第20話 朱色の春風
「……外、ちょっといい?」
声は静かだったが、不思議とよく聞こえた。
「……ああ」
頷く。
カラン。
夕方の空気が、すっと流れ込んできた。
さっきよりも、空の色が濃くなっている。
オレンジと紫が混ざったような、曖昧な色。
少しだけ、ひんやりした風がアスファルトを撫でる。
「……静かね」
凛が言う。
「中がうるさすぎるだけだろ」
「それはそう」
くすっと笑う。
その笑い方が、少しだけ柔らかい。
「……ああいうの、嫌いじゃないけどね」
「どれだよ」
「騒がしいやつ」
「澪か」
「主にね」
「だろうな」
少しだけ間。
沈黙が落ちる。
でも、気まずくはない。
風の音が、少し聞こえる。
「……ねえ」
「ん?」
「さっきの」
「どれだよ」
「店のこと」
少しだけ視線を逸らしながら言う。
「……あれ、本気で言ってるから」
「……」
言葉が一瞬止まる。
「すごいと思ったの」
続ける。
「ちゃんと見れば分かる。
適当にやってる人じゃ、ああはならない」
「まあな」
「……慧ってさ」
「ん?」
「なんで隠してるの?」
「……何を」
「全部」
即答。
逃がさない声。
「競技の実力も、店のことも」
さらに一歩、詰める。
「クラスでは何も言わない。
自分からは絶対に出さない」
視線が、真っ直ぐ突き刺さる。
「なんで?」
「……」
言葉が、少し詰まる。
「自慢できること、いくらでもあるでしょ」
「……」
「なのに、”何もない人”みたいにしてる」
一拍。
「それ、意味分かんない」
はっきりと言い切る。
俺は長く息を吐いた。
「……別に」
いつもの調子で返そうとする。
「普通だろ」
「普通じゃないわよ」
即座に潰される。
「むしろその”普通”が一番おかしい」
「……」
「ねえ」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「ちゃんと答えて」
「……昔、ちょっとな」
「ちょっと?」
「厳しい人がいて」
言いながら、少しだけ視線を外す。
思い出す。
無駄に静かで。
無駄に圧があって。
無駄に全部見透かしてくる、あの人。
「その人に、いろいろ叩き込まれた」
「叩き込まれたって……」
「文字通りだな」
軽く言う。
でも、少しだけ笑う。
懐かしい。
「……その人、好きだったの?」
一瞬だけ間。
「……ああ」
短く答えた。
「めちゃくちゃ尊敬してた。怖かったけどな」
「……ふふっ」
凛が笑う。
「なんか想像できる」
「なんで?」
「慧がそういう顔するの、珍しいし」
「どんな顔だよ?」
「ちょっと優しい顔」
「それ普段どうなんだよ!?」
また笑う。
でも、凛の目は、まだこっちを見ている。
「……それで?」
「……」
分かってる。
そこじゃないって。
「……言われたんだよ」
ぽつりと。
「その人に」
少しだけ間に言葉を選ぶ。
あの声を思い出す。
低くて。
ぶっきらぼうで。
でも、やけに残る声。
「――”強い奴ほど、間違えた時に取り返しがつかない”ってさ」
夕焼けが、ゆっくりと沈んでいく。
その色を見ながら、俺はぽつりと続ける。
「”力があるってことは、それだけで選択を間違えた時の被害がデカくなる”」
風が吹く。
少しだけ冷たい。
「”だから、自分を信用しすぎるな”って」
一拍。
「”『使えるから』で使うな。使わなくて済むなら、それが一番いい”」
夕焼けが、少しだけ濃くなる。
「”強さはな、誇るためにあるんじゃない。後悔しないために、抑えるためのものだ”って」
「……」
凛は、すぐには何も言わなかった。
ただ、じっと俺を見る。
探るみたいに。
確かめるみたいに。
「……それ」
ゆっくりと口を開く。
「その人の言葉?」
「ああ」
「……その人、さ」
少しだけ視線を落とす。
「間違えたこと、あるんじゃない?」
「……」
一瞬だけ、言葉が止まる。
図星だ。
「……だろうな」
短く返す。
「だから、ああいうこと言うんだと思う」
軽く言ったつもりだった。
でも――どこか、重さが残る。
「……優しいね、その人」
「そうか?」
「うん。自分の失敗、ちゃんと覚えてる人だもん……でもさ」
一歩、近づく。
「それ、あんたが全部背負う必要なくない?」
「……」
「その人の後悔でしょ、それ」
言葉が、真っ直ぐ刺さる。
「……まあな」
「じゃあ」
さらに一歩、距離が縮まる。
「なんで慧まで、同じ縛り方してるの」
「……」
答えに詰まる。
言われたことがなかった。
そういう風に。
「……別に」
視線を逸らす。
「縛ってるつもりはない」
「嘘」
間髪入れず。
「めちゃくちゃ縛ってる」
「……」
少しだけ声が落ちる。
「怖いんでしょ」
「……っ」
心臓が、どくんと鳴る。
「間違えるの」
その一言で、全部見透かされた気がした。
「……」
何も言えない。
代わりに、沈黙が落ちる。
夕焼けが、少しだけ暗くなる。
「……でもさ」
凛が、ふっと息を吐く。
夕焼けの光が、その横顔をやわらかく縁取る。
「それって、すごくもったいないと思う」
「……何が」
「全部」
迷いのない声だった。
一切の揺らぎもない、まっすぐな断言。
「間違えないようにって、ずっとブレーキかけてたら」
ほんの少しだけ、声が落ちる。
「”間違えない人生”にはなるかもしれないけど
一拍。
「――”何も選ばなかった人生”になるわよ」
「……」
「それに」
ほんの少しだけ、視線を逸らす。
夕焼けの光が、頬にかかって――ほんのり赤い。
「強さってさ」
一歩、近づく。
距離が、静かに縮まる。
「別に、自分の中だけにしまっとくものじゃないでしょ」
「……」
言葉が出ない。
「誰かが見て、安心したりとか」
一瞬、間が空く。
呼吸を整えるみたいに。
「……頼りにしたりとか」
さらに、小さく。
「……好きになったりも、するんだから」
「……は?」
思わず聞き返す。
今、なんて言った?
