番外編「宰相閣下の過保護な日常」
宮廷の朝は早い。
鳥のさえずりが窓辺で響き、遠くから衛兵交代のラッパの音が聞こえてくる。
僕、ルチアーノ・フィオーレは、あくびを噛み殺しながらベッドから身体を起こそうとした。
しかし、腰に回された重たい腕が、それを許してくれなかった。
「……まだ早い。もう少し寝ていろ」
背後から低く、寝起きの色気を孕んだ声が降ってくる。
銀色の髪を乱したアレクセイ宰相が、僕を抱き枕のように抱え込んだまま、むにゃむにゃとつぶやいているのだ。
「アレクセイ、もう七時です。仕事に行かないと……」
「仕事など、部下に任せておけばいい。そんなことより、お前の体温が離れるほうが国家の一大事だ」
大袈裟すぎる。
この国の宰相が聞いて呆れる発言だ。
僕たちが「番」になってから数ヶ月。
関係は良好どころか、彼の過保護ぶりが日に日に加速していた。
最初は、僕がオメガであることを隠すための警戒心から来ているのだと思っていた。
しかし、どうやら違うらしい。
彼は単に、僕を溺愛しすぎて、片時も離れたくないだけのようなのだ。
「ほら、起きてください。今日は新しい紅茶の香ばしい苗が届くんです」
僕は彼の腕を優しく解き、ベッドから抜け出した。
アレクセイは不満げに眉をひそめ、むっつりと起き上がる。
「……あの新人薬師か? 最近、お前に馴れ馴れしいと噂の」
「違いますよ。商会の配達員です。それに、誰も馴れ馴れしくなんてありません」
僕は苦笑しながら、着替えのシャツを手に取った。
確かに最近、薬務室に配属された若いベータの青年が、熱心に質問に来てくれることはある。
でも、それは純粋な向学心からであって、他意はないはずだ。
アレクセイは鋭い眼光で僕を見つめ、低い声で言った。
「油断するな。お前は無自覚だが、その……薬草の匂いに混じった甘い香りは、虫をおびき寄せるには十分すぎる」
「またそんなことを……ちゃんと抑制薬も飲んでいますし、匂い消しもつけています」
「それでもだ。私の鼻は誤魔化せん」
彼はベッドから降りると、僕の手からシャツを奪い取り、自分で着せようとしてきた。
ボタンを一つ一つ、丁寧に留めていく指先が、わざとらしく肌に触れる。
「自分で着られますってば」
「じっとしていろ。襟元が乱れていると、他の男に見られるだろう」
彼は一番上のボタンまでしっかりと留め、さらに首筋に残る赤い痕――数日前に彼がつけたキスマーク――を確認するように指でなぞった。
「よし。これなら、誰のものか一目瞭然だ」
満足げに頷く宰相閣下。
僕はため息をつきつつも、その独占欲を心地よく感じてしまっている自分に呆れた。
***
昼下がり。
僕は薬務室で、届いたばかりの苗の仕分け作業をしていた。
土の香りと緑の匂いに包まれる時間は、何よりも心が安らぐ。
「ルチアーノ先輩、これ、どこに置けばいいですか?」
件の新人薬師が、重そうな木箱を抱えてやってきた。
爽やかな笑顔を浮かべる好青年だ。
「ああ、それは奥の棚に……待って、重いだろう。僕も手伝うよ」
僕が手を貸そうとした瞬間だった。
室内の温度が、急激に下がった気がした。
背筋に走る悪寒。
入り口の方を振り返ると、そこには氷の彫像のように無表情なアレクセイが立っていた。
背後には、黒いオーラが見えるような気がする。
「……アレクセイ様?」
新人が驚いて箱を取り落としそうになる。
アレクセイは音もなく近づいてくると、僕と新人の間に割って入った。
「重労働は衛兵にさせろと言ったはずだが?」
「い、いえ、これくらいなら自分たちで……」
「ルチアーノの手は、薬を調合するための繊細な道具だ。粗末な木箱などで傷がついたらどうする」
彼は新人を睨みつけると、指を鳴らして控えていた近衛兵を呼んだ。
「これを運べ。そして、今後この薬務室の力仕事はすべてお前たちがやれ」
「はっ!」
衛兵たちが慌てて箱を運び出していく。
新人は顔を青くして、何度も頭を下げながら退散していった。
残されたのは、呆気にとられる僕と、不機嫌そうな宰相だけ。
「……やりすぎです。あの子、怯えていましたよ」
「虫除けにはちょうどいい」
彼はふん、と鼻を鳴らし、僕の手を取ってじっと見つめた。
「指先に土がついている。……洗ってやる」
「自分で洗えます!」
「ならん。私の目の届くところでやれ」
結局、僕は執務室に連行され、彼の手によって丁寧に手を洗われることになった。
温かいお湯を入れた洗面器の中で、彼の手が僕の指を一本一本、愛おしそうに撫で洗いしていく。
その光景はあまりに背徳的で、そして甘美だった。
周囲の侍女たちが、見ないふりをしながらも顔を赤らめているのが分かる。
「……綺麗になったな」
彼は僕の手をタオルで拭き、最後に指先に口づけを落とした。
「これで仕事に戻っていいぞ。ただし、夕刻には必ず迎えに行く」
過保護にも程がある。
でも、彼の瞳の奥にある不安――かつて失うことを恐れていた孤独な少年の影――を見ると、僕は何も言えなくなるのだ。
「はい。待っています」
僕が微笑むと、彼はようやく安心したように表情を緩めた。
この最強で最弱な恋人を、僕は一生かけて支えていくしかないらしい。
やれやれ、と思いながらも、僕の足取りは朝よりもずっと軽かった。




