表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

72/72

おわりに

 三ヶ月間に渡って、このエッセイを執筆してきたが、それも今回で終わりにしようと思う。個人的なエピソードも語れたし、仏教思想に対する意見や見解も述べられたので「ああ、良かった」と思っている。

 筆者の経験不足のせいで、福井県の永平寺、長野の善光寺、山梨県の身延山、奈良の吉野の金峯山寺、京都の神護寺などのエッセイは書くことができなかった。もしこれから先、それらの場所に訪れる機会があったら、特別編として書き加えても良いかもしれない。それはまだ未定である。



 筆者の父方の実家は山梨県にあるのだが、その村の菩提寺のお坊さんは、お葬式の勘定が大好きで、毎年、村人が何人が死んでいくら儲かる、と楽しそうに算盤を弾いている、とんでもない僧侶であった。

 仏教界というものも、世俗と同種のもので、放っておけばいくらでも堕落してゆくものである。世の人は葬式仏教自体が堕落だというが、葬式自体は死者を供養したいという大切な日本人の心なのだと思う。それが、あまりにも儀礼化したり、高い戒名をつけたりしてゆく内に、しまいには人が何人死んでいくら儲かると欲望で算盤を弾くようになってしまうのである。こういうお坊さんには、死者の供養をしようという切実な心が欠如しているのだ。その心こそが堕落なのだと思う。

 こういうことだけは、問題意識としてしっかり持っておかないといけないと思う。そうでないと、どうにも豪華な袈裟ばかり見て、すっかり信じ切ってしまい、何事も鵜呑みにしてしまう。挙句の果てはそれを、疑わずに信じることは良いことだ、などともっともらしいことを言って、そこでピタリと思考を止めてしまう。そうなれば、臨済に棒で打たれるというものである。

 結局は、自分自身で正しいものを見極めて生きてゆくのであるから、他人の姿形に見惚れて、依存してしまってはいけない。仏教の拠り所というのは自分の中の無心に他ならないのだ。それが、自灯明というものなのだそうである。



 それと、勘違いしてはいけないことは「空」も「無我」も「慈悲」も「一即一切」も「円」も「不二」も「無分別」も「智慧」も「真如」も、みな同じことを語っているということである。ただ取り上げる働きや側面が違うだけで、仏教というのは般若思想が生まれた時から一つの真理を語っているだけなのである。

 知人が、このことを勘違いしている節があったので、それだけ、最後に述べておくこととしたい。



 仏教の目指すところは、自我意識から離れた心の平安と他に対する慈悲を目覚めさせること、である。

 世の中では自分の自我を出さず、相手の自我に触れないことが礼儀とされる。これが破られる時、そのような理不尽を、個人対社会という構図で見る傾向がしばしばあるように思われる。

 ある一面においては、そういう社会的構図を想定することが一つの原動力になることはある。しかし、そもそも社会とは、国家権力のような実体のあるものではなく、捉えようもない個人の集合体なのである。

 そんな状況下において、他人の行いに憤慨するあまり、他人に情をかけるのを止めて、まわりに無関心になり、ただ一人だけ幸せになろうとするのは、個人主義というよりも利己主義というものである。仏教は、個人主義なのか共同主義なのかわからないと言われるが、そのどちらでもない。世間の人が思っているような社会に対する個人主義というものは、反抗的精神が因で、強い自我によって成り立っているものである。

 このような個人主義は、個人の権利と自由を宣言し、実体のない社会の理不尽に対抗しようというものであるが、相手が実体がない為に永久に収束せず、心身をいたずらに削ることになるので、あまりお勧めできないのである。

 具体的な人間関係を取り出して見てみれば、それは個人対社会という対立ではなくして、あくまでも個人対個人の問題である。単に他者がさらけ出した自我に、自己の自我をあらわにして対抗しようとするものにすぎないのである。

 それはお互いに、同じレベルで張り合っているだけである。お互いに利己主義に生きようしているだけである。ところが、自らも利己主義になってしまうのは、次第に自らの心を苦しくする一方である。

 本来、個人主義というのは、個別性を尊重するものであって、個人対社会という対立的構図を想起して、自我を爆発させることとは無縁である。個人の権利と、社会の利益というような概念的な対立的構図が、人間の悪の本質を見逃させているのである。

