その32 幕間
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黄色い光を放つ太陽は、夕方になっても燦々と輝いていた。校舎間にある中庭の芝からは、熱気を含む空気が立ちのぼっている。人気はない。凹凸のある校舎の外壁に身を隠し、彼女たちは何度も首を巡らせて辺りを確認した。
「いいんじゃない。平気平気。今日はここでオッケーでしょ」
小野純が皮肉げに笑うと、仲間たちは頷き、声を押し殺してくすくすと笑った。
純が顎を振って合図を送ると、引き連れた取り巻き四人が一斉に梨恵を取り囲む。その内ひとりが無遠慮な力で突き飛ばしてきたので、梨恵は容易く壁に背を打ちつけた。
景色が暈けてみえる。世界から色彩が失われ、風や温度を感じなかった。背中を打った感覚はあるのに、僅かな痛みも発しない。まるで自分の身体ではないようだ。
目の前には、いつも梨恵をいじめる悪魔たちがこちらに下卑た笑みを向けている。彼女たちの顔も名前も認識できるのに、恐怖や嫌悪感が少しも沸き起こらない。それどころか、五人の顔が歪んで見えるので落書きが喋っているように思えて可笑しかった。
これから手ひどい暴力を受けることがわかっているのに、不思議と恐怖を感じない。この状況を頭で理性的に分析しているのに、逃走しようという考えさえ浮かんでこない。いつもなら震え上がり、怯えきって時間がすぎるのをじっと耐えるしか方法がなかった。だが今日はその気力もない。殴るなら殴ればいい。金だって奪えばいい。彼女たちが気が済むのならば、梨恵が虐げられても構わない。梨恵が犠牲になれば、彼女たちは満足するのだ。
すべてを許そう。今日が彼女たちの最期なのだから。
梨恵は肩から力を抜いた無気力な態で、黙って立ち尽くしていた。いじめの主犯格といえる小野純はそれに気づいた様子もない。これまで梨恵は反論せず、反撃せず、静かに彼女たちの行為を容認してきた。貝のように口を閉ざし、空虚な瞳で暴力に耐えてきた。
彼女たちの目が、梨恵の異変に気づけるはずがない。
「ねえ、三村ぁ。お金ちょうだいよ。今日はいくら持ってんの?」
「さっさと出しなよ、本当にのろまだね」
「ていうか、私、今日はバッグ買いたいんだあ。来月、うちのお父さんの誕生日なの。やっぱ親孝行してあげたいじゃん? 多めに持ってきてないと、私、逆上しちゃうかもよ?」
取り巻きのひとりが声高に笑った。
十数年間も手塩にかけて育てたうちの娘は、世間一般の女子高生とは違って父親を嫌わず、誕生日に高価なバッグまで贈ってくれたんだ。もちろん、毎月充分な小遣いは与えてるさ。うちの娘は偉いだろう。きっと買いたい服を我慢して、節約していたに違いない。父親は誇らしげな顔で、そう部下に自慢するかもしれない。
あんたの娘はいじめをしていて、暴力を振るい、同じ年の人間から金を巻き上げています。
親孝行でしょう?
手の掛かる子供ほど可愛いのでしょう?
証拠写真と文書を送付して、いっそ正直に告発してやれば良かった。目の濁った親ばかだから、娘の冷酷さや娘が行う残虐な行動に気づけない。結果、娘の持つ真の加虐性を増幅させる悪循環になる。やはり大人はどうしようもなく愚かで、治す薬もないのだ。
梨恵は半ば塞がれた瞼の隙間から、彼女たちの姿を目に焼きつけた。小野純が口角を吊り上げて笑っている。取り巻きがガムを噛んで笑っている。何がそんなに楽しいのだろう。
不思議に思っていると、小野純が一歩を踏み出して、梨恵の頬を張った。
「いいから、さっさと出せよ三村。早くしないと殴るよ? 殴っちゃうよ?」
「純、純。もう殴ってるって」
隣の女が大口を開けてげらげらと笑った。
「珍しく反抗するつもりなんじゃないの。ねえ、三村。今日はどうしちゃったの。いつもみたいに泣けばいいじゃん。泣いてさ、さっさと財布を出して、私たちにどうぞ貰ってくださいって言いなよ。どうぞお好きにお使いくださいって言いなよ」
彼女たちは、みな同じ目をしている。
梨恵と相対している時だけ、生きている実感を覚えるように目をきらきらと輝かせ、覇気のある話し方で饒舌になる。楽しいのか。人を殴って楽しいのか。梨恵は何度も心の中で問いかけた。いつもより冷静で、頭がよく回転しているのがわかる。視界は暈けているのに、妙に頭が冴えて活発に働いている。
