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33/45

その33


*


 ベッドにもぐり込んで眠りに就いたが、すぐに目が醒めてしまう。枕元の簡易照明をつけて時刻を確かめると、まだ九時をすぎたばかりだった。

 小雪は布団の上に腰を下ろす形で身体を起こすと、頭が膝に埋まるほど前屈みになり、ふたつの手掌で顔を覆った。脳裏にこびりついて離れない映像が、電波の悪い衛星放送のように歪んで瞼の裏をよぎる。最低な気分だった。

 階下から、リビングで話し合う両親の声が聞こえた。兄の帰宅を待ちながらも、本格的に警察へ相談を持ちかけるべきか否かを延々と議論しているようだった。

 小雪が帰宅するなり、母親は一目散に玄関に駆け寄ってきた。現れたのが小雪だと知やいなや、激しく落胆してリビングに戻っていった。自宅が見知らぬ場所に思えるほどの静寂。娘として、母親の傍にいて力づけてあげるべきなのはわかっている。だが小雪は、兄の変貌と凶行とグロテスクな屍体を目撃してしまった。とても母を気遣える精神状態ではない。

 ぽつねんと佇む母親を残し、小雪は早々に部屋へと引き上げた。なかなか眠れなかった。寝返りを打つたびに記憶が甦った。兄の姿を掻き消そうと躍起になり、眠りについたと思えば、夢にまで兄が現れ、教師の屍体が現れ、小雪は悲鳴をあげながら飛び起きた。

 時おり母親が足早に階段を駆け上がってきたが、小雪の声に驚いた訳ではなく、兄の部屋を覗きに行ったらしかった。息を整えて目を瞑り、思考を閉じてなるべく別の映像を思い出そうと努める。だが無駄だった。起きていても寝ていても地獄から解放されることはない。

 その時――機械的な電子音が鳴り響き、小雪はびくりと身を竦ませた。電話らしい。リビングと番号を共有する子機がこの部屋にも置かれている。小雪が立ち上がる前に、二度のコールの後すぐに音が鳴りやんだ。母親が出たのだろう。

 しかしすぐに内線に切り替わり、母親が無愛想な声で「電話よ」「お兄ちゃんからの連絡があるかもしれないから、すぐに済ませてちょうだいね」と事務的に告げた。

 誰だろう。兄が電話してくることはありえない。だが万が一という可能性はある。小雪は恐る恐る通話ボタンを押して、ゆっくりと受話器を耳にあてた。

「岡本小雪さんだね?」

 聞き覚えのない声だが、小雪あてに連絡を入れるということは知り合いなのだろう。丁寧な

口調に落ち着き払った低い声だ。逆に名前を問い返すと、男は古河と名乗った。その名前に覚えはない。小雪は当惑しながら萎縮した声で用件を促した。

「君は心に傷を持っているはずだよ」

「あの、悪戯電話は困ります。今すこし立て込んでいるので、すみませんが切りますよ」

「待ってくれないか。お兄さんは、ずっと君のことを心配していたんだよ」

 小雪は途端に目を見開き、思わず身を乗り出して口早に問い返した。

「兄貴のこと知ってんの? 教えて。兄貴は今どこに――」

「しっ、静かに」

 古河が声を潜めたので、これから重要な話題が切り出されることを悟る。小雪は渇いた咽喉に息を押し込むと、それからしばらく声を出さずに相手の出方を待った。

「君は中学の頃に好きでもない男の子と交際して、未だにそれを悔いている。それだけに留まらず、君はもうひとつ後悔していることがあるね。君の友達が肉体的な初体験を済ませた頃、君も焦って相手を捜した。けれど妥当な相手がおらず、テレクラという場所に電話をして、見知らぬ男性と肉体交渉した。そうだろう?」

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃に見舞われた。

 どうして古河氏が個人的な事情を知っているのだろう。小雪はあの過去を誰にも話していない。友達に劣るのが怖くて強引に済ませた初体験だったが、結局、恥ずかしくて誰にも言えなかった。本末転倒に終わった忘れたい汚点。最悪の経験だった。

「だが君は見知らぬ男性との経験を忘れたい訳ではない。そう。君が忘れたいのは、その男性から金を受け取ったことだ。三万円。中学生には少し高額すぎるね。結果的に、君は援助交際という名の売春に手を染めたことになる。ずいぶん後悔しただろうね」

 受話器を持つ手が震えた。

「お兄さんは、そんな君の傷を影ながら心配していたんだよ。どうだい。数年が経過した今、その傷は癒されたのだろうか」

「なんで……!」

 小雪は屈辱のために声を震わせた。咄嗟に、兄が小雪の日記を盗み見したのだと直感で理解する。男は、鍵をかけて押入の奥にしまってあるはずの過去の悪夢を連れてきた。

「やめてよ。親にばらす気?」

「そんなことはしない。君の傷を広げるだけだし、お兄さんも悲しむ。麗しい兄妹愛だね。僕は嫌いではないよ」

「何が言いたいの」

「そうだね。実は君に頼みがあるんだ。これは強制ではないけれど、黙って僕に協力してほしい。その代わり、君の過去を消してあげるよ。それに関する君の記憶、事実を知るお兄さんの記憶をすべて抹消してみせよう。そして僕もきっぱりと忘れる。約束するよ」

 選択権を与えないつもりか、小雪の返答を待たず、古河は一方的にある住所を告げた。それを必死に走り書きしていると、古河はくつくつと笑いながら陰湿そうにつぶやいた。

「明日の晩、この住所に来ればお兄さんに逢えるよ。君にも益がある。これを一石二鳥というのだろうね。悪い取引ではないと思う。是非とも招待に応じてほしい。くれぐれも誰にも内緒でね。ようやく君の番がやってきたのだから」

「どうしてよ。わかんない……!」

 小雪は頭に染みついた穢れを払拭するようにかぶりを振った。

 兄の変貌、兄の凶行、兄の心神喪失。兄が小雪の過去を知っていたこと、それを案じていたこと。これらと小雪が古河の元を訪れることに何か関連があるのか。一体どんな理由なのだ。

「あたしの番ってどういうこと? あたしは何番目なの」

「君は十二番目。そして――君で最後さ」



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