 個人主義と共同主義の混じったところに、すなわち個人と社会の両面において幸福に満たされることが、仏教の目指す境地である。

 打倒すべきは個人でも社会でもなくて、人間の利己心である。そして、それは自我意識から生れ出るものである。

 自我をさらけ出す相手を見たとしても、自分の自我を生み出すことがないように、と思う。



 もう一つ、仏教が指摘しているところは、人に何かを語る時は、心の底から語らなければならないということである。というのは、人間は口先だけで何でも語ろうとする。

 言葉の内容さえ、理屈にあっていれば、自分の悪意が感づかれないものとたかをくくっている。そうして、相手の気を落とそうと思って、皮肉などを言うのである。

 しかし、人間の自我意識から、感情が生まれ、意思が生まれ、そうして思考的な内容というものが生まれてくるのだとして、考えてみよう。

 ある時は、自我意識に基づく劣等感から、嫉妬の念が生まれ、相手を貶めようという意思が生まれ、相手に都合の悪い理屈を人前で語りだそうとするのである。つまり皮肉を言って、恥をかかせようとするのである。その時、他者からみれば、まずその言葉の内容を理解し、相手がそのように語った意思を推察し、そうした意思を作り出す感情を推察し、その感情が劣等感に基づいているというところまで、容易に推察することができるのである。

 つまり、そんな自分の惨めなところまで、まわりにはすっかり見えているわけである。だとしたら、はじめから劣等感など無くし、無我なる心で生きなければ、他人の評価をこじらせてゆくだけなのである。

 また、こうした皮肉を語ることに伴う疲労感は、自分の惨めな感情として記憶されてゆき、それを払拭しようとして、また皮肉を語るなどして、悪魔のジレンマに陥り、人格を狂わせてゆくことになる。これは怒りという感情にも同じ現象が起きるのだが、何にせよ、このような習慣がどんどん心をひねくれてゆくというものである。

 こういうことが、阿頼耶識(根本心)に悪い業種子が蓄えられてゆくということである。それは結果として、苦しみを感じやすい心を作り出してしまう。



 また、嫉妬の念を持つ人間は、上のものだけでなく、下のものにも嫉妬する。見るもの全てに嫉妬するのである。だから劣等感を感じない日がないのである。だから、努力をして上の立場に行ったとしても、今度は下のものは責任が少なくて気楽そうだとか、自分勝手な感情を抱いて、惨めさを感じない日が来ないのである。

 ただ人は生まれるも一人、死ぬのも一人なのである。この人生を歩むのも一人。それをさまざまな物差しを使って、あれやこれやと人と比べようとするが、そんなもので自分の人生の幸せが量れるものではい。この一生は、ただ自分の心が映し出しているものであると、仏教は語りかけているのである。



 だからこそ、無心に生きることが大切である。妄念を捨ててしまうことである。しかし、その妄念なるものもまた空であるから、決してそれを実体視して人間を恐れることのないようにと思う次第である。

 妄念にしたところで、世間の評価や価値観にしたところで、はじめから有って無いようなものである。そういうものを実体視するあまり、身動きがとれなくなってしまっては仕方がない。

 この世が夢のようなものであるというのは、そういう訳である。あると思って掴もうとすると、そこには何もなかったりする。その繰り返しがこの一生というものかもしれない。



 唯識仏教ばかりを考えていると、つい妄念というものを有るものとして考えしまいがちである。しかし、大乗仏教にとって、一番大切なものは般若思想なのである。

 まったくもって「妄念を実体視して、それを起きないように、起きないように、とばかりしている」とかえって苦しみは増すばかりである。ただ「妄念も世間の評価も価値観も全てが空だと知る」と、妄念など、はじめからどこにも無かったものになってしまうのである。

 しばらく、思い違いをしていたが「空なる心が無心」なのじゃない。「妄念も世間の評価も価値観も、全てが空だと知っている心が無心」なのである。



 長い間、読んで下さった方々、ありがとうございました。これは「はじめに」のところでも書きましたが、ここに書かれていることは、筆者の個人的な妄想に過ぎません。気楽な気持ちで、楽しんで頂けたなら幸いです。

 それでは、皆様、またいつか会える日を楽しみにしております。



 まことに、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