序章 1 まえのはなし
歯車が至る所で回っている。鏡は反射し、光は無尽蔵な虚像を形作る。冷たい大理石が足を冷やし、彼女は思わず足を引く。ベッドの上に座る彼女は辺りを見渡している。つまり、何もない空間を、どことなく、見かけている。
「あれ、どうしました?」
そう語りかけてくる人がいた。
「いえ、どうということはないのですが。」
そう少女が語る。彼女はベッドから立ち上がり、少し不安そうに話しかける者を見上げた。
「はぁ、しかし、なんですな、こんなに若い時分からこんなところにいるなんて。」
少女は不思議そうな顔をする。
「はぁ、して、ここはどこでしょうか。いかんせんここに来た記憶がないのです。」
そういうと、語りかけるものは少し笑いながら鏡の方に近づいてゆく。はじめて顔が見えた。痩せ細った。どうしようとないような、不幸な顔の男だ。
「ここは寝室です。ベッドがありますし、それに大抵の場合、寝室には鏡があります。」
少女は別にそんなこともなかろう、と思いながら、男の方に近づいてゆく。男は何も言わず、ただ鏡の向こうをのぞいている。うすら寒い笑みを浮かべながら。
少女は色々観察してみた。してみると、ここには様々な事があることに気がつく。事、つまり音や生、文化や言葉が、満遍なく積まれている。それらが決して汚くはない音色と色彩をもたらし、この部屋を純粋な無音と無彩にしてみせる。右ににある、戦争が特に痛かった。
少女は一歩を踏み出してみる。すると田園が見えてくる。田園、未だ都市とならないこの農村は、自然的なローマンを携えて、純粋な緑の風を携える。
そして目が覚めた。今はもう現実だ。不安が募って仕方ない。
「あ、夏可ちゃん」
「あぁ、春実ちゃん。おはよう。」
「最近どう、詩の方は。」
「ダメ。全然、外国のも読むようになったんだけど、でもやっぱり時分でやるのは難しいな。」
春実は学生服をひらひらさせながら、夏可の横隣を歩き出す。夏のことだった。つまり、蝉が鳴いて、風が吹き、入道雲が我々を壮大にさせてくれる。そんな季節のことだったのだ。夏可は、自分自身の詩を信じていた。
キリスト教徒が、神を信仰するように。自らの詩の才を、信じていた。彼女は献身的で、学べることはとにかく学んだ。実に、彼女は英雄であった。
歩きながら夕陽が訪れた。夕陽は横に長いスペクトルであり、つまるところ、科学的な芸術であり得た。風が吹く少女らに触れる。少女らの艶かしい肌に、風が触れ、体温を奪いゆくのだ。これこそが実に、真のエロティズムなのでは?
少女らは道の別れで別れ、帰路に着く。夏可は、不安を抱えて帰っていった。隣のあの子はあの男の子が好きらしい。あの先生は実は近いうち結婚するらしい。今日の夕飯はなんだろうか。…私も、恋ができるだろうか。
こんなことを考えている。そんなに中に一つの不安が入り込むのなら、それはどれほどの不安なのだろうか。不安というのは、戦時中ではなく、むしろ平時にこそ現れるものなのだ。一体全体、このようなか弱な少女に訪れる絶望というのは、全くどんなものなのだろうか。