頬を殴られ、腹と脛を蹴られた。痛みはない。げらげらと下品な笑い声だけが鮮明に届く。
楽しいのか。
人を殴って楽しいのか。
梨恵は相変わらず無気力に立ち尽くしていた。まるでガードを下げたボクサーのようだ。もちろん手をあげる力はあるが、手をあげて顔を庇おうという気にならない。どうすればいいのだろう。彼女たちが憎い。いや、それほど憎くもない。
彼女たちへの憎しみは消えていないのに、反撃する気も起きない。逃げなければという意志より、彼女たちから離れてはいけない気にさせられる。どちらにしても指示が来なければ動けない。何をして良いのかがわからない。
「ボコール……」
梨恵は蚊の鳴いた声でつぶやいた。耳を澄ますと、彼女たちの笑い声が遮断された。何も聞こえない。身体中の神経が鉛筆の先のように鋭角に研ぎ澄まされてゆく。
(我慢しなくていいんだよ)
声が聞こえた。
(復讐してもいいんだ。何も考えずに君の好きなように動けばいい。大丈夫。僕もすぐに行くよ。今すぐ君の元へ行く)
胸の奥がじんわりと暖まるような慈愛に満ちた声だった。
梨恵が陶酔していると五人が一斉に飛び掛かってきて、ひとりが腹に乗っかり、他の人間が腕や足を押さえつけた。恐怖心は起きない。逆に彼女たちへの憐れみが煙突から吹き出す白煙のように一筋だけ立ち上ってくる。哀れな女たち。人を虐げることでしか自分の存在を誇示できない、ちっぽけな自己顕示欲に酔いしれる卑小な者たち。彼女たちの人生を書き綴るのに五
行も要しない。三村梨恵をいじめて喜び続けた。たったそれだけの人生。
腹に跨った女は、誰かから受け取った整髪料の缶の蓋を開けた。目が透き通った硝子玉のようだった。焦点が動かず、これから自分が行う残虐な行為を想像して歓喜に浸るような顔つきだった。梨恵もそれをぼんやりと見つめていた。
(好きにしていいんだ)
もう一度、声が聞こえてきた。梨恵の好きに行動してもいいらしい。だが具体的にどうやって人に危害を加えれば良いのかがわからない。梨恵はこれまでに人を殴ったことがなく、どうすれば拳が固く握れるのか、どこを打てば痛むのか、力の加減がわからなかった。
(ただし、まだ殺してはいけないよ)
それで梨恵は納得した。好きにしていい。しかし殺してはいけない。即ち、殺さなければ何をしても良いということだ。ボコール。そう返事しようとしたが声が出せなかった。
整髪料の缶が挿入されたらしく、それが前歯にぶつかって発声を阻む。泡状のムースが口いっぱいに詰め込まれ、耳の奥でしゅうしゅうと木霊した。口腔に苦みが広がる。だが不快ではない。すべてを許そう。彼女たちもこれから同じことを味わうのだから。
梨恵は押さえてつけられた腕を強引に引き抜くと、整髪料の缶を叩き落とした。腹に跨る女が焦心するように目を見開く。足をばたつかせて後方の女を蹴った。力いっぱい蹴り上げると驚倒の悲鳴が聞こえた。のしかかっていた付加が取り除かれ、梨恵は身体を起こした。
「なによ。逆らうつもり?」
尻餅をついた小野純が、それでも挑戦的に梨恵を睨みあげてくる。
他の四人が埃を払いながら立ち上がり、目を細めて梨恵ににじり寄ってきた。怖くはない。恐怖を感じるのは梨恵ではなく、奴等の番なのだ。
梨恵は手近にいる女の手首を捕まえ、右に振り回した。遠心力のせいか、想像していたほど力を入れなくてもずっと簡単に旋回させることができる。彼女は絶叫マシンに乗った時のように声も出せず、恐怖に強張った顔で支点となる梨恵を見つめていた。壁にぶつけるために、タイミングを計って手を離した。取りまきは胸から派手に衝突して、滑るようにずるずると腰を下ろす。その背中を何度も蹴り、地面に落ちた吸い殻を踵で踏みつぶす要領で彼女の首筋に靴底をおしあてる。途中、彼女は蛙の鳴き声めいた声を出していた。まずはひとり。
小野純の顔色が変わった。
梨恵は純に標的を定めると、突進してその胸倉に掴みかかった。無論、相手も抵抗して手を伸ばしてくる。汚い罵声が聞こえた。だが正確には何と発声しているのかはわからない。どうせ覚えていても意味がない幼稚な雑言だろう。小野純の襟首を締め上げると、彼女は簡単に浮き上がった。体重を感じないほど軽い。空気の詰まったビニール袋みたいだ。
試しに梨恵は片手を離してみた。それでもやはり軽く、小野純を掲げたまま振り子のように左右に揺らすこともできる。梨恵は空いた右手を握りしめ、純の腹に何度も打ち当てた。悲鳴が轟く。やめて。痛い。そんな甲高い声が聞こえる。だが梨恵は手を休めなかった。今までに梨恵が懇願して、彼女たちが許してくれたことがあっただろうか。
純の口から唾液が滴ってくる。顔を苦痛に歪ませ、涙まで流して許しを請いてくる。
梨恵はずっと彼女たちに問いたかった。
人を殴って楽しいのか。暴力はそれほどの愉悦をもたらすものなのか。ようやくそれが理解できる。梨恵は今、心から暴威を楽しんでいた。人を虐げ、地に這いつくばらせて見下ろし、存分に蹂躙することができる。それが単純に楽しかった。
変則的な速度で息を吸い込むようになったので、梨恵はようやく純を解放した。使い道のなくなった玩具を放り投げるようにポイと打ち捨てる。――これでふたり。
梨恵は顔をあげて残りの三人を眺めた。
一様に歯を食いしばり、目を見開いて、足を踏ん張りながら何とか起立姿勢を保っている。
つまらない虚勢だ。三人の指先が大きく震えていることを、梨恵は見逃していない。
三人は互いに顔を見合わせ、決意したように頷いた。間をおかず一斉に飛び掛かってきたが蝿がまとわりつく程度の力しか感じない。梨恵が腕を振り払うだけでひとりが吹き飛び、ひとりが躊躇して足をとめた。勢い余って躓いたひとりが梨恵の腕にしがみつき、決死の覚悟で噛みついてきた。歯が皮膚に食い込む。だが軽く爪を立てられた感触があるだけで痛みはない。
梨恵は彼女の腕を捕まえて、自分から引き剥がした。
「ひっ」
梨恵は陰鬱な無表情のまま、彼女の腕に噛みついた。歯をたてて、固形物を咀嚼する時のように思いきり口を閉じる。弾力があって噛みきれない。梨恵の耳に心地よい絶叫が飛び込んできた。痛みを顕わす危険信号――悲鳴。獣の咆吼のような野太い悲鳴が、こんなに気分を高揚させるものだとは今まで知らなかった。
彼女は無作為に梨恵の身体を打って抵抗してくる。だが、離すわけにはいかない。許して。離してよ。彼女は泣き叫びながら、梨恵の背中や脇腹に応戦してくる。もっと許しを請えばいい。その恐怖感が梨恵にも伝わってきて、歓喜のために背筋がぞくぞくする。梨恵は顎に力をこめて、もっと強く歯を押し込んだ。一際高い悲鳴が聞こえた時、梨恵と一体になっていた女の腕が離れた。梨恵の口許には生暖かい血液が付着している。味はよくわからなかった。
剥き出しになった彼女の二の腕には半月のような穴が生まれている。血まみれの腕を押さえて無様にのたうち回る彼女を眺めつつ、梨恵は肉片を噛み続けた。しかし、三時間前のガムが口に残っているようで味気ない。捨ててしまおうかとも思ったが、梨恵を殴る時に彼女がいつもガムを噛んでいたことを思い出した。梨恵はいつまでも肉片をくちゃくちゃと噛み続けた。
絶句していた残りのふたりは、友人の悲鳴を耳にしながら微動だにできずにいた。放心した顔で梨恵を見つめ、口唇を震わせている。その口唇の動きは、許してと動いたようにも見えたが、化け物と言ったかもしれない。
左右の手でふたりの髪を鷲掴みにして、地面を引きずり回す。自分でも不思議なほど力が漲っていた。よく見ると、太かった自分の腕はさらに二倍ほど厚みを増し、筋肉が盛り上がっているのがわかる。脱色した彼女たちの痛んだ髪は途中で切れてしまい、なかなかすべてを抜くことができない。悲鳴が聞こえる。戦慄を孕む悲鳴が梨恵の脳内にとけて、多くの快感物質を発生させる。梨恵はふたりを連れて、校舎の脇に敷かれた砂利に向かった。そこにふたりを俯せにして並べ、他の三人も同様に並べる。打ち上げられたばかりの鮪が横たわる漁港を思い出した。これは鮪だ。人間じゃない。
梨恵は右から順に彼女たちの後ろ髪を掴みあげ、力いっぱいその顔面を砂利に打ちつけた。