「……何でもない」
ぷいっと顔を逸らす。
でも、耳が赤い。
「とにかく!」
ごまかすみたいに、少し強めの声。
「見えないものって、不安になるし!
見えた方が、ちゃんと信じられるわけ。だから」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「隠してばっかりなの、ずるい」
ほんの少しだけ、拗ねたみたいに。
でも、その奥はまっすぐで。
「知りたいのに、見せてくれないじゃん」
「……はぁ、別に」
視線を逸らす。
「見せるようなもんじゃない」
「そんなわけないでしょ」
即答する。
「あと、自分で決めることじゃないわよ。それ」
「……」
「見る側が決めるの」
少しだけ笑う。
でもその目は、真剣で、
「……私は」
一瞬だけ、言葉を選ぶ。
「見たいけど」
心臓が、跳ねた。
意味もなく、息が詰まる。
たったそれだけの言葉なのに。
「……ダメ?」
ほんの少しだけ、凛の声が揺れる。
その”弱さ”が、胸に刺さる。
「……考えとく」
絞り出した言葉。情けないくらい、曖昧で。
でも――嘘じゃない。
「なによそれ」
凛が、くすっと笑う。
その笑顔は、どこか安心したみたいだった。
「でもまあ」
腕を組んで、少しだけ視線を逸らす。
「逃げなかっただけ、合格」
「基準低くないか?」
「これでも譲歩してるの」
「ありがたいな」
「ほんとよ」
ちらっと視線が合う。
すぐ逸らされる。
――可愛い、と思った自分を本気で殴りたい。
「……じゃあ、約束ね」
今度は、真っ直ぐ。
逃げ場のない声。
「ちゃんと考えて」
「……ああ」
短く答える。
それだけなのに。
何かが――確かに動いた気がした。
風が吹く。
凛の髪が揺れて、夕焼けに溶ける。
「……慧のそういうとこ」
ぽつりと、小さく。
「嫌いじゃない」
――止まる。
全部が。
思考も、呼吸も、時間も。
その一言で、完全に奪われる。
静かだった。
何か言わなきゃいけないのに――
「慧センパァァァァァァァイ!!」
……全部、ぶち壊された。
「4回目いきます!!」
「は?」
――ドォォォォンッッッ!!
「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!」
「威力上がりすぎだろ!!」
「進化しました!!」
「するな!! ていうかなんで進化方向そこなんだよ!!」
「より感動的な悲鳴を追求しました!!」
「いらねぇ研究成果!!」
店の前で爆発音。
完全に通報案件だろこれ。
「近所迷惑だわ!!」
「すみませーん!! でも止められませーん!!」
「止めろ!!」
もう無茶苦茶だ。
さっきまでの空気どこいった。
返せ。
俺の心臓返せ。
その騒音の中で――
「……」
「……」
凛と一瞬、目が合う。
ほんの一瞬。
でも、やけに長く感じた。
さっきまでの爆発音も、叫び声も、全部遠くなる。
世界の音量が、少しだけ絞られたみたいに。
視界に映るのは――凛だけ。
そして――
どっちからともなく、吹き出した。
「……っ、はは……」
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
肩が震える。
呼吸が、少し乱れる。
「……もう」
凛が、小さく息を吐く。
呆れたみたいに、でもどこか笑いを含んだ声で。
「ほんと、あの子……」
「まあ、あいつだしな」
「それで納得できるのが悔しいのよ」
「分かる」
短く笑う。
澪はまだ煙に包まれている。
白く立ちこめるそれが、春の空気を濁らせて、ゆっくりと流れていく。
そのすぐ隣で、斗真が見事に巻き込まれていた。
少し離れた場所では、
伊藤がその光景とは無関係みたいに、魔導具をじっと眺めている。
さらにその後ろで、優里先輩と柳先輩が静かに佇んでいる。
止めるでもなく、騒ぐでもなく、ただその一部始終を見守っているだけ。
この混沌さえ、日常の一部として受け入れているみたいに。
――いつも通りの、騒がしい光景。
そして、凛が隣にいる。
ほんの少し前までの距離とは違う、自然な近さで。
触れてはいないはずなのに、確かにそこにいると分かる距離で。
同じ方向を見て、同じ空気を吸って、何も言わずに並んでいる。
朱色に染まった春の風が、ふわりと吹き抜ける。
その風は、まるで背中を押すみたいに――
ほんの少しだけ、前へ進めと告げていた。
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