砂漠の秘薬にご用心!11
カシャン、と乾いた卵の殻のような音を立てて割れたのは、つみれが手にしていた水差しだった。それは決して耳をつんざくような派手な音ではなかったが、静寂を破るには十分だった。デルテアネには何も分からなかった。なぜここで水差しが割れたのか、誰か自分のことを見にきたのか、そもそも誰なのか。
相手の出方を伺うしかない。デルテアネはただひたすらに、アルトを隠すように覆いかぶさると息を殺した。部屋を間違えたメイドだろうか、こんな時間に?
三十秒も経過していないはずだが、脂汗が額から頬を伝って、ゆっくりと粘るように落ちるのがありありとわかる。この不快さに身が焼き尽くされてしまいそうだ。デルテアネは決意した。また再び、蠍尾がゆっくり脈打ち、だした。どうせ迷い込んできたメイドだろうし、それが一人くらい消えても構う者などいないだろう。
突起した毒針が転を仰ぎ、狙いを定めるべく揺れ動く。暗い寝室のベッドから立ち上るその優美なくねりに視線が吸い寄せられ、ふとバランスを失ったつみれは、ふいに自分が落とした水差しの丸いフォルムで足を滑らせた。
「あ、えブフォエッ!?!」
目玉が一回転したんではというくらいその場で派手に宙を舞う。そして石柱に頭をぶつけて止まった。文字通りの、静止だ。ただ、その身もふたも無い叫び声に、デルテアネはそこにいたのがつみれだとやっと判った。
「…………も、しかして、聖者、様?……」
呆然とした顔で、デルテアネはやっと質問を絞り出した。いつも落ち着いて余裕のある彼女の声には聞こえない、掠れた声だった。妙に喉が渇く。
返事は無かった、というよりは返事ができるような状態ではなかった。つみれは床に仰向けにのけぞり返ったままだ。まるで質問は暗闇に吸い込まれてしまったかのように、再び沈黙だけがあたりを包む。デルテアネは不安になった。どうしてこんなところにつみれがいたのかは分からないし、どうやら何かに躓いて頭を打って倒れているようだが、まさか他国、それも砂漠の外から来た、王室で重用されている聖者様を殺したなどという噂を出回らせるわけにはいかない。デルテアネは唾をごくりと飲み込むと、様子を確認するためゆっくりとベッドから音もなく這い下りようとしたところで、つみれが目を覚ました。あんなにひどく頭をぶつけていたはずなのに、まるで何も無かったかのように勢いよく飛び起きるとそのまま、
「あっデっデルテアっアルトさんっそっそのっ何も見てないっ見てないですごっめんなさいっ!!!!!」
と叫びながらあっという間に駆け抜けて行ってしまった。
「あっ待ってっ」
デルテアネがそう言って引きとめようとしたがもうそのときには遅い。残された割れた水差しだけがむなしく床に転がっているだけだった。その表面に施された美しい螺鈿細工と、中に入っていたのであろうこぼれた水がきらきらと輝いているのがはっきりと見えることに気づき、デルテアネははっとして後ろの窓を振り返った。
美しい玄冥月の満月が、皓々と輝いている。さっきまでは暗雲があんなに厚く覆っていたというのに、突然の雲の切れ目から強く差し込むその光は、不気味なくらい神々しく当たり一面を照らしつくしていた。
まるで、光がつみれの登場に合わせて現れたかのような。
ふとその考えがデルテアネの頭をよぎる。デルテアネは、その場にへなへなとへたり込んだ。急に何か畏れ多いものにでも触れられたかのような気持ちだった。それと同時に、何か心地よい諦めを感じたような気がした。思いがけないつみれの乱入のおかげでアルトを、殺せなかった。それは事実だ。メレニュス第一王女としてやってはならない失態、どうしても外すべきではない一瞬だった。なのに、なぜか救われた気持ちがした。
デルテアネはベッドの上で横たわったままのアルトを見た。さっきと変わらず、自分の毒針のおかげで静かに眠らされているままだ。ただ、月光に隅々まで照らされてレリーフのように浮き上がるその体は、清廉で、一切のけがれがなかった。
デルテアネはまぶたを閉じて祈るような顔をし、それから床にそのまま横たわった。汗がどっとふき出す。なんだか急に疲れたような気がした。そのまま、ベッドには戻らないまま、割れた水差しからこぼれた水に濡れる大理石の上で眠りに落ちた。
うわー今回めっちゃ間があいちゃいました!!!待っててくれてありがとうございます、すごくうれしかったです!