砂利の中には突起のある石も混じっている。額がぱっくりと割れて、鮮血が石にこびりついた。はじめは抵抗していたが、やがて動かなくなった。梨恵は隣りに移動し、同じように顔面を砂利に打ちつけた。悲鳴があがる。手足を動かして、ここから逃れようと必死に暴れる。だが力で梨恵に勝てるはずがない。梨恵は容赦なく何度もその反復運動を繰り返した。大量の血が流れるまで彼女の髪を離さなかった。
五人に一通りの制裁を加えたところで一息つくと、満足感が溢れ出す。彼女たちの上に立ったという優越感が梨恵の胸をいっぱいに満たした。それも束の間、梨恵は何かに反応するように顔を上げた。北の方向に首を向けると、若い男が梨恵の元を目指して悠然と歩いてくる。
「ボコール……」
男を迎えようと、梨恵は重い足取りを促した。再会するなり、梨恵は何も言わずに男の背後に寄り添う。男は目を巡らせて状況を把握すると、ふむと頷いた。
「良い子だね君は。僕の言葉通り、殺してはいないようだ」
男は身を屈めて、血塗れで横たわる五人の身体を順に覗き込んでいった。サフラン色の大きな石がついた指輪をはめた左手で彼女たちの背中に触れてゆく。すると意識を失っていた彼女たちが、次々と呻き声をあげて覚醒していった。
男は自らの手を貸して、彼女たちを起きあがらせた。梨恵はそれを黙って見ている。男が何をしようとも止める気にはならない。彼が世界の摂理であり、基本の主柱であるのだ。彼の行動には意味がある。だから口を挟む気もない。男の慈悲が彼女たちを救うのなら、それはそれで構わない。その程度の感慨しか湧かない。
男は優しい口調で、取り巻きのひとりに話しかけた。
「君はなんて名前だい?」
彼女は無意識のうちに自分の名をつぶやいた。男は悲しげに首を振って隣りに移動し、同じように名前を聞き出していった。五人目――いじめの主犯格だった小野純の名を耳にした時、ようやく顔を綻ばせて指をぱちんと弾く。
「君は運がいい」
それから梨恵を振り返った。言葉を聞かなくても、自分がすべきことを梨恵は知っている。
無感情に小野純の足を引きずって、他の四人から引き離す。半ば意識が戻っているようで、梨恵の顔を見た瞬間、悲鳴をあげて抵抗しようともがいた。だが余力が尽きたようで、結局何
もできずに顔面の血を拭うだけだった。
梨恵が黙然と歩いて男の元に戻ると、男は慶福に笑んで進言した。
「残りは君の好きにするといい。僕は止めないよ。君の思う通りに、君の望むままに動いて構わない。君が受けた苦痛と屈辱を晴らす絶好の機会は今さ」
語尾を聞き終える前に、梨恵は足を弾ませて四人の元へと跳躍した。獣が獲物を捕らえる動きに劣らぬ敏捷さだった。ひとりの喉笛に噛みつき、腕に爪を立てる。細い手首は小枝のように折れたが、思ったより傷がつかないし、悲鳴もあがらないのでつまらない。梨恵は砂利の中からなるべく大きな石を選び、それをしっかりと握りしめた。
その石でひとりの後頭部を思いきり殴りつける。血が溢れ出したが、なかなか陥没しない。
梨恵は何度も殴りつけた。頭蓋骨が原型を無くすまで殴り続け、他の三人も同じように殴って回った。死んだ。死んだかもしれない。息が途絶えたような気はする。
梨恵は黙って血が流れるさまを見つめていた。一定時間をすぎると傷口からの凄まじい噴血がやんだ。破壊した頭蓋骨に注目していると、髪を伝った血が耳や頬に流れ、いつしか砂利を浸食していった。黒く酸化した古びた血液の上に新たな生命の根源が追加されてゆく。
ふたたび満足感が溢れ出した。
振り返ると、男が小野純を抱き起こして念仏を唱えている。念仏の知識などないが、本当に経典を呼んでいるような単調な口振りだ。
日本語ではない気がしたが、そんなことはどうでも良い。男の声は、彼女たちの痛烈な悲鳴よりもずっと心地よかった。梨恵は目を閉じてそれに聞き入る。安らぎ。癒し。そんなものが本当にこの世界に存在するのならば、それは男の声に違いない。
やがて抑揚の欠けた小野純の声が耳に届き、梨恵はそちらに目を向けた。純は男の御前に立ち、旧日本軍式の敬礼をしている。ボコール。何と崇高で甘美な、至上なる響きだろう。
そう――ボコールこそが世界の全てなのだ。
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