次郎の目を睨みつけながら、いきり立ったような声で注文を告げた。




